デコンの群れ
昔から勘は鋭い方だった。だからこそ今、娘に危機が迫っていることが感じ取れた。
もどかしいほど回りにくい鍵を開け、埃さえ浮かばぬ空間へ入る。彼女の家の書庫は、蔵書量に負けず劣らず、その陳列が美しかった。一部も無駄のない完璧な本の世界。
彼女は、決められた自分のスペースに行くと、並ぶ本に指を走らせた。ハードカバーを愛する彼女の本が、何度も起伏して指を跳ねる。
「これじゃない、これじゃない…あれがない」
ぴたりと指が止まった位置は、不自然な空白だった。確かにそこに本が存在していた空間。
彼女の唇が、ゆっくりとその名を口にする。
「ベル・サーガ……」
ブロンドの髪に両手をあて、顔をゆがませた。叫びともうめきとも、どっちにも取れる声がにじみ出る。瞬間、すべての本を投げつけたい気に襲われた。
何とかそれを踏みとどまると、彼女は大きく息を吐いた。
「ふふっ、ふ。ローぉおぉラぁあぁああっ!」
その叫びと共に。
ベスは不思議な女性であった。自分を紹介しているように思わせるが、実際は正体がつかめない。それに苛立つドラゴンに、感動で耐えきれないという口調で接するのだから、空気がおかしくなるのも当然だ。
「貴様、そろそろ首から離れろ」
シチューを食べ終えたアリグルが凄む。だが、ベスはこれまでに様々な生物に会ってきたらしい、平然と切り返している。シルバが横で睨んでいることも気づかぬふりだ。
「奇跡の産物であるドラゴンよ。死ぬまで離れたくないわ」
「貴様はなぜそこまで異常にドラゴンにこだわる?」
ベスは微かに眼を見開いた。手を下ろしてぽつりと話しだす。
「私は歴史学者なの。この国だけじゃなく多くの国について学んできたわ。その中でラリアの悪行…ドラゴンを全滅へ追いやったことも知った。私はドラゴンが子供のころから憧れなの、それだけよ」
何故かシルバが目を輝かせた。
「歴史学者なんですか」
三皿のシチューをたいらげたシルバが元気に尋ねる。先程まで訝しげに視線を送っていたことさえ、忘れているようだ。辺りは薄暗くなっており、銀髪が炎で揺れる。
「そうよ、どうかした」
シルバはうずうずと周りを見回し、弾む口調で言う。
「試していいですかね」
ローラはその後付いていくことができなかった。冷めたシチューを一口ずつ運びながら、二人の会話をただ見つめる。
「ビグぺロ戦争ほ何年に起きましたか」
「四七六九年のヘリダの月よ。ルース王とベルクのファシミア王女が対立した」
「流石…じゃあ、キエロの暗殺ほどこで行われたか」
「勿論、イークエラの長の家の地下。犯人はビグぺロの刺客」
ベスは楽しそうに見えた。知恵を披露するのが気持ちいいのだろう。だが、歴史を全く知らないローラにとっては遠い世界の話であった。しばらくしてアリグルが加わる。
「ドラゴン初の発見日はいつだ」
「正式に交流を持ったのは三七年。でも、シェハンの地方ではベスタ紀元前四千でしょ。あなたも立ち会ってたんじゃないの?」
「ふん、当たっているな」
ローラは静かに皿を片づけた。ふと、森の方を見ると光る眼がよぎった。叫び声を上げる間もなく、周囲に唸り声が満ちる。咄嗟に伏せたおかげで、頭上を走った牙から逃れられた。反射神経がよくなったのだろう。ローラは軽く優越感を覚えた。しかし、体はおびえている。
「デコンの群れだな」
ゆっくりと立ち上がったアリグルが、過ぎて行った影を目で追った。
危険に震えるローラと裏腹に、周りが妙に落ち着いているので頭をあげると、空き地に太陽ではない光が広がっていた。シルバが気遣うように炎を消すと、その空間にも光が滑り込む。
決して不快に感じぬ、優しい光だった。眼を凝らしてみると、一つ一つの光は腕ほどの大きさで、中心に生き物がいるようだ。ローラは眼の前に来たそれを観察した。
「デコンは半期に一度移動するの。牙はあるけど、彼らの通路にいなければ襲ってこないわ。この時期自ら光を発し求婚する。ほら、そこ」
ベスの示した方向で二つの光が交差していた。ローラは初めてその生き物を垣間見ることができた。
小さな飛竜のように薄く大きな翼を持ち、タツノオトシゴに似た体をしている。ゆっくりと翼を動かしているようだが、それは見極められなかった。
