61.ある朝の始まり
心地よいベッドの温もりのなか、リーセはゆっくりと目を覚ました。
毛布から顔を出して大きく伸びをすると、朝の冷気が肌を刺す。その空気を吸い込んでそろりと上体を起こした。
白いはずのシーツに何かが積もり真っ黒になっていることに気がつく。彼女はその一つを摘まみ上げ、寝惚けた瞳をこすりながら見つめる。
それは黒い羽根だった。ベッドの上にはその羽毛の他に銀色の体毛が散乱していた。
「なっ、なっ、なっ……、何事!」
慌ててベッドから飛び出すと、素足に柔らかな感触がまとわりついた。
床にも体毛と羽毛がちりばめられていた。
「ど、どうして……?」
知らない場所にいるのかと思い、周囲を見渡すが宮殿にあるリーセの部屋である。高級感のある調度品が並び、割れた姿見もあり、その横には錫杖がおかれていた。
そして、調度品に溶け込むように並んで起立している烏の魔物のカーク、人狼のデンメルングを見てため息をついた。
「これは、リーセちゃんがしたの?」
デンメルングが頷く。毛をむしられた跡があるのに何故か嬉しそうに尻尾を振っている。
「リーセちゃんは一体どのくらい戻ってきていたの?」
「二日間だ」
カークが答える。彼の翼となっている腕にも羽根がむしり取られた生々しい跡がある。彼は普段のリーセには居丈高に振舞うのだが、リーセちゃんにはなされるがままのようだ。
その惨状を眺めながらリーセは頷く。
彼女がリーセの体に転移してから二年の月日が経っていた。時々、本来の体の持ち主であるリーセが戻ってくることがあった。最初は酔っぱらった時だけであったが、その頻度は徐々に増え、その時間も延びていた。
二日は最長だ。
「どうして、リーセちゃんを叱らないの?」
「お前を叱れる者など、この街にいない」
カークが答える。
「でも、悪いことは、悪いことだと言わないと、もっと大変なことになる」
「悪いことではありません。昨夜のリーセ様は本当に楽しそうでした。私も嬉しかった」
デンメルングが興奮した犬のように、はぁはぁと荒い息を吐く。その隣でカークが視線を逸らしていた。
リーセちゃんが甘やかされるのはメイドのノノと吸血鬼のツヴィーリヒト、そしてデンメルングの仕業である。カークはこの場にはいないツヴィーリヒトの身代わりとなったのだろう。
「ツヴィーリヒトは?」
「ここだ」
頭の上から声がしたので見上げると、ツヴィーリヒトは天井に張り付き真面目な顔でこちらを見下ろしていた。
「……」
一体、どういった遊びが繰り広げられていたのか想像もつかなかった。
「とにかく、リーセちゃんを甘やかす者には罰を与えていいから!」
「わかった、ではその者に報奨を」
「どうしてそうなるの!」
いつもは罰を与えると言えば、『死罪』と答えるカークの歯切れは悪かった。結局、カークもリーセを甘やかす側にいるのだ。
そんなやりとりをしていると、部屋の扉がノックされ、ノノが入ってきた。
「リーセ様、おはようございます」
「おはよう」
ノノは洗いたての法衣を抱えていた。
そして部屋の惨状を見渡してにっこりと微笑む。
「昨夜はずいぶんとおはしゃぎになられたのですね!」
「限度があるでしょ!」
掃除をするのはノノの役目なのだ。片づけを手伝わなくてはと思いながら、リーセは法衣に手を伸ばした。
宮殿から出ると、建物の中とは異なり潮の香りを含む湿った風が、ピンク色の髪を撫で、ツインテールの先を揺らした。
まだ薄暗く、空には明けの明星が燦然と輝いている。
リーセはノノと二人でリーシの街を見下ろす。街はまだなりを潜めるように静かで、眠りについていた。
わずか二年で十万人近い人と魔物が暮らす街となった。しかし、まだ市街には空き地が多い。一体、誰がこんな規模の街を設計したのか。
彼女は街に残る空き地を見なかったことにして、街の外に視線を移す。
広大な農地が広がっている。東側では水稲栽培を行い、西側では主に小麦と牧畜の混合農業を行っている。昨年は順調に収穫を得ることができた。今年はその範囲を広げて栽培をしている。まもなく、秋の収穫が始まるので美味しいご飯が食べられると思うと頬が緩む。
「山で鉱脈が見つかったそうだな?」
振り返るとラメールが来ていた。その後ろには山羊たちもいる。
全員で本曲輪から市街の曲輪へと向かって下り始めた。
「鉄が採れるのはいいけど、公害が心配で開発を進めていないの」
「公害?」
「水や土壌の汚染」
「山の中ならいいんじゃないか? 水だって瀬替えをした川に流せばこの平野には影響ないだろ?」
「地下にも水脈があるからどのような影響があるのか調べないと」
