68.膝の上の獅子(前編)
石垣の下に見える川の流れはほとんどわからないが、海へと流れているはずだ。
魔物たちの手を借りて掘られたもので、川幅があり水深も深い。対岸からこちらの岸を狙い撃ちできるような距離ではない。この街を攻めようと思えば、何かの方法で川を渡らなくてはならないが、容易に泳ぎ切れる距離ではなく、それができたとしてもこの石垣を登らなくてはならない。
河口に近く海水と淡水が混ざる汽水である。
リーセとデンメルングの二人は、並んで石垣の上に腰をおろし、釣り糸を垂らしていた。
日差しはきついが、トンボが飛び交う秋である。
こうして釣りをしているものの、浮きの反応に興味がない二人はゆっくりと流れゆく雲を眺めていた。
「暇ですね……」
「そうね」
デンメルングが大きなあくびをしたあと、背伸びをした。人狼の彼は顔は狼、全身が獣毛で覆われている。背中の毛は黒と銀色の毛の混ざったもので、お腹の毛は白かった。その毛がススキの穂のように風に揺らめいている。そして一匹のトンボが彼に止まろうとしていた。
デンメルングは指を立てて手を差し出すと、トンボはその指先にとまった。
「どうして、釣り大会なんか……」
彼女たちから少し離れたところで同じように釣り糸を垂らす者がいる。人影はそれだけではなかった。川面に船を浮かべ、やはり釣りをしている者たちがいた。
「だって、旧市街の人たちがお祭りをしたいっていうから……」
「リーセ様が秋の豊漁を祈ってさしあげればよかったんです」
デンメルングの言葉にリーセはぽかんと口を開き、目を見開く。
「みんなはそんなことを望んでいたの?」
「ルセロ教団の教主に望むことと言えばそんなことでしょう」
デンメルングの言葉にリーセは深いため息をついた。最近は街の運営にどっぷりとはまっていて、自身がそういった立場にいることを完全に忘れていた。お祭りを何かのイベントと捉えてしまっていた。
「でも、こうしてデンメルングと二人で一日のんびりと過ごせるのなら……」
そう言ってリーセは身を寄せてデンメルングにもたれ掛かる。太陽の光をふんだんに受けた彼の毛の中にリーセの肩がしずむ。
「ところで、デンメルングは水晶の中にいるあいだは何を考えているの?」
「特になにも。ひたすらリーセ様が私の名前を呼ぶのを待っています」
リーセは姿勢を正してデンメルングを見る。
「……ほんとうに何も考えていない? このまま一生呼び出されないまま水晶の中にずっといることになったら怖いと思わないの?」
リーセはデンメルングをずっと水晶の中に閉じ込めておくことは可愛そうだと思っていた。だから、彼を呼び出せるようになって以来、よほどのことがない限り彼を出した状態にしている。
「リーセ様こそ、私とツヴィーリヒトの二人を呼び出し続けるのは相当の魔力が必要なはずです」
「魔力は……そうねぇ、別になくても困らないから」
暗黒物質を取り込み魔力として体内に蓄積すると教わった。しかし、彼女は気の力に似ていると思っている。その力を操って炎や水を作りだしたりすることができる。人にはホモ・ルミナスとホモ・サピエンスの二種類の系統がある。魔力を持っているのはホモ・ルミナスである。
転移してきた当初、彼女は魔力を操ることができなかった。しかし、魔王に会い彼が割れた水晶を修復したことで、彼女は魔法が使えるようになった。そして使えるようになった今では、なぜそれまで魔法が使えなかったのかよくわからない。
そういったことを考えていると、デンメルングがリーセに顔を寄せてきた。
「リーセ様、あなたをお守りすることが私とツヴィーリヒトが存在する理由です。どんなときでもあなたの命のことを一番に考えてください」
「そうね、私が死ねばツヴィーリヒトもデンメルングも死んでしまうからね」
リーセが答えるとデンメルングはさらに顔を寄せてくる。
「そういう意味ではありません。リーセ様が幸せならば私たちのことなどどうでもよいのです」
「デンメルング……」
彼の頬の奥に手を伸ばす。硬い毛の感触があり、さらにその奥へと手を沈めていくと柔らかな産毛に指先が触れる。リーセはそこをわしわしとなでた。
「あなたのことだって、どうでも良いなんてことはないんだからっ」
そう言ってなでつづけると、彼は心地よさそうに目を細める。リーセはもう一方の手を差し出して彼の頬を包むと、その顔を膝のうえに置いて撫でつづけた。
「リーセ様、心地よいです」
デンメルングの尻尾がぱたぱたと揺れる。
「愛い奴め」
彼女たちはしばらくじゃれ合い続けた。
浮きは相変わらず反応しない。しかし、水面は脈打つ。
そのもとを辿ると一艘の船が通り過ぎていく。
