79.星屑の台座(後編)
リーセは円頂塔へ向かうための階段に手をかけた。
それは急で細い鉄格子のステップで、手摺と呼べるのは頼りない鎖だけだった。眼下は暗い闇で地表は見えないが、落ちれば命がないことだけはわかる。彼女は鎖をきつく握り締めた。だが手のひらは汗で滲んで今にも滑りそうだった。
彼女のすぐ後ろにはツヴィーリヒトがいる。
「見てないよね?」
「見ているぞ?」
そう言われてリーセは風にはためく法衣の裾を抑えようとしたが、鎖を握る手を離すことはできない。
「見ないで欲しいんだけど?」
「お前が落ちたら困るだろ?」
「……ん? もしかして見えてない?」
リーセはそこで会話の食い違いに気がついて、一人で顔を真っ赤にする。
鎖を握る手はさらに汗ばんだ。
気持ちを整えるように大きく深呼吸をして階段を登る。
円頂塔はリーシの街で一番高い場所でもある。
展望台になっており、リーシの街からそれを包むように広がる平野と海、さらにそれを囲む山並みと周囲を一望できた。
見上げると吊るされた鐘の縁の部分が見えた。銅製の鐘は重厚感があり、その厚みもリーセの腕の太さ以上ある。落ちてくればただでは済まないと不安になるが、彼女が暮らしてきた中でそのような事件が起きたことはない。
遮るものが四方の柱のみとなったせいか、風は強く冷気を運んでくるように思え、リーセは身体を縮こませる。
そこに後をついて登ってきたツヴィーリヒトが、外套を広げてリーセを包み込んだ。二人でその場に座る。
「ツヴィーリヒトは私のこと本当になんとも思っていないの?」
「主だと認識している」
「そうじゃなくてっ」
「私とこんなにくっついてなんとも思わないの? さっきだって下着が見えそうだった……っていうか、見えてたでしょ? 興奮したりとかそういう衝動はないの?」
リーセはツヴィーリヒトの顔を覗き込む。彼はリーセに視線を重ねるが熱がこもっているようには思えなかった。顔色にも変化はない。ただリーセの顔だけが赤くなっていく。
リーセはため息をついてツヴィーリヒトにもたれかかり、頭をその肩に預けた。
彼の身体は冷たくも暖かくも感じなかった。
そして、ただ何となく目に移る星空を眺めた。
「でも、ツヴィーリヒトはこれでいいのかもね? こんな人が間近にいて、私に意識を向けられたら正気でいられる自信がない。こうしていてくれるから安心できるのかも……」
「お前は、ラメールという男が好きなのではないのか?」
ツヴィーリヒトの言葉にリーセははたと顔を上げる。
「どうして?」
「お前がデートに誘った者の中で、一人だけ人間だ」
彼の答えにリーセはぽかんと口をひらいた。そして、再び力を抜いてもたれ掛かる。
「そういう理由なら、ノノも人間なんだけど」
「ノノは女だ。それに誘う気がなかっただろ?」
「確かにそうだけど。でもラメールはツヴィーリヒトと同じで私のことを異性だと思ってないから」
リーセは口をつぐむ。確かにラメールは特別だった。思えば本来の人格のリーセちゃんではなく、リーセをリーセとして扱ってくれる人物だった。彼だけはリーセがいなくなったら本気で悲しんでくれるのではないだろうかという気がしていた。
それは、カークも同じだが、彼はリーセとしてではなくこの街の支配者として見ている。
「まあ、相手を決めるのは私じゃなくリーセちゃんだから」
リーセちゃんはどんな男性を選ぶのだろうか。見ることが叶わないのは残念だが、趣味が合わない可能性がある。
ただ、リーセとしてはノノが好きになる人はどうしても見ておきたかった。彼女は恋愛をするのだろうか。それともその気持ちを隠しているだけなのだろうか。それも気になった。
他愛もないことを考えながらリーセは伸びをする。
「眠いのか?」
「うん、朝まで起きてる自信はない」
「寝てもいい。夜明け前には起こしてやる」
「太陽の光りにあたったらツヴィーリヒトは消えてしまうからね」
リーセはいたずらっぽく微笑んだ。
「その時は、お前を抱えてここから飛び降りて隠れさせてもらう」
「それは怖いから太陽が登る前にちゃんと起こしてっ」
こんな場所でこんな姿勢で朝まで眠り込むことはないだろう。
リーセはそう思って瞳を閉じた。
どれほど眠っただろうか。
瞼の向こうが白くなっているような気がした。リーセは目元をこすりながら、重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
すでに空が白みを帯びていた。思った以上に眠りこけていたことに驚いて頭を起こす。
太陽はまだ登っておらず、足元から地平の彼方まで真白に大地が輝いているように見えた。
