57.チーズをおひとつ
リーシの街は海に流れ込む川の三角州を利用して作られている。川を外堀とした総構えの要塞都市でもある。
幾つかに分かれた中州の一つにリーセは学校を作ることにした。読み書きを始め、職業訓練、そして各種の研究まで幅広い教育機関にしたいと考えていた。
誰でも通えるように街の中には巡回の馬車を、そして、他の街の者のために学校の中に寄宿舎を建てる。
そして、学長には魔界の大魔導士ウンエンドリヒ・カイザーを任命することにした。
リーセだけが彼の教育を受けるのは勿体ないと考えたのだ。
街灯から上水から下水まで、この街は魔法に頼るところが大きい。その技術者を確保する目的もあった。
また、上水の源流で出会った男の申し出がきっかけで、魔王の奴隷の中から何人かこの街で暮らしたいという者が現れた。
リーセは男に下着を見られたことを根に持っている。それに彼は魔王のもとで働くことに満足をしている様子だった。そのため、リーセの下着を見るために言い始めたのではないかと疑った。しかし彼が真摯に訴えたので、学校の副長もしてもらうことにした。
そういった体制を整えていくと、何故かリーセも神学を教えることになる。断固拒否をしたが、名誉学長、臨時講師というよくわからない役職を与えられてしまう。学びに来る者にとっては期待外れかもしれないが、政教分離と、絶対の教えとなることの危険性、一地域の風習を取り込み教えを膨らませて全く生活様式の異なる場所に広めていくことの危険性を滔々《とうとう》と訴えかけるつもりである。
リーセとウンエンドリヒは新設された校舎の実験室にいた。
「私の得意とする魔法、『腐敗』にはいくつかの系統がある」
ウンエンドリヒは杖を掲げる。
「微生物の活動、空気による反応、熱と光による反応、自己分解、薬品による反応、空から降り注ぐ粒子による破壊……」
目の前の牛乳が瞬く間にチーズへと変化していく。
同時に彼の深くかぶったフードがはだけ、包帯がまかれた腐臭漂う顔があらわになる。彼の目玉の上をウジ虫が這いまわるのが見えた。
「ひっ」
リーセは小さな悲鳴を上げて震えあがってへたり込む。
ウンエンドリヒの身体は、幾つもの魔物や人間の肉片を合成して作られている。その特性を生かし、彼は体内で細菌や微生物、寄生虫を飼っていた。それらを操ることこそが、彼の最も得意とする魔法なのである。
リーセはこの街を去ろうとしていたウンエンドリヒに頭を下げて謝った。そしてこの街に残って欲しいというお願いをした。その時に、彼女はウンエンドリヒへの恐怖心が消えていないことも正直に伝えたのである。
その解決策として、リーセはウンエンドリヒに怯えてもよく、ウンエンドリヒはリーセを怖がらせてもよいと言う条件では許してもらえないかと尋ねたところ、ウンエンドリヒは笑ってその条件を飲んでくれた。
その時に聞かされた、ある小さな街に寄生虫たちを解き放ち、全ての生物を一瞬にして腐敗させたという彼の伝説が、時折リーセの夢に登場しては、安眠を阻害している。
「すまない……」
ウンエンドリヒはフードを深く被り直す。魔法を使う度にフードがめくれるという仕様になっているようだ。
リーセはその度に逃げ出したり、泣きそうになったり、その場に座り込んで震えたりしてなかなか慣れることは出来なかった。
そんなリーセよりも、ウンエンドリヒのほうが気まずそうな雰囲気でおずおずと手をのばす。リーセはその手を怯えながら掴む。自分の飼っている寄生虫たちを完全に支配下に置いているので、彼の手を触っても彼の飼育している生物たちに蝕まれることはないと言うことではあったが、とても信じられる話ではない。
支配が完璧なのだとすれば、彼の包帯の隙間や眼球の中からウジ虫が這い出してきたりするはずがないからである。
あの時の約束で遊ばれているのではという気がしていた。
「リーセも試してみろ。菌や微生物を活性化する魔法は広い範囲で応用ができて、生活のあらゆる面で有用なはずだ」
リーセは牛乳の入ったグラスを見つめて錫杖を掲げる。水晶がキラリと輝いた。
水晶や宝石には魔力を蓄積する特性がある。それは魔力石も同じだった。
普段より、余剰の魔力を水晶に貯め、魔法を使う時はそちらの魔力を優先的に使う。そうすることで、体内の魔力の枯渇で能力が低下したり昏倒したりすることを防ぐのだ。
「制作過程ですることが多すぎるような気がするのですが?」
「それが学習には良いのだ。全ての過程を魔法で行う。酵母は私の体内で飼っているものを使う」
