55.大脱出
逃げ出したリーセのために一日をかけて烏の魔物たちが総出で平野の周辺の捜索を行ったが彼女を見つけることはできなかった。
ラメールが授けた知識と実践での経験が彼女の逃走の手助けをした。彼女が荷物を背負って歩いた場所は荒野ではあったが、基礎となるものは同じである。草花や小枝が絡みついて彼女の足を傷つけたが彼女は構わずに進み続けた。
置き去りにされた人狼のデンメルングと鳥かごの中にいるツヴィーリヒトの探知能力をかいくぐり彼女は気配を消して走り続けた。
リーセは平野部を西側へと縦断して走り抜け、山中へと逃げ込む。
そこには街に上水を送り込むための始点となる施設が作られようとしていた。リザードマンたちが作業をしている中をリーセは息をつきながら歩く。
「リーセ様っ」
驚いた表情をして声をかけてきたのは人間の男だった。リーセはその者の姿を見て一息をつくと立ち止まる。同時にお腹が鳴った。
その音を聞いて男が笑う。
「作業小屋に食料があります。水ならそこの湧き水を好きなだけ飲んでください」
差し込まれた金属の管から水が勢いよく流れ出ている。リーセはその水に口をつけて飲もうとすると、そのほとんどは口の中に入らずに彼女の顔や前髪、そして胸元を濡らした。
一日中歩き続けた彼女にとってその冷たさは心地の良いものだった。リーセは手を差し出して顔も洗った。
「ふぅ……」
リーセは改めて一息をつく。そして、拭く物を探したが、いつもならすぐに準備をしてくれるノノはいなかった。仕方なくケープで顔と手を拭く。
その様子を男とリザードマンたちが作業の手を止めてじっと眺めていることに気がついた。
「い、いつもはちゃんとしているんです! 今だけですっ」
行儀の悪いところを非難されているのだと思い、慌てて背筋を伸ばして姿勢をただす。
その様子を見た男はやわらかな笑みを浮かべた。そして、リザードマンたちは作業に戻る。
「あなたは?」
「私は普段、魔王様の宮殿の修繕や増築の際の設計をする者です。リーセ様の街を作る手助けをするようにと命じられ、今はこの場所の現場監督をしています」
「その……、あなたは奴隷ですよね?」
「はい。私は魔王様の奴隷です」
「逃げないのですか?」
リーセの問いに男は首を傾げた。
「逃げる先には何があるのでしょうか。少なくとも今は衣食住が守られています。そしてこのような建築に携われると言う機会も与えてくれます」
男の微笑みは本心なのだろうか。リーセには分からなかった。
「あなたは優秀みたいだから、リーシの街に興味があったらいつでも言ってください。もちろん住民として歓迎します」
男の頷く様子を見ながら、リーセは金属の管を軽くたたく。鈍い音が返ってくるが材質まではわからなかった。
「銅で作っています。鉛のほうが扱いやすいのですが……」
これらの金属は魔族たちの魔法により加工されて造られている。
リーセは協力してくれた魔族たちの中に魔導士のウンエンドリヒもいることを思い出す。彼はリーセに対して好意的に振舞ってくれていたにも関わらず、彼の顔に怯え逃げ出してしまった。
すぐに戻って謝らなければならないと思えば思うほどにリーセの足は遠くへと向かう。
今となってはどのような顔をして戻ればいいのか分からない。本質を見ようとせず見た目だけで恐怖に怯え、ウンエンドリヒや烏の魔物たちだけではなく、ノノやラメール、ツヴィーリヒトやデンメルングまでの期待を裏切ってしまった。
強い後悔の念だけが重くのしかかってくる。
「今みたいに水がドバドバと流れている場合は問題ないと思うけど、水不足や故障で水が滞留したときに亜鉛の含有量が多くなってしまう。それを人間が飲んだ時に中毒を起こす危険があるとなにかで聞いたことがある。一応、街に引き込んだ後、魔法でろ過をするけど、どこまで信用していいのかわからないし……」
「リーセ様」
「なんでしょうか?」
リーセは男が恭しく頭をさげる姿を見て居心地の悪さを感じる。
「下水を分離して肥料を作る方法もそうですが、私たちが経験的に体感していることをリーセ様は知識として把握されているように思います。とても13歳でそのような創造を思い描けるとは思えません」
