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夢を見ていた。
水の音がしていた。緩やかな風が吹き抜けて、髪がふわりと揺れる。
目の前には湖ーーいや、噴水だ。
広場の中央に設けられた白い大理石の噴水。
その縁に腰掛けて、誰かが泣いている。
ーーカティア。
名前を呼ばれた気がして、振り返る。
けれど、そこにいたはずの誰かの顔が、滲んで見えなかった。
輪郭も、声も、霧の向こうにあるように、ぼやけている。
「……また、思い出せなかった。」
目が覚めて、私は、冷たくなった額の汗を手で拭いながら、小さく呟いた。
ここ最近、こうした夢を見ることが増えている。
見知らぬはずの場所に立っていたり、名も知らぬはずの誰かと話していたりする。
それなのに、夢から覚めた瞬間には、すべてが遠ざかっていく。
その朝、セルヴァンは屋敷にいなかった。
隣国の使者と会うために外出すると、前夜に聞いていた。
(……あの人がいないと、こんなにも空気が違って感じるなんて。)
不意に空虚が広がる。
けれどその代わりに、昨日見たあの部屋のことを思い出した。
書庫ーー立ち入り禁止とされていた記録室。
あの一冊の日記。
(……私のこと、どこまで書いてあるんだろう。)
たまらなくなって、私は立ち上がった。
午前中の屋敷は、掃除や食事の支度で動きが活発だったが、使用人たちは慣れた動きで私を気に留めることもなかった。
鍵のありかはわかっていた。
昨日のことがあったから、きっと鍵をかけているはずだと思い、あらかじめ、そっと借りた鍵を取り出し、再びあの部屋の扉をゆっくりと開ける。
目当ての棚には、革張りのノートが整然と並んでいた。
日付は刻まれていないが、『夢』『幻覚』『療養中の反応』などの言葉が断片的に目に入る。
まるで、観察記録のようだ。
その中で、私はある一冊を見つけた。
それは、他と違って表紙に銀色の紋章があしらわれており、明らかに、個人的なもののようだった。
手に取って、ページを開く。
『貴女があの夜、噴水の前で泣いていたことを、私は一生忘れないだろう。僕の力で、貴女を連れて行ったあの日。幸せだったかと問われれば、貴女にとっては、おそらく違っただろう。けれど僕は、何もかもを投げ打ってでも、貴女を守りたかった……この四年間、貴女が夢の中で微笑むたびに、私は罪を思い出す。』
(四年……?)
指先が震えた。ページがめくれ落ちていく。
『夢に出る名前を、貴女は毎晩呼ぶ。時にジュリアン、時にリリス。自分のことを、まるで別人のように責め立て、夜ごと涙を流す。それでも私は、貴女にきっといつか真実を伝えなければならないのだろう。時間が有限であるのと同様、幻にも限界がある。どうか、貴女が目覚めたとき、ほんの少しでも穏やかでありますように。』
胸が苦しくなった。
知らなかった。けれど、知っていた。
この記述は、紛れもなく彼、セルヴァンのものだ。
私はその場にしゃがみ込む。頭がうまく回らなかった。
夢で名前を呼ぶ。
それは、自分の中に眠っているかつての私に対してなのだろうか?
(……私、やっぱり……)
その時だった。
背後で何かが落ちる音がして、私は反射的に顔を上げた。
誰もいない。
けれど、開かれたままの窓から風が吹き抜け、机の上の紙がさらさらと舞い上がっていた。
その紙の一枚が、私の足元に落ちる。
それは、王都の地図だった。
私はそれを拾い上げて見つめた。
地図の一角、彼女の指が止まる。
「……リュミエール……」
文字を声に出した瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
視界が歪む。足元がふらつく。
崩れるように床に手をついた。
(今のは、なんだったの……?)
夜、セルヴァンが戻ってきた。
食堂に現れた彼は、いつもと変わらぬ穏やかさで挨拶をしてくる。
変わらぬ捲し立てるような私に対する褒め言葉。
けれど、その視線はどこか探るようだった。
「カティア……今日、一日どう過ごされていましたか?」
「ええ、屋敷を少し……散歩していただけよ。」
「……そうですか。」
短いやりとり。
いつもなら、セルヴァンは気にせずに、饒舌に私のあらゆるところを褒めちぎっているのに。
この前の出来事でなんだかセルヴァンと私は少しぎこちなくなってしまった気がする。
それ以上、セルヴァンは何も言わなかった。
だが、私にはわかった。
彼はきっと、あの部屋に私が再び入ったことに気づいている。
「ねえ、セルヴァン。」
「はい?」
「王都のことって……あまり話さないわよね。」
その言葉に、彼のまなざしがわずかに揺れた。
「王都は、貴女にとって……あまり良い思い出のある場所ではないかもしれません。療養に専念されるなら、あまり触れないほうがいいと、僕は……」
「私の意思じゃなくて?」
「……」
答えは返ってこなかった。
けれど、その沈黙がすべてを物語っていた。
私は立ち上がる。
食事も半分ほど残したまま。
セルヴァンの驚いたような目を振り切って、食堂を出る。
部屋に戻り、扉を閉めた後。
私は自室の鍵を閉めて、机の上に広げたままの王都地図を見つめた。
(ーー知りたい。)
夢で魘されながら呟いた名前。
隠された記録帳の言葉。
四年間という空白。
そのすべてを確かめるために。
(……私、王都へ行かなきゃ。)
つぶやいた声は小さかったが、はっきりと決意が宿っていた。
私は指先で、王都の地図をなぞっていく。
(そこに、私の過去がある。)
そう確信していた。
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