地下街を下に
ローラの緊張は頂点に達していた。間もなく目の前の豪壮な扉から、この国の影の女王が出てくるのだから。それにしても、こんな都の中央に悪人の城があっていいのだろうか。
シルバ達がいなくてとても心細く感じた。たった数日とは言え、友人より近くにいた存在。特にシルバは、心の半分を占めるほど存在が大きくなっていた。
「こちらをどうぞ」
ビクンとしたローラに渡されたのは、赤い宝石が付いた腕環だった。随分緩く作ってあり、つけると音が鳴った。
「何でこれを着けるんですか?」
給仕の女性はにこりと笑った。ローラの服を正しながら優しく教える。
「大切な客人ですから、強力な守護が必要なのですよ」
意味がわからず、腕輪をさすってみた。何も起こらない。アリグルみたいな竜が出てきたらいいのに、そう思ったが何も起こらなかった。
「ミリア様が到着なさったわ…でも……ダルガ様は何処に…」
周りで静かに話す女性に耳を傾けてみた。聞き取れる前に去って行ってしまい、仕方なく料理に手を伸ばす。
すると、腕輪が触れた料理がパッと消えてしまったのだ。丁度それは、ロブスターの巨大なもののグリルで、正に吸いこまれるようにしてなくなってしまった。
「あ・あ…あの」
女性達は気が付いていないようだ。ローラも自分ひとりで巨大なグリルを食べたなど思われたくなかったので、黙っていることにした。
壁越しで走る音がして、突然扉が開いた。重々しく、しかし、しなやかに。人影が二つ見える。一人は背の高い男性のようで、もう一人は少女みたいだ。
「ようこそ、異国の民よ」
挨拶をしたのは、淡い金色のベールで顔を覆った少女だった。
「ベルク国王女、ミリア・オルスターニと申します」
全身から力が抜けるのに、ローラはあらがうことができなかった。
「だから言ったじゃないか!! ローランにこんなところ来させるべきじゃないって」
「あんたは忘れているようだからはっきり言うわよ、シルバ。ここに来る前に、もうローラちゃんは居なくなってたわ。貴方がずっと隣にいたはずなのにね」
王都の地下街で、シルバ達は口論を始めていた。ベスがローブを買いたいと言って地下街に来たのはいいが、ローラが居なくなっていたのだ。
ベスは汗ばんだ服を見下ろし、悪態をつく。一方シルバは、この世の終わりという顔をして焦っていた。
「ベスさんが服買いたいなんて言うからさあっ。こんなことになったのほ…ああっ、ローラン!」
シルバは頭を抱えて座り込む。異様な光で満たされ、物で溢れた地下街は、道脇にいくらでも座る場所があるのだ。ドラゴンから翼を譲り受けた種族「フィティシモ」は、大きく広げた白いシーツに、自慢の薬を並べ宣伝している。シルバは眼の前でパンを売る少女をじっと見た。
耳をつんざく喧噪のなか、おろおろと客を探す彼女が、何故かローラと被って見えたのだ。
「エンデ族のお嬢さん、二つくれないかな」
シルバは座ったまま明るく言った。少女は顔を赤らめて、おずおずと近づいてくる。小さく差し出した、香ばしいパンに、シルバは微笑む。
「80ディフィットになります…」
そこへベスがづかづかと割り込んできた。明らかに文句を言いだす寸前だ。
「ちっちゃなパン二つで80ディフィットですって!? シルバが男の子だからって舐めてるんじゃないの。あたしの顔を見たことない訳ないわよね、婆さん」
シルバが声も出ないほど驚く目の前で、少女は態度を一変させた。籠に入れたパンをかばうように抱え、ベスを睨む。発した声は、老婆そのものだった。
「営業妨害に職を転じたのかい? あんたには関係ないだろう。どの道この街にゃ金が溢れてるんだろう。あたし一人くらいで詐欺まがいを行って何が悪い」
ベスは背筋を伸ばし、堂々と言い返す。少女の小鼻は、鷲鼻に醜く変化し始めた。
「関係はあるんだよ。そいつはシルバって言ってあたしの連れ。世間慣れしてないみたいだから、あんたを良い例に教訓を与えなくっちゃねえ」
少女と呼ぶに値しなくなった彼女は、ぐっと身構えたが、後ずさりをして逃げて行った。呆気にとられているシルバを、ベスが小突く。間髪いれずに嫌味を言い放った。
「御坊っちゃん、あんたが森からあんまり出ていないどころか、買い物すらしていないことはようくわかったわ。頼むから今度から何か買う時は、あたしを通して買ってくれるかしら。じゃなきゃあんたの財布は半日で空になっちゃうわよ」
シルバは顔が熱くなるのを感じたが、何も言い返せずに黙ってしまった。そんな彼を見て、ベスは口調を和らげる。
「慣れてないんでしょう。軽率なことはやめてね。その手にあるパン一個貰って良い?」
その時初めて、シルバは手の中にパンを持ったままだと気が付いた。さあっと血の気が無くなる。
「た、大変だ。返しに行かなくっちゃ。お金だって払って…」
頭に痛みが走り、それ以上続けられなかった。どうやらベスが殴ったようだ。痛む頭をさすりながら、ベスをみつめる。
シルバの目線などないかのように、ベスはパンをむしり豪快に食べていた。ローラを探すと大騒ぎしたせいで、結局何も食べていなかったのだ。
シルバはバツが悪くなって、両手でパンを持ち齧った。
「味だけは正当だわ、あの婆さん」
そう言うベスは、大人らしくクッと唇を持ち上げた。
服のかすを払うと、ベスは元気に叫んだ。むしろ、この中では叫ばなければ声は届かないのだろうが。
「我らの姫を探しに行きましょう。見当は付いてるわ。宮殿よ」
言い終えるかと思えば、すぐに地下街から上がる門へと歩き出した。門では、黒い色彩の制服を纏ったフィティシモが、力を振り絞って門を開けている最中だった。悠々と入り込んだベスは、後から来る一人と一頭を見ながら、小さく笑った。
「宮殿には行ってみたかったのよね」