上空はまだ青黒く、光の河はすでに形をなしていなかったが、それでも幾つもの星は浮かんで瞬いている。そして東の空、地平の彼方にひときわ輝く星が浮かんでいた。
リーセはその星を見るために身体を起こして立ち上がる。ツヴィーリヒトの外套が外れ、冷たい空気に包まれた。
「明けの明星……」
それを中心に世界を見渡すように身体を回転させる。景色は山並みを縫うように流れていく。
帝国軍の陣地のあった場所も白い光りで包まれた場所となり、焚き火の炎はすでに消えているように思えた。そして反対側に差し掛かったところで彼女の身体が停止する。
「宵の明星……」
その星は、やはり地平の彼方で瞬いていた。
リーセは驚いて振り返る。西の空、そして東の空にそれぞれ『明星』は浮かんでいた。
「一体……?」
ツヴィーリヒトに視線を送ると、彼もまた驚いたように目を見張り二つの星を交互に眺めていた。
「一つは幻なのかな?」
「いや、私には二つとも存在するように見える」
夕刻の西の空へ祈りを捧げるノノが「今日一日の感謝です。明日の朝になれば星は東の空にありますので、その日の平穏を祈ります」と言っていたことをリーセは思い出した。
つまり、金星が二つ存在していたということになる。
「対の金星と言えばいいのかな? 金星と同じ公転軌道を同じ速度で回る、真反対に位置にもう一つの惑星が存在するということなの?」
彼女の質問にツヴィーリヒトは答えなかった。彼もまた、信仰ではなく常識として「明けの明星、宵の明星、それはただ唯一」と信じていたのだ。
そのとき、二つの星の光が膨れ上がるように一層強まったように感じた。それが気のせいなのか確かめようとしたとき、星の輝きは眩いほどに周囲を包み、彼女の身体はその光の渦に飲まれた。
あまりの光量にきつく目を閉じていたリーセだが、その光に慣らすようにゆっくりと目を開く。
そこは光にあふれていたが、不思議と目を開けていることはできた。
ただ真っ白な光りの世界。周囲を見渡してみたがリーセのいたはずの円頂塔は消え、そして隣に立っていたはずのツヴィーリヒトの姿もなかった。
「ここは……」
辺りを見渡すと、ふとひざを折り座り込んでいる人影が見えた。
リーセに背を向けて手をつき、項垂れるように地面を見つめていた。
声をかけようか迷い、その背中に伸ばそうとした手が止まる。
白い法衣に包まれた小柄な少女。ツインテールにまとめられたピンク色の髪の毛。その上にちょこんと乗っかる白い帽子。
「わ、私……?」
そんなはずはなかった。リーセは彼女自身なのだから。そのとき胸元の桜色の貝殻が揺れた。
リーセが意を決して少女の背中に触れようとしたとき、光があふれ出し少女とリーセの身体を包んだ。そして、何もかもが光の中に飲まれていく。
「助けて」
その声は少女のものだった。しかし、自分が発したのかと思うほど自分の声に似ていた。
すべては光の中へと消えていく。
「リーセっ!」
ツヴィーリヒトの声が耳に届く。その声色には普段感情を表すことのない焦りが滲んでいるように思えた。
リーセが再び目を開くとそこは先ほどまでいた円頂塔だった。少女の背に触れようとした手はツヴィーリヒトが握っていた。
「わ……、私は私?」
「何をバカなことを言っている?」
ツヴィーリヒトの声色は普段の抑揚のないものに戻っていた。
「女の子は?」
「ここにいるのは私とお前だけだ」
「そう?」
外の景色を見渡す。西の空に浮いていた金星は消え、東の空の金星は少し高度を上げていた。
「なにかがわかった気がする。リーセちゃんに会えた気がする」
興奮気味にツヴィーリヒトに話しかけると、リーセは彼に軽々と抱え上げられてしまった。
「なっ、何事?」
「間もなく日が昇る」
リーセが答える間もなく、ツヴィーリヒトは円頂塔の手摺を乗り越え一気にドームの屋根を駆け下りる。
「ちょ、ちょっと、私は階段から降りるからっ。ツヴィーリヒトだけ先に降りて!」
ツヴィーリヒトの首元を力いっぱいに抱きしめて叫ぶが、彼はさらに速度を上げて、屋根の上から跳躍した。
空中に二人の身体が投げ出され、無重力状態を感じたかと思った瞬間、凄まじい加速で落下し、瞬く間もなく地表がリーセの視界に迫った。
硬く目を閉じて絶叫に近い悲鳴を上げたはずだが、なぜか自分の叫び声は聞こえなかった。その落下が不意に止まる。
リーセが目を開くと、ツヴィーリヒトに抱きかかえられたまま地表に舞い降りていた。彼女は彼に抗議をしようとしたが、口がぱくぱくと動くだけで声は出てこない。
「口を開けていると落下の衝撃で舌を噛むかもしれない。次からは口を閉じていてほしい」
「……次はないと思うけど一応覚えておく」
ツヴィーリヒトはリーセを降ろした。恨みのこもった眼差しで彼を見つめる。その背後には朝の陽光に包まれる円頂塔が見えた。