楕円形の競技場へ向かう大通りの両脇では、露店の人々が早くも起き出しで開店の準備を始めていた。
彼らはリーセの姿を見ると胸元で腕を組み頭を下げる。
「リーセ様、おはようございます。今日もいい天気になりそうです」
「おはようございます。暑さに気を付けてください」
リーセは一人一人に言葉をかけていく。
この通りはリーセが毎朝通ることもあり、街で一番の朝市が開かれるようになっていた。そして『リーセ通り』と名付けられたが、彼女はカークにやめさせるよう伝えた。しかし、カークはいつものように『名前をつけた者は死罪』と言い出し、結局うやむやになっている。
競技場が見えると、山羊たちは街の外に向かうために橋の方へと進んでいった。ノノが彼らに手を振る。
リーセはラメールとノノの三人で毎朝ランニングをしていた。時々、デンメルングとカークが参加することもあるが、昨夜は一晩中立たされていたのだ。さすがに今朝は眠そうにあくびをしていた。
走り始めたきっかけはラメールに連れられフールハーベントの街からルセロ教会へと旅をしたことである。それ以降、彼女たちは毎朝運動をすることが習慣になった。
競技場は大きな楕円形のグラウンドを囲むように石造りのスタンドが設けられている。その広さは、フールハーベントにあった闘技場の二つ分以上にもなる。彼女たちはそのグラウンドを走っていたのだが、その姿を見た街の人たちも後ろについて走るようになった。
最初は増えたとしてもせいぜい百人ほどだろうと思っていた。だが、瞬く間に人数が増え、数えきれないほどの人々がリーセたちと一緒に走るようになった。そのため、今では競技場の中ではなく、外側を走るようになっている。
ラメールにならって準備運動を始めると、街の人たちもそれに倣った。そしてリーセが走り始めると街の人たちも走り始める。
「準備運動をして体をほぐしても、すぐにもとの筋肉に戻る。走り始めるときはいきなり全力で走るのではなく、ゆっくりだ。そして自分の体調を見極めてからその日のペースを決めろ」
ラメールのリーセへのアドバイスは、瞬く間に街の人たちへと広まっていく。
リーセは少し複雑な気持ちになりながら走る。
「今日はみんなの足取りが軽い。昨日と一昨日、お前が来ないと聞いた街の人はどんよりと沈んでいた」
元のリーセはランニングなどしないが、いつもよりも激しく暴れるのでそれが運動と言えた。
ラメールの感想通り、いつもよりリーセを追い抜いていく人の数が多い。リーセは二日間のブランクがあるため、いつもよりゆっくりだ。そのペースに合わせるようにラメールとノノも走る。
呼吸が乱れない状態を保つ。
「こんなに毎日、頑張ってるのにちっとも大きくならない」
リーセはラメールに文句をいった。彼女の容姿は転移して初めて見た十三歳のときから、まったく変わっていない気がする。絶対に美しくなると思って期待をしていた。しかし成長期なのに、彼女の身長はまったく伸びなかった。何よりショックだったのは、体つきの変化がなかったことだ。特に胸は、全く成長する気配を見せなかった。
この街はたった二年で大きく成長し、この秋も豊かな実りが期待できる。それなのに、自分の体はちっとも変わらない。そう考えると、なんだか腹立たしくなってくる。
「適度な運動の負荷が骨の成長を育み、成長ホルモンが分泌されるって聞いたのに……」
ぶつぶつと文句を言いながら、リーセは外周を三周すると走り終える。その頃には街はすっかりと明るくなっていた。
運動が終わるとノノが素早く拭く物を差し出してくる。リーセはノノの豊満な胸を見つめながら拭く物を受け取った。
気がつけば、走り終えた街の人たちがリーセの前に集まっている。
見渡すと、人のほかにも蜥蜴男たちの姿もあり、今朝は一際背の高い蜥蜴王エクセシュの姿もあった。
食事のときと同様に毎朝、なにか一言を話さなくてはならなくなっていた。もちろん、とっくに話すことなどなくなっている。だが、何も話さずに帰ろうとすると、街の人たちはひどく狼狽し、悲しげな瞳で見つめてくるのだ。
リーセは必死で話す内容を考える。そのとき、法衣のどこかについていたカークの黒い羽がひらひらと舞い落ちた。
「カラスは動物の中でも、特に頭のよい生き物です」
いつものように着地点を見定めぬままあてもなく話を始める。
「道具を使うこともできます。クルミを道路において馬車に轢かせて中身を取り出したりします。人の顔も覚えるようです。イタズラをしないようにしましょう」
オチもついたので、これで終わりにしようと周囲を見渡すと、誰もが次の言葉を待っているようだった。リーセはランニングの汗とは違う、緊張の汗がじっとりと手のひらを濡らしていくのを感じた。