リーセの顔が青ざめる。それが一番嫌な過程だった。例えチーズが完成したとしても決して食べる気持ちにはなれないだろう。ツヴィーリヒトなら食べても大丈夫だろうか。美味しそうな物が完成すれば、彼の所に持っていってみよう。
リーセは、隣で複雑な詠唱を唱えるウンエンドリヒを真似ながら、錫杖を構える。
「生命を生み出す魔法は扱えないと聞いたのですが?」
「今世界で唯一それができるのは魔王様だけだ。我々は活性化させたり減退させたりすることが出来るだけだ。それが今の酵母菌の活性化であり、治癒魔法でもある」
「その応用ができるのなら、草花や木々の成長にも生かせそう」
「人や魔物にもな。ただ、この系統の魔法は必ず成功するわけではない。すべての生き物は魔法に対して強い抵抗を示す。対象が複雑な構造になるほどに失敗する確率は増し、命の質量が重くなるほどに、術の効果は限定的になる」
リーセは小さく首を振る。
「そんな大仰なことではなく、畑作や森林の育成につかえないかと思って」
「小さな庭の植物にしておくことだ。膨大な魔力が必要となる」
そこでリーセはわずかに錫杖を下げる。
「魔王様が人の命を産み出すところを見たことがあるのですか?」
リーセの問いかけに、ウンエンドリヒの動きが静かに止まる。
「雑談は構わないが、魔法はとめるな」
「はい」
慌てて錫杖を構え直す。しばらく沈黙の時間が続いた。
「私がそうだ」
「ウンエンドリヒが? あなたは人間からその体になって甦ったのでは?」
彼は僅かに頭を下げる。
「どうだろうな? この体になって生まれたとき、私は自身のことを知覚することができなかった。魔王様に自らの記憶を探るように命じられ、初めて私は人間であったことを知った。もちろんそれ以降は、その男だったとして生きている。しかし、その男の生涯を知っているだけで、私には自分の記憶だという実感はない」
「それは……」
リーセが言い淀む。ウンエンドリヒがその事実をどう受け止めているのか分からず、相槌をうっても良いのか分からなかった。
「私だけではない。お前の従者である吸血鬼や人狼もおそらくそうだ」
「ツヴィーリヒトとデンメルングがですか?」
二人の顔を思い浮かべる。デンメルングはともかく、ツヴィーリヒトの子供時代の姿を想像することはできなかった。
「そういえば、魔族の寿命はどうなっているのでしょうか?」
「それは一概には言えない。魔力の高い者ほど寿命は伸びる。私もだが、魔王様や、竜族、四天王にリーセの従者もそうだ」
「どうして魔力の高い者なのでしょうか?」
「全ての生物には、自身を構成するための設計図を持っている。魔法に長けた者はその設計図に自らの魔法で書き換えることができる者が存在する。そして、その設計図の中には成長と共にすり減っていくものがある。それにプロテクトをかける」
リーセは首を傾げた。
「人間も同じなのでしょうか?」
「同じだ。要はいかにして自身を構成するための設計図に触れることができるのかということだ」
「四天王のシルダンや、彼に仕える魔獣、竜たちは自らの体を自在に変えられる者たちがいます。彼らはその設計図を書き換えて自らの体を変化させているのでしょうか?」
「おそらくは。ただ、あのように急激な質量の変化が可能なのは、種族が持つ特殊な機能であると思う。あと、魔法を自身の活力として取り込めるように、設計図を書き換えているはずだ」
石竜が石を作り出すように、自分の体内に脂質やタンパク質、ビタミンなど身体に必要なものを作り出しているのだろうか。さらには、もっと直接的な物を作り出しているのだろうか。
「なるほど……。それで、ご飯を食べても食べなくても生きていけるようになるのね?」
リーセはまだ、教えられたことを言われたとおりにして、魔法を生み出すことしかできない。謎は深まっていくばかりだが、いつしかリーセもまたそのような域に達するのだろうか。
そんなことを考えていると、ウンエンドリヒの眼球がリーセの表情を覗いていることに気づき、彼女は腰が抜けそうなほどに驚く。口元をふさぎ、かろうじて悲鳴だけは堪えた。
「リーセは、永遠の命を望んでいるのか?」
そう尋ねられ、リーセは慌てて首を振る。
「成長が止っちゃうんでしょ? 私、もっと大きくなるから。ノノよりも大きくなるから」
リーセの言葉にウンエンドリヒが頷いた。そしてグラスを彼女の前に差し出した。
そこには、彼女が魔法で牛乳から変化させた固形物が入っている。
「ならばたくさん食べないとな?」
「うっ……」
リーセは息を飲み一歩後ずさったあと、覚悟を決めたようにその固形物を摘まみ上げた。
読んでいただきありがとうございます。
いいねボタン、ブックマーク、評価、気軽にしていただけると嬉しいです。励みになります。




