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ガラス窓の向こう、庭の薔薇が朝露に濡れていた。
柔らかな陽差しが白いテーブルクロスを照らし、揺れる紅茶の水面を金色に染める。
「お口に合いましたか、カティア様?」
「ええ。今日のは香りがいいわね。ダージリンかしら?」
「はいっ、今朝届いたばかりの新茶です!」
ルルミアが得意げに胸を張って笑った。
年若い彼女はいつも明るくて、こちらまでつられて笑ってしまう。
少し紅茶をこぼしたり、物の位置を間違えたりと不器用なところはあるけれど、カップを差し出す両手はいつも真っ直ぐだった。
「こら、ルルミア。そんなに得意気になる前に、まず盆の上の砂糖壺を拭きなさい。」
低い声でたしなめたのは、クレア。
黒髪の丁寧切り揃えた前髪に、後毛ひとつない纏められた髪。
心の奥を読まさせない表情のない顔。
冷たいように見えるが、どこか柔らかい、守る者の眼差しがあった。
「す、すみません……!」
「いいのよ、ルルミア。私は気にしてないわ。」
そう言うと、クレアは申し訳なさそうにした。
「お気遣い、痛み入ります。ですが、私たちは“あの方”から命じられておりますので。」
“あの方”。つまり、セルヴァンのことだ。
いつもメイドたちはそう呼ぶ。
“セルヴァン様”ではなく、“あの方”と。
――なぜかしら。どこか、よそよそしい。
「ふふっ……また言われるわね、ルルミア。」
「でもカティア様は、ちゃんと受け止めてくれるからっ!」
「……ほんと、素直ね、あなた。カティア様のご厚意に甘んじてないで精進しなさい。」
そう言ったのは最年長のメイド、ポミエだった。
微笑みながらも、どこか達観したような空気を持っている。
紅茶を注ぐ手は静かで、揺らぎがない。
「お嬢様はお優しい。でも、優しい人ほど、見えている以上に、周囲によく気を配っているものなのよ。」
「……え?」
「いえ、なんでもありません。おかわり、いかがですか?」
私は頷いた。けれど、どこかひっかかる。
まるで、言葉を慎んでいるようだった。
一拍置いたあとで、ポミエは話題を変えた。
午後は散歩の時間だった。
といっても、屋敷の回廊を一周するだけ。
ガルドがすぐ後ろについてくる。
距離を取りつつも、視線は常に私の動きに注がれている。
「……ねえ、そんなに心配しなくても大丈夫よ。倒れたりしないわ。」
「いえ。前回のようなことがあってはなりませんので。」
「前回……?」
「……いえ。忘れてください。」
歩みが止まる。
けれど、私は先へと歩いた。
“前回”とは、何を指しているのだろう。
私には思い当たる節がない。
それとも、何かを忘れてしまっているのだろうか。
まるで、記憶の中にぽっかりと穴が開いているみたいに。
一歩一歩を踏みしめながらも、その足元にある石畳が現実感を欠いていく。
夜、セルヴァンは書斎から戻ると、必ず私の部屋に立ち寄る。
「今日もお疲れさまでした、カティア。お体の具合は?」
「ええ、大丈夫。紅茶も美味しかったわ。ルルミアがね、新茶だって得意気でーー。」
「……そうですか。何か、変わったことは?」
「変わったこと……?」
「誰か、妙なことを言ったりはしていませんか?」
その問いに、少しだけ胸がざわついた。
「……特に、なかったわ。」
「そうですか……なら、いいんです。」
セルヴァンは微笑んだ。
けれど、その微笑みの裏に、何かを探るような視線を感じた。
私は今、何かを隠されている。
そう直感した。
でも、それが何なのか、分からない。
ただ、まるで鳥籠の中にいるみたいだ。
この屋敷そのものが、私の“療養”という名の檻なのだとしたら。
「おやすみなさい、カティア。今夜は少し蜂蜜を多めにしておきました。優しい夢を。」
いつもと同じ、ホットミルク。
けれどその香りが、少しだけ違った。
……何が、違うの?香りだけ?
「ありがとう……セルヴァン、明日はお庭に出てもいい?」
「……はい。ただし、決してお一人では行かないでくださいね。何があるか分かりませんから。」
「……“何か”って、何?」
セルヴァンは一瞬だけ目を伏せた。
「……いえ。貴女は、大切なお方ですから。危険なことなど、近づけたくないのです。」
私はベッドに身体を沈めながら、天蓋越しに天井を見上げた。
ここに来てからの毎日は、美しい布で丁寧に包まれた贈り物のようだった。
でもその美しい布の外には、何があるのだろう?何から守られているのだろうか?
――それを知ってしまえば、私はもう、戻れない気がした。
それでも。
それでも、私は知りたい。
なぜ、こんなにも大切にされているのか。
なぜ、誰もが私に言葉を濁すのか。
なぜ、この心は、空白を抱えたままなのか。
もう一口、マグカップに残っていたミルクを含む。
――甘い。
けれど、その奥に、ほんのかすかな、薬草の苦み。
私は目を閉じた。
夢と現の境界が、音もなく、崩れていく。
その夜、屋敷の奥で、静かに会話が交わされていた。
「……カティア様の安定は保たれています。ミルクに入れている投薬も問題ないかと。ただ、反応に小さな変化が見られました。」
「そうですか。ならば、さらなる補強をします。あの人には、これ以上思い出してほしくないですから。」
「……セルヴァン様。いずれ限界はきます。」
「わかっています。ですが、せめてもう少しだけ……彼女に、平穏な夢を見せてあげたいんです。」
深紅の瞳が、わずかに揺れていた。
それが、罪の証だったとしても。
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