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目覚めた時、そこは薄紅色に染まった天蓋のベッドだった。
窓から差し込む朝の光は、柔らかくカーテンを透かして、部屋中を金色に染めている。
絹のシーツ、整った家具、静謐な空気。
――まるで童話の一場面のように美しいけれど、私はそのどれにも、懐かしさを覚えなかった。
自分の名前も、ここがどこなのかも、最初は何も思い出せなかった。
ただ、目の前の男だけが、私を“私”として繋ぎとめていた。
「おはようございます、カティア。」
白銀の髪が陽光を受けてきらめき、深紅の瞳がやわらかに細められる。
その人ーーセルヴァン・ファントメルと名乗る男は、私の“婚約者”であり、この地ファンティアを治める領主だという。
「おはよう、セルヴァン。」
私がそう返すと、彼は両手で顔を覆い、くぐもった声で唸った。
「……ああっ、幸せだ……! 目覚めた貴女が、朝一番に僕に声をかけてくれるだなんて……この人生に、一片の悔いもございません……!」
「ちょっと、大袈裟よ。」
「いいえ、大袈裟なんかじゃありません。世界中の詩人を総動員しても、この気持ちは言い表せないでしょう。カティア、貴女は、朝露の女神……! いいえ、天上の祝福……!」
毎朝この調子だった。
溶けそうなほど甘い視線と、恥ずかしくなるような愛の言葉。
けれど私には、どうして彼がここまで私を想ってくれているのか、まるで分からなかった。
彼の言葉が嘘だとは思わない。
けれど、まるで私自身が、別の誰かを演じているような、そんな奇妙な違和感があった。
「ガルド、散歩に行ってもいい?」
「……昨日雨が降っていた影響で、本日は足元が冷えます。道の苔も滑りやすく……屋敷の中を、少し歩かれては?」
ぶっきらぼうな物言いだが、彼なりの優しさなのは分かる。
ガルドはセルヴァンの部下で、私の護衛でもある。
黒髪にヘーゼルの瞳。
見るからに強面で、近寄りがたい雰囲気を纏っているのに、不思議と私は彼を嫌いになれなかった。
「……じゃあ、廊下だけ歩こうかな。お願いね。」
「……御意。」
ほんの少しだけ屋敷の外に出ようとするだけでも、彼らは必要以上に私を引き留めようとする。
私が体調を崩しやすいのは本当だ。
目眩がして、力が入らなくなる。
しかし、まるでこの屋敷が、外界から切り離された聖域のように感じられるのは、気のせいだろうか。
朝食の席には、セルヴァンと私、そして専属メイドのクレアとルルミアが控えていた。
メイドのひとり、ルルミアは年若く、いつも元気に明るい声で笑ってくれる。
「今日はお天気が良くて、お庭のお花も嬉しそうですよ、カティア様!」
「ふふ、そうね。ルルミアも元気そうで何より。」
「はいっ!……って、あっ、ごめんなさい、今朝の紅茶、少しぬるいかも……!」
「いいのよ、大丈夫。ありがとう。」
隣でクレアがため息をつくのが聞こえた。
「ルルミア、緊張するのは分かりますが、教本の作法のみを意識しすぎると逆に……」
「だってだって、基礎は大事じゃないですか!それに、カティア様があの有名な……!」
「ルルミア。」
その瞬間、セルヴァンの声が静かに響いた。
けれど、確かに空気が張り詰めた。
彼の目は笑っていたけれど、声の奥に“触れてはいけない領域”が覗いたように思えた。
「……失礼しましたっ!」
私は紅茶を口に運びながら、そっと彼女たちのやり取りを見守った。
“有名な”、その言葉に、心のどこかがざわつく。
なぜか私は、誰かの目にさらされていた記憶がある。誰かの視線が、どこまでも追ってきたような、そんな……。
頭が少し、痛んだ。目の奥がじんわりと痛む。
何かが、喉元まで込み上げてきた。
けれど……その“何か”が何なのか、掴めなかった。
「セルヴァン。」
「なんでしょう、カティア。貴女が口を開くたび、僕の心臓が高鳴って困ります。ああ、貴女のことを想うと、今夜も眠れない。」
「本当に、いつもそんな調子なの?」
「僕のどこが嘘に見えますか? 貴女が笑えば、この国の夜は明けるんですよ?」
「なにそれ……ねえ、私、本当に……貴方と婚約してたの?」
セルヴァンの紅い瞳が、わずかに揺れた。
その揺れは、雷鳴のように私の心を打った。
「……ええ、もちろん。貴女のような女神と婚約できて僕はとても幸せです。」
優しく、けれど有無を言わせない口調で、彼は言った。
「カティア。僕は、貴女が今笑ってくれているだけで、十分に幸福なんです。」
その夜、私は例によってセルヴァンから蜂蜜入りのホットミルクを受け取った。
湯気の向こうの彼の表情は、優しさに満ちている。
……いつまでこの夢のような日々が続くのだろう。
外の世界は遠くて、思い出すこともできないまま、私は今日もここにいる。
「ゆっくりでいいんですよ。貴女が望む限り、貴女はここにずっと居ていいんですから。」
セルヴァンは、優しくて、理想の婚約者。
何かを見透かしたように、優しい言葉を私に伝え、私の不安を和らげようとしてくれている。
けれど時折、その紅い瞳の奥に、誰にも見せたことのない影を見た気がする。
それはまるで、私の知らない“過去の私”にだけ向けられるような、罪と祈りの色だった。
ホットミルクを一口飲む。
ふわりと甘く優しい匂いのはずなのに、なぜか胸の奥がざわついた。
「良い夢を、カティア。貴女の夢に、僕も出てきますように。」
「また変なこと言って……ホットミルク、ありがとう。おやすみなさい、セルヴァン。」
――ほんの少し、眠気の奥に、霞がかった言葉が浮かんだ。
(私は……“思い出したくない”ことが、あったのかしら?)
瞼が重くなる。
ミルクの温もりと、彼の囁くような声と。
おやすみのキスだろうか、セルヴァンは私の頬に手を触れた。
(でも……それでも……)
その言葉の続きを、私は最後まで考えることができなかった。眠くてもう考えられない。
廊下の隅、薄暗い影の中に、ガルドの姿があった。
彼はひとり、小さく呟いた。
「……覚えていない方が、あの方は幸せなのか?」
問いは誰にも届かず、ガルドの小さな呟きは夜の静寂に沈んでいった。
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