産婦人科診察室にて
幸福は、一夜にして、いとも容易く、お菓子の箱のように踏みつぶされてしまうものなのですね。
あの日、県道の、何の変哲もない小学校の帰り道。私の身体を通り過ぎるはずだった日常が、トラックのタイヤがバーストという、あまりに無機質な偶然によって、永遠に歪められてしまいました。意識を失う直前に聞いた、あの重苦しい破裂音。それが、私の「男の子」としての人生が死ぬ間際の、断末魔だったのでしょう。
大学病院の、白すぎるほどに白い診察室。消毒液の匂いが、鼻の奥をツンと刺します。和田先生は、私の痛ましい沈黙を責めることもなく、ただ静かにカーテンを引きました。
「鏡を、見てごらん」
先生に促され、私は震える手で手鏡を握りました。そこに映っていたのは、かつて私が知っていたはずの、どの性別にも属さない、ただののっぺりとした、滑稽なまでの「空白」でした。
絶望の形:股間にあるべきものが、削ぎ落とされたように平坦で、ただの傷跡としてそこにある。それは「悲劇」という言葉で片付けるにはあまりに清潔で、かえって私を突き放すような冷たさを持っていました。「もう、戻れないのだ」という確信が、冷たい水のように背筋を伝い落ちます。
先生は、私の細い腕に、ゆっくりと針を刺しました。
「これはね、新しい君を作るための魔法だよ」
血管に流れ込んでくるホルモン剤の重み。それが、私の血を書き換え、肉を造り替え、私を「女の子」という未知の地平へと押し流していく。それは救済なのでしょうか、それとも、別の形の奈落への招待状なのでしょうか。
新しい自分への予感:鈍い痛みとともに、胸の奥が微かに疼くような、奇妙な高揚感。失ったものが「男」であるならば、新しく手に入れる「女」は、借り物の衣装のような気がしてなりません。けれど、その借り物の衣装を纏ってでも、私はこの「空白」を埋めなければ、明日を生きていくことさえできない。
鏡の中の、蒼白な顔をした私。その股間の「のっぺらぼう」が、私に冷笑を浴びせているような気がしました。ああ、神様。私はこれから、一体どこの誰になっていくのでしょう。
大学病院の待合室というのは、どうしてあんなに、生温かい絶望が澱んでいるのでしょう。 高い天井から降り注ぐ蛍光灯の光は、まるで標本箱を照らす光のように無機質で、そこに座る人々の顔を等しく、青白く、生気のないものに変えてしまいます。
私は、硬いプラスチックの椅子に深く腰掛け、自分の番が来るのをじっと待っていました。膝の上に置いた手は、所在なげに震えています。ここは、私のような「壊れたもの」が、医学という名の精密な修理を受けるための、冷徹な工場のような場所です。
その時、ふと隣の気配に気づきました。 クラスメイトの、泰代ちゃんでした。
彼女は、膝の上に置いたカバンを、壊れ物を抱くようにして大切そうに握りしめていました。そのカバンの隙間から、見覚えのある白い薬袋が覗いています。私と同じ、和田先生の診察室から渡される、あの「魔法」の薬袋です。
共鳴する孤独:学校では一度も言葉を交わしたことのなかった彼女と、この「境界線の上」で視線がぶつかりました。彼女の瞳の中に、私と同じ、自分の肉体に対する底知れない違和感と、それを必死に隠そうとする傲慢なまでの自意識を見た気がしました。「……のあ君も、ここに来てるんだね」彼女の囁きは、待合室の喧騒の中に、小さな波紋のように広がっていきました。
秘められた連帯:彼女はAIS(アンドロゲン不応症)という、神様の悪戯のような身体を抱えていました。事故によって「のっぺらぼう」になった私と、生まれながらに「内側の欠落」を運命づけられた彼女。私たちは、どちらがより不幸かという不毛な競争をする代わりに、ただ黙って、隣り合う椅子に座り続けました。名前を呼ばれるまでのわずかな時間、私たちはこの広い世界で、自分たちの痛みを唯一理解できる「共犯者」になったのです。
「ねえ、本当の『女の子』になれるのかな」
泰代ちゃんは力なく笑いました。その笑顔は、あまりに儚く、けれど毒を含んだ棘のように、私の胸に深く突き刺さりました。 私たちは、血の通った人間というよりは、精巧に造り上げられようとしている「未完成の偶像」に過ぎないのかもしれない。
看護師さんの事務的な声が、私たちの沈黙を切り裂きました。 彼女が立ち上がり、診察室の重いドアの向こうへと消えていく背中を見送りながら、私は自分の掌を、血が滲むほどに強く握りしめたのでした。
追憶:数学IIの教室、溢れ出した真実
数学IIの授業。黒板に書かれる多項式の数式は、整然としていて、予期せぬエラーなど微塵も許さない冷徹な美しさを持っていました。 私の斜め前でノートを取る正丈君の背中は、いつも通り快活な「少年」そのものでした。
その均衡が崩れたのは、公式を写すペンの音が響く、静かな時間でした。
「……っ、う、あああああ!」
正丈君が椅子から崩れ落ち、机を激しく蹴りました。その顔は一瞬で土気色になり、脂汗が床に滴り落ちます。数学の教師に促され、私は震える足で彼を抱え、保健室へと急ぎました。
彼は知らなかったのです。自分の内側に、出口のない海(子宮と膣)が広がっていたことを。 CAH(先天性副腎皮質過形成)という宿命を背負った彼の身体は、思春期を迎え、初めて流された経血を外に逃がす術を知りませんでした。塞がれた膣口に溜まり続けた血液が、内側から彼の肉体を裂こうとしていたのです。
保健室から救急車で運ばれる際、彼は私の手を、骨が軋むほど強く握りしめました。 その後の緊急手術。外科医のメスは、塞がっていた道をこじ開け、尿道と混じり合っていた「女性」としての入り口を整える「造膣・外性器形成術」を行いました。 それは、彼を「男の子」として繋ぎ止めていた最後の鎖を断ち切る儀式でもありました。
数ヶ月の療養を経て、私たちの前に戻ってきた「彼女」の歩き方は、どこか痛々しく、それでいて以前よりもずっと地に足がついているように見えました。
「のあちゃん、ありがとう。あの日、君が運んでくれなかったら、私は内側から爆発して死んでたかもしれない」
彼女の新しい名前 -それは、聖という少年の葬列のあとに名付けられた、戦友としての名前でした。 なずなの楽屋で、彼女はそっとスカートを捲り、新しく形作られた「入り口」と、その周辺に広がる痛々しい縫合痕を私たちに晒しました。
「見て。これが私の、新しく開けられた『窓』だよ。ここから、本当の私が溢れ出してきたんだ」
事故で外を失った私、最初から中がなかった泰代。そして、内側が溢れ出してしまった彼女。 三つの異なる痛みは、魔法のような言葉によって、一つの「物語」へと編み上げられていったのです。