下水から農業の生産性をあげるために必要な窒素、リン、カリウムを抽出する。それぞれ別の方法で造りだす方法はあるが、循環できるならその方法を利用したい。そのために魔法で効率よく発酵させ、病原菌や寄生虫の卵を排除する。そしてなによりも臭いを消す仕組みを考えなければならない。
リーセは答えをわかっているものの、実現させるための方法は思いつかなかった。
「私は思いつくだけ。実際にそれを実現するあなたたちの方が凄い」
「そんなことはありません。その発想に思い至ることこそが、私たちの能力を大きく超えているのです。リーセ様の発想や想像力はどこから来ているのでしょうか?」
「それは……」
リーセは言葉に詰まる。
「ルセロ様が……」
でまかせの言葉に男が深く頭を下げた。それを見た彼女の胸がチクリと痛みを持つ。
その時、頭上で翼のはためく音が聞こえた。リーセが見上げると、烏の魔物たちが上空を旋回していた。リーセは再び逃げ出そうと考えたが、さすがに姿を見られた上で逃げ切ることは無理である。
諦めて立ち尽くしていると、烏の魔物たちは舞い降りてきた。
「小娘、余計な手間をかけさせるな」
「ごめんなさい」
リーセはぺこりと頭を下げる。
「お前が謝る必要はない。ウンエンドリヒ殿も分かっておられたのだ」
「分かっていたとはどういうことでしょうか?」
「あのお方は元々、魔王様の奴隷として仕えていた人間だったのだ。彼は魔法と建築に高い技術と造形をもっていた。魔王様はその死を悼み、他の人間の肉や魔物の肉をかけ合わせてその者を魔物として蘇らせたのだ」
その話には嫌悪感しかなかった。しかし悪いのはウンエンドリヒではない。魔王だ。
「そして、魔王様はウンエンドリヒ殿にお前の眷属となるように命令を下された」
「私の眷属に? ツヴィーリヒトやデンメルングのように?」
リーセの言葉に烏の魔物は頷く。
「だが、最初にいったようにウンエンドリヒ殿は分かっておられたのだ。お前のような小娘に自分の姿がどう映るのかということを」
「そんな……」
リーセの肩がわなわなと震えた。
「気に病む必要はない。お前はただの人間であり生理的な問題だ。しかし、それを知っているからウンエンドリヒ殿はお前を怖がらせないようにと辞退されようとなされた。しかし、魔王様の命令に逆らえば消滅だ。我々はそれならばと、小娘の教育係に就いて頂くことでお前の嫌悪感を取り払うことができないか様子をみてみようと考えたのだ」
リーセは言葉を失い、ため息をつくこともできずに俯いていると、胸元に錫杖と鳥かごが渡された。それを受け取りぎゅっと握りしめる。
「『すまなかった』と言葉を預かってきておる。もうお前の前に姿を現わすこともないだろう。魔王様のもとに赴き、別の者を派遣するようにと具申するとのことだ」
「待ってください。ウンエンドリヒ様はまだリーシの街にいるのでしょうか?」
烏の魔物はリーセの問いには答えず、黒い瞳でリーセの顔を見つめた。
「謝りたいんです。できれば、私の魔法の先生になってもらいたいんです」
「その前にお前の足を治療しなくてはな。小娘のその姿を見ればウンエンドリヒ殿も悲しまれるだろう」
烏の魔物に言われ、リーセは今更ながらに足の痛痒い感覚に気がつく。足元を見ると摺り傷だらけになっていて、血もにじんでいた。
「あっ……」
「心配するな。お前が考えていることなど我々が分からないと思ったか? 街で仲間が引き留めているから、急いで戻れば間に合うはずだ」
烏の魔物は翼を広げる。そして、かぎ爪の足でリーセの肩をつかみ、勢いよく上空へと舞い上がった。
瞬く間に木々の高さを超えて、さきほどまでリーセと話していた男の姿が眼下に小さく見えた。
「ぎゃあ! 怖いっ。それに下から下着が丸見え!」
錫杖と鳥かごを持っているので、法衣の裾を押さえることもできない。
足をばたつかせると片方の靴が脱げ、落ちていったが、別の烏の魔物が素早く空中で捕らえた。
その様子を見てリーセは冷や汗を浮かべた。
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