船の上にはリーセの見知った男が座っていた。リーセがデンメルングを撫でる手を止めて、その男を見つめていると、デンメルングも上半身を起こした。
男もまたリーセたちの存在に気がついたようで、頬を緩めるとリーセたちに手を振った。
「ど、どうして、ベルナールが……」
リーセは引きつった笑みを浮かべながら元十二卿の男に手を振り返す。
「釣り大会に参加するためなんじゃないですかね?」
「それはわかるけど、どう考えてもこんな大会に参加するような人じゃないでしょ!」
二年前、リーセはルセロ教団を解散させてやろうと考え、彼女の前で不遜な態度を取り続ける彼らの前から立ち去ろうとした。しかし、住民たちが駆けつけ、教会を取り囲むとリーセを支持する歓声をあげた。
この街をみんなの街にしたかったのである。しかし、住民たちはリーセを支配者に選んだ。
結果、リーセはルセロ教の教主を続け、この街に唯一君臨する者となり、十二卿は枢機卿という立場をはく奪された。緩やかに彼女の支配から住民たちの合議へと街の運営を変えていくつもりであった彼女の思惑は大きく後退し、より独裁色の強い街となってしまった。
この二年間、十二卿たちは彼らが苦しめた信者たちをこの街に呼び寄せる役目をしていた。彼らに騙された人々が再び彼らの言葉に耳を傾けるのだろうかと、リーセは疑問を持っていたが、彼女の予想を遥かに超える住民がこの街に集まった。
信者でない人も多く混ざっていたが、ルセロ教団と対立をすることもなく暮らしている。
「リーセ様はこの釣り大会で優勝した人の賞品を知らないので?」
「へ? 賞品?」
沖へ漕ぎ出していくベルナールの船を見送りながらリーセは首を傾げる。
そういえば、『釣り大会検討委員会』なるものが立ち上がっており、リーセは大会委員長という立場だったが、会議の日はカークと出かけていたため欠席していたことを思い出す。
「ベルナールが欲しがるような物って、金銀とかそういった類なの?」
リーセは眉をしかめる。こういった大会は市民の親睦が大切なのだ。賞品は栄誉ではあっても、参加者が血眼になって求めるような物であってはならない。
こういったことを言えるのは、リーセとカークだけだった。
「もちろん、リーセ様がそんなことを望むなんて思っていません」
「じゃあ何なの?」
デンメルングはパタパタと尻尾を振る。
「リーセ様のキスです」
そう言って、デンメルングは自らの頬を人差し指でとんとんと鳴らした。
「そうなんだ……」
リーセが呟いて沖に向かう船を眺めると、船上でベルナールが何かを抱きしめるように腕を抱え、瞳を閉じ、唇を突き出している。その仕草を見たリーセの全身が凍り付く。
彼の頭の輝きが水面の輝きに溶けていくまで、その光景から視線を外すことができなかった。
「ど……」
喉を引きつらせながらもかろうじて一音だけ発する。
「ど?」
デンメルングが聞き返した。
「どうして、私がキスなんかしないとダメなのよ!」
「いやなのですか?」
「嫌に決まっているでしょ!」
「何通もラブレターを書いていたじゃないですか。てっきり恋がしたいのかと?」
「はあぁ? それがどうして誰かとキスする話になるのっ?」
「さあ? でも、リーセ様が目指す先で、当然避けて通れないものかと」
デンメルングの返事を聞いて、リーセは脱力して肩を落とす。
彼もまた、カークと出かけていたあいだ、錫杖の水晶の中にいたのだ。いったい、こんなことを言い出したのは誰なのだろうか。必ず発言者を見つけ出して抗議しなければならない。しかし、それはあとの話だ。
「だいたい、今日はデンメルングとデートでしょ! どうしてこんな日に他の人とキスをしなきゃいけないのよ!」
「リーセ様。確かに私は小さな針をちまちまと糸に結び付けて、餌をちまちまつけるなんてことは性分にあっておりません」
「そんなことは実際に針を糸に結び付けて、餌をつけた人が言うことなのっ。デンメルングの分も私が付けたんじゃない!」
「リーセ様、まだ私が優勝できないと決まったわけではありません」
デンメルングは腕組みをすると、自信たっぷりにふんぞり返ってみせた。
「いい? もうすぐお昼になるけど私たちはまだ一匹も魚を釣っていないの!」
そういうと、二人のお腹が同時に鳴る。
「リーセ様。ひとまず食事にしましょう。腹が減っては戦はできません」
「そうね……」
リーセはため息をつきながらバスケットを取り出した。
デンメルングはあてにならない。なんとしても優勝をする方法を考えなくてはならない。自分が優勝すれば誰にもキスをしなくてもいいのだ。リーセはこの釣り大会で優勝すると固く決意した。
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