羅切師の空白
高校3年の、梅雨前の蒸し暑い放課後。
窓の外では、グラウンドの泥と声が混ざって、普通の青春が続いていた。
けれど、その輪の中に自分はいない。
更衣室の前を通ったとき、
誰かが笑いながら言っていた。
「暑っ、マジで蒸れる」
一瞬、足が止まる。
……蒸れる。
その感覚を、思い出そうとして、やめた。
分かる必要もない。
ただ、その言葉だけが少しだけ残った。
股間には、ただ静かな「空白」があった。
排泄のための無機質な穴、男でも女でもないその場所は、周囲からは「哀れな奇形」と呼ばれ、自身にとってもただの冷たい『空白』に過ぎなかった。
その日の夕暮れ、誰もいない薄暗い十畳間で、仏壇の重い扉を開いた。
線香の残り香が澱む奥底に収められていたのは、古い桐箱だった。
そっと蓋を持ち上げると、虫食いだらけの和紙に包まれた本が姿を現す。
仏壇の奥にあったのは、一冊の古い本。
『羅切師乃本』。
紙の匂いが、妙に重かった。
ページをめくる。
意味の分からない漢字が並んでいる。
少しだけ眉をひそめる。
『変錬術 巻之参 白地再契ノ法』
およそ羅切の要諦は 肉を断ちて魂を残すにあり
世の人 形を失うを「喪失」と謂うも これ大いなる誤りなり
陰陽の執着を削ぎ落とせし跡は 汚れなき「空白」にして
万物を新たに描き直す 神聖なる器の始まりと知るべし
肉体の境界を書き換えるとは 即ち肉の檻を宥め 天地の理に還す技法なり
血を注ぎ 骨を念じ 息を重ねて 肉の殻の外にて種を再び契ぶ
これ「再契ノ儀」なり
絵図に描かれしは 一粒の光を囲む 四つの影
外側の空白を持つ者 内側の真実を秘める者
逆転の身体を持つ者 自ら形を選び取る者
この四つの羅切子の気交わりて 肉なき処に新たな命の灯は灯る
胸は命を育む器であり 決して男女の性に属するものにあらず
「白乳の法」を修むれば 境界を超えて白い祈りは溢れ流る
その乳は 愛欲の残り香を排せし 純然たる慈悲の結晶なり
陰間茶屋の底 あるいは大奥の長局にて 息を潜めし境界の者たち
彼らはこの法を以て 血なき契りの子を育みたりと伝う
古の羅切師は この「白地の子」を至高の器として尊べり
外なる形を一切持たぬその空白は 天意の宿るべき唯一の聖域なればなり
内側に沈黙の真実を抱く者が その聖痕に涙する時
外側の空白は そのすべてを受け止める無垢なる盾となる
此の符合 決して偶然の悪戯にあらず
然れど 巻末の墨の下に 祖父が隠せし大いなる「禁戒」あり
『羅切師は 己が身に術を施してはならぬ。
ただし――白地の子を得た時は、この限りにあらず。』
この一節の先は 何故か固く閉じられ 文字は途切れたり
禁忌の扉が開く時 四人の血脈は揺らぎ 新たな変錬が始まらん
……と記されていた。
「……読ませる気あるのか、これ」
誰もいない部屋で、声が漏れた。
表紙に躍るその文字を見た瞬間、指先がかすかに強張った。
それは、泰代のお爺ちゃんの家にあった本と、全く同じものだったからだ。
なぜ、あの一族の奇妙な記録が、自分の家の仏壇に隠されているのか。
まだ高校生の頭では、その意味がうまく結びつかなかった。
ページをめくると、薄暗い部屋の蛍光灯の下で、「白地」や「再契」という不気味な漢字の羅列が目に飛び込んでくる。
メンデルの法則やDNAの二重螺旋といった、教科書の整然とした世界とはあまりにもかけ離れた、歪で、しかしどこか甘やかな呪術の記述。
「……汚れなき、空白」
かすれた文字を指先でなぞった瞬間、ズボンの帯の下で、妙な衣擦れの感覚が走った。
そこに書かれていたのは、
“空白は、終わりではない”
その一文だった。
一般的な高校生なら誰もが覚える、下着が肉に擦れる不快感や、熱を持った皮膚の密着感が、乃雅のその場所には存在しない。布地がただ、何もない平坦な皮膚の上を滑る、ゾッとするほどの摩擦のなさ。
後に
泰代は、女自身もまだ言葉にできない「内なる真実」を隠すように、
無意識に自身の薄いシャツの胸元の沈黙をかばうように、指先を彷徨わせていた。
西日が畳の目を長く割り、部屋の半分を濃い影で満ちていく。
二つの家に遺された、全く同じ禁断の書。
それが今、乃雅の「外側の空白」と泰代の「内側の真実」を繋ぐようにして開かれている。
「……うん。おんなじだ」
乃雅の声は、まだかすかに低音の混じる少年のものだった。
その時の乃雅には、この符合が何を意味しているのか、これっぽっちも分かっていなかった。
けれど、夕闇が十畳間を飲み込んでいく中で、二人の歪な身体の輪郭が、まるで最初からそうなるように設計されていた鋳型のように、ぴったりと重なり合っていくような錯覚を覚えた。
今思えば。
あの息の詰まるような高校3年の初夏こそが、形を持たない僕たちの「新しい家族」が産声を上げる、最初の分岐点だったのだ。