もう片方は、薄いピンクを帯びており体の横にヒレがある。さらさらとした髪が頭から流れ、小さな眼がのぞいている。メスなのだろう、翼が無かった。口があるべき場所に小さく開いた穴から、絶えず白い球が生まれてくる。それは空に優雅に浮かび、木の高さに上がったところで弾ける。
その後には輝く粉が残り、ゆっくりと集まって小さな飛竜となる。その動作が至る所で行われて、ローラの眼はすべてを見収められなかった。
「ローラン、邪魔しないように家に行くよ」
シルバの一言で、ローラは夢のような空間から離れることにした。あまりに美しい光の空間、何か胸に詰まるものがあり、気付けばローラの頬は濡れていた。
「すごい…」
言い表す言葉の無い人間に生まれたことを後悔した。ただ、その光景に驚くばかりだ。
「ローラよ、最後だ。後ろを見ろ」
アリグルが促した先で光の爆発が起こった。それは緩やかで麗しく地面から溢れ出てくるものだった。
無数の光が一か所に集まり、赤と白が混じる光が回転する。浮かんでいた数に合わないほど小さくまとまったものは、シルバの家の上まで上昇すると、一瞬円のように広がった。衝撃波に見えたが、風さえ吹かなかった。
森全体に広がった光は、名残惜しそうに揺らぐとまた集まり、輝く粉を散らしながら彼方へ飛び去った。ローラは眼で追うことも叶わず、空に残る粉に手を伸ばす。
雪の如く溶けるかと思ったが、掌を重力に従うように滑り落ち何も残らなかった。
ローラは木の椅子に座って、地面に眼を落した。頭が追い付かぬほどの映像が繰り返される。
「ローラン、ベスさんが話があるって」
自分が呼ばれ初めて会話に参加したローラは、この国ベルクについて軽く説明を受けた。まださっきの光景に浸っていたかったが、理性が勝った。
「この国はベルクと言うの。約千三百年前にオルスターニ家が収め始めた。大陸の南東に位置していて、領土は広いけど、武力も魔力も小さい国よ」
「まりょく…」
「代々ビグぺロ国との争いが絶えなくてね。ラリアの紅玉で相手を滅ぼそうとする人が絶えないわ。もちろんみなラリアの問いに答えられず、自分自身が紅玉の一部になっちゃうんだけどね」
ローラは全く意味がわからなかったが、おとなしく最後まで聞くことにした。
「ローラ、大切なことはラリアが異国から来たということ。同じように異国から来たあなたは、これからいろいろなところから監視を受けるでしょうね。もちろんラリアからも」
「待って下さい、じゃあ私の存在はもうラリアに知れているんですか?」
ベスは困ったように首をすくめる。
「それぐらいの力が無けりゃ大陸の女王にならないわ。そうそう、ラリアは二十年前にホルドーザの国に現れたのね。そのことは必要ないわ。そうねえ、あとはいっか」
聞いた事を何度も復習したローラは、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「紅玉って何ですか」
ベスが迷うそぶりを見せる。隣で寝ころんでいたアリグルが声を掛けた。シルバやローラに対する時の優しさの無い、強い声だ。
「教えろ」
「早くない? まあいいわ、紅玉はこの大陸で最大の魔石。魔力の面でね。大陸が生まれる時一緒に生まれたらしいんだけど、ラリアが見つけるまでだれも気が付かなかった。で、肝心の効果なんだけど、代償なしに魔法が使え、制限が無いから、何でも出来るって訳」
シルバが横から口をはさむ。小屋に入ってからずっと、木のつるで何かを編み続けていた。
「普通、どの種族も越えてほいけないエレクトの制限があるんだ」
「エレクトは魔法のことよ」
ローラはポンチョをいじりながら小さくつぶやいた。
「休んでいいかな」
これ以上聞いても理解できる自信はない。アリグルが立ち上がり小屋の外へ行くと、シルバもやりかけの作業を中止した。こうして、波乱の二日目が終わった。ローラはベスが作ってくれたメンサと言う寝袋にくるまり、横を向いた。市販のものとは異なり、優しく肌にくっつくスベスベした素材に包まれた。目の前に眼を閉じたシルバの顔が現れ、慌てて元に戻る。
「顔火照る…」
見たことないほど近くで見た男の子の顔に、ローラの心臓は落ち着く気配がなかった。