「……カラスは夜になると山に帰ります。そこには、何百羽も集まって暮らせる『ねぐら』があります。寒い冬でもそこに身を寄せあって暮らしているのです。みなさんもこの街がよりよいねぐらとなるように、支え合って暮らしていきましょう」
リーセはこれで話は終わりだと示すように、頭をぺこりとさげる。
彼女の姿をみた街の人びとは膝をついて祈りを捧げた。その様子をちらりと見たリーセは安堵の息を漏らす。
リーセたちが宮殿へ戻る頃には、朝市はすっかり活気に満ちた場所へと変わっていた。
すべての店が開き、食材を買い求める人々や、ランニング帰りの者たちでにぎわっている。
リーセもまたノノとラメールを連れて、その雰囲気を味わいながら歩く。
朝一番に水揚げされた魚が並び、焼きたてのパンの香ばしい香りが漂う。そして、獲れたての野菜から、肉にチーズにミルクなどの食品、そして調理用具や、服まで様々なものが売られていた。
「そろそろこの街の硬貨を発行したほうがいいかもな」
ラメールの言葉に頷きながら、リーセは露店で買った鶏肉の串焼きを頬張る。甘じょっぱいタレが香ばしく焼き上げられ、とても美味しい。塩焼きの魚も好きだったが、走った直後に食べると塩が口の中の水分を吸い取ってしまい、非常に食べ辛くなるのだ。
ふと、本を売る露店が目についた。
紐で縛られた粗雑な本だったが、どれもそれなりの値段がついている。学校の蔵書に加えるものはないかと表紙に目を通していると、『リーセ』というタイトルの本が目についた。
「この場合の『リーセ』ってどういう意味?」
「さあ、リーセ様のこと以外に思いつきません。後ろから読めば意味が分かるのではないでしょうか?」
ノノがさらりと聞き咎めたくなる発言をするが、彼女の言葉に他意などあるはずもなく、リーセはその本を取って適当なページを開いてみた。使い込まれた版画刷りの文字はかすれ、読みにくかった。
「なになに、『バゲットの外側が硬くなる理由は、そのパン生地に水分が少ないためです。そして非常に高温で焼くので表面の水分が急速に失われて硬い外皮を形成します。その他にも長時間発酵を行う必要があり、それがグルテン……て、なんていえばいいんだっけ? とにかく美味しさの構造が強化されます。それを焼くことで硬くなるのです。それが美味しいパンなのです。みなさんもお友達を作るときは焦らず、じっくりと信頼関係を作っていきましょう』……?」
それはリーセがいつの日か朝のランニングの後に言った言葉だった。ほかの文章にも目を通してみるが、すべてリーセが苦し紛れに話したことだった。
みんなが忘れた頃にまた同じことを話してやれと考えていたが、こんな本が売られていれば調べられてしまう。それに改めて文章になったものを読むと、なんと子供じみたことを言っているのか。こうして文章に書かれるとそれがより際立ってしまっていた。
リーセは恥ずかしさで頬が熱を持つのがわかった。
「そちらの本はとても人気です。さすがリーセ様です」
店主がリーセを見て嬉しそうに笑う。
「いかがいたしますか? 買って帰りますか?」
ノノの言葉に買ってどうするんだと言いたくなったが、リーセはぐっと堪えた。発禁にしたいが理由が思いつかず、リーセは本を閉じて元の場所に戻した。
そして宮殿に戻ろうと歩き始めた、その時だった。
一人の男がリーセに向かって一直線に歩いてくる。
リーセは衝突を避けようと道の端に寄ったが、その男も同じ方向に進んできてぶつかり、そのままもつれるように倒れた。偶然ではなかった。男は仰向けに倒れたリーセの上に馬乗りになると、短剣を掲げる。
「リーセ様っ!」
咄嗟のことに何も反応ができず、呆然として銀色に煌めく刃を見つめていると、ノノがリーセの顔に覆いかぶさるように抱きつき、そして、ラメールが男の短剣を蹴り上げた。
「なっ……、なっ……」
混乱するリーセをよそに、街の人たちが集まってきて男をリーセから引きはがすと殴り始める。
「ま、待って! 乱暴はやめて!」
リーセは慌ててノノを押しのけて止めに入ろうとしたが、ノノの力は強く離すことはできなかった。
「ラメール! とめてっ! 喧嘩をやめさせてっ」
リーセが叫ぶとラメールは顔をしかめ、嫌がる素振りを見せたが、すぐに人々の輪の中に割って入り男を引きずりだした。すでに何度も殴られその痕が顔に残っている。
リーセはその顔をじっと眺めたが、見覚えのない男だった。
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