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最後までお付き合いいただければ幸いです。
屋敷へ戻ったあと、私はずっと胸の奥に渦巻く感覚の正体を探っていた。
ーーあの子は、いつ、私と会ったのかしら?
ーーなぜ領地の人たちは、私にあんなにもよそよそしかったの?
ーーどうして、私は“また来た”と受け取られていたの?
疑問は尽きなかった。
けれど、それ以上に心に残っているのは、セルヴァンの「おかえりなさい」という声だった。
まるでそれが当然のことだとでもいうように、彼は自然に言った。
優しさに満ちた声音だったのに、なぜか、心がざわついた。
(あの人は、私の、何を知っているの?)
それは思い上がりではなく、確かな直感だった。
セルヴァンが自分の好みを熟知しているのは、単に観察力が優れているからーーそう思い込もうとしていたが、もしかするともっと深い何かがあるのではないか。
そんな思いが、確かに芽生え始めていた。
かつて、大切な話をセルヴァンとした気がするのに、靄がかかって思い出せない。
「……あの、クレア。」
夕方、控え室で髪を梳かしてもらっていたとき、私はクレアに声をかけた。
「はい、いかがなさいましたか。」
「私って、セルヴァンと……いつから婚約していたのかしら?」
クレアの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに元の穏やかな動作に戻る。
「……療養のために、こちらにいらしてから、正式に婚約が発表されました。以前からのご縁がありましたので。」
「以前からのご縁?」
「ご幼少の頃に一度、お目にかかったことがあると……そこからのご縁で、と、セルヴァン様からお聞きしました。」
聞き覚えのある説明だった。
けれど、それ以上の情報は出てこない。
その回答はとても曖昧な気がした。
まるで、決して踏み込ませないように、なにかの境界が引かれているようだった。
「そう……」
クレアの手を止めてはいけないような気がして、私はそれ以上を聞けなかった。
けれど、私を覆う靄は、ますます濃くなる。
その夜、私は一人、屋敷の回廊を歩いていた。
療養中の身であること、夜の冷気が身体に触れると危険だと何度も言われていた。
それでも、足は勝手に動いた。
自分の過去を知るために、記憶に通じる“なにか”を探していた。
辿り着いたのは、西棟の奥まった一角だった。
立ち入りはご遠慮ください。
そう書かれた札が扉に掛けられていた。
私有地に、限られた人しか出入りしないこの場所に立てかけられた異質な札。
けれど、不思議とその扉には見覚えがあった。
これは、明らかに私に向けられた物だった。
木目の節の位置、取っ手の冷たさ、引き戸の感触まで、すべてが“知っている”と訴えてくる。
(入ってもいいかしら……)
誰にも問うことはできなかった。
けれど、自分の中の何かが「入らなければ」と告げている。
カティアはそっと扉を開けた。
ほの暗い室内。
かすかな埃の匂い。
壁一面に並ぶ書棚と、中央の円卓。
その上には古びた日記帳のようなものがいくつか積まれていた。
指が勝手に動いた。
そのうちの一冊を開く。
筆跡は几帳面で、小さな字が整然と並んでいる。
『明日は湖に行く約束だ。カティアは、朝からそわそわしていた。やっぱり水が苦手なのだろう。それでもルルミアがカティアを思って提案してくれたからと断らずに準備を進めている。僕がそれとなく辞めようかと提案したら、カティアは首を振り、“貴方と一緒ならきっと大丈夫”と笑っていたのが忘れられない。』
ーーカティア?
その名を見つけた瞬間、頭の中に、風景のような何かが流れ込んできた。陽射し、水音、笑い声。
(私……湖なんて、行ったこと……)
ーーある。たしかに、ある。
今まで忘れていたのだ。
そう思った瞬間、扉が開く音がした。
音がした方を向くと、カンテラの光に私は目が眩んだ。
「こんなところにいらっしゃったのですね……寒くないですか、カティア。」
セルヴァンの声だった。
振り返った私の手には、まだ日記帳が握られていた。
彼はそれに目を落とすと、ほんの一瞬だけ表情を固くした。
「この部屋は……僕の記録室です。記憶が混乱することもありますから、カティアには触れてほしくありませんでした。」
いつにない拒絶の声にカティアは自分の身体が強張るのを感じた。
「ごめんなさい……でも、私の記憶が混乱する、って……私に関係のあることが書かれてるの?」
セルヴァンは沈黙した。
いつもなら「大丈夫です」や「気にしないで」と言ってはぐらかす彼が、何も言わなかった。
「ねえ……セルヴァン。貴方は私の何を知っているの?」
問いは、もう止められなかった。
「どうして、私の好きな花を知ってたの?どうして、庭があんなに私好みだったの?食べ物も、調度品も、何もかも……私、貴方に一度も、好きなものを話した覚えなんてないわ。なのに、貴方は最初から、何もかも知っていたのは、なぜ?」
沈黙が満ちる。
彼の視線が、テーブルの上の一冊に落ちた。
そこには、こう書かれていた。
『……あの日、貴女からある願いを言われてから、願いを叶える手伝いをしているまでだ。貴女が望むなら、僕はただ、傍にいる。』
私は、言葉を失った。
この記憶喪失は私が望んだことだったりするの?
セルヴァンはゆっくりと歩み寄り、そっと私の肩にマントを掛ける。
「僕は、貴女の過去を塗り替えたかったわけではありません。ただ……痛みを和らげたかった。それだけです。」
それ以上、彼は何も言わなかった。けれど、その背中はどこか、ひどく寂しそうに見えた。
部屋を出たあと、私はしばらく扉の前に立ち尽くしていた。
彼は何かを隠している。
そして、その理由は、私のため?
だったら、私はどうしたいの?
知りたい。怖いけれど、知りたい。
貴方が私をどう想っているのか。
貴方が、私にどんな幻を見せていたのか。
(……私、やっぱり、知らないままでいたくない。)
手の中のマントは、微かにセルヴァンの匂いがした。穏やかで、どこか懐かしい香りだった。
(もっと……貴方のことを、知りたいから。)
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