上に立つ者
ラリアがベルクの空に消え去るのを待って、アンガーは暗闇から姿を現した。その唇は美味そうにキセルをくわえている。
「可愛いねぇ。いくら大陸の女王と言ってもまだまだ子どもじゃないか。婦人とどちらが強いか、わからないもんだ」
彼女は低空からふわりと森に降り立ち、灯りの方へと歩き出した。伝統の下駄が落ち葉を小気味良く踏みしめる。その音が彼女は好きだった。
周りに兵士が現れ始めた。アンガーはその中を悠然と闊歩する。死を垣間見た彼らは、呆然と彼女を見つめた。
広場の中央に長はいた。アンガーを見て、貫禄のある顔をしかめる。
「誰が帰ってきていいと言った? うつけものが。早く聖地を去れ」
エギ・ティンクトが低い声で唸るように言う。彼自身、先の戦闘で深手を負っていたようで、腰をかがめていた。
「混乱してたもんだから、今なら乗っ取れるかと思ったんだけどねぇ、残念。無事じゃあないか」
アンガーは白い息を吹き散らす。その香りは広場全体に広がった。焚き火の焦げ臭いと花の甘い香りが混ざる匂い。
「残念だったな。もう貴様が王族だったころのことは忘れろ」
アンガーの細い眉が動いた。だが、眼は醒めたまま族長を見つめる。ティンクトは鷹に射竦められた感覚を思い出した。
「つまんない国にうまれたもんだねぇ。追放されて万々歳だよ…」
ティンクトの額に血管が浮き上がる。老いた体を震わせて彼が叫んだ。
「よもや忘れたとは言わせぬぞっ。貴様がこの国を、民を破滅に追いつめたであろう! フェシア湖からエレクトを全て吸い尽くしおって」
「うるさい爺さんだねえ、忘れろと言ったり忘れるなと言ったり。解決したならいいじゃないか。代わりの湖も見つけたろう。それに…」
おもむろにアンガーは足元の剣を拾い上げた。森の一角の山から切り出した聖なる石で作られた剣。粗末ながら、切れ味は凄まじい。
その滑らかな刃先を撫でながら、彼女は溜め息をついた。
「エレクトを使わずいつまでも古い戦法を続けるあんたらに、魔法は必要ないんだろう?」
「ふざけるな!」
「グレン!」
ティンクトの脇に控えていた若者が立ち上がった。族長の息子、エギ・グレンだ。細身ながらも逞しい肉体を携えた、次期族長である。
彼は頭から流れる血も気にせず、剣を構えた。
「貴様に民を想う心は消えたのか? 守神に捧げるエレクトの光を忘れたか?」
「あぁ、あったねぇ。そんなものが」
グレンはギリギリと歯を噛み締めた。剣が細かに震えている。戦いを中断され持て余した闘争心が暴走しそうなのだ。
「国から去れ。命令だ。逆らうならば切り捨てる」
アンガーは一度だけ切なげに周りを見回した。よく知る顔が、見たことのない憤怒の顔で見返してくる。泣き笑いの曖昧な笑顔を浮かべると、彼女は背をむけた。
その目の前に、老婆が立っていた。ブルブルと肩を震わせて涙に耐えている老婆が。
「じゃあ、サヨナラだねぇ」
老婆が崩れ落ちた。周囲の者が駆け寄るが、骨の浮き出た腕でそれらを彼女は振り払った。アンガーを恨めしそうに見上げる顔には迫力がある。アンガーは困って笑った。
「親不孝者だねぇ、私は」
「…いや、違う」
老婆が口を開いた瞬間、アンガーの胸を剣が貫いた。王族の紋章が彫られた美しい剣が。一瞬仰け反ったアンガーが膝をつき、振り返るとグレンが剣を投げたままの姿勢で睨んできた。
「やはり貴様は死を持って償うべきだ」
静寂が走る。ほんの二回月が瞬くような短い間、全ての音が消えた。
そして、老婆の悲鳴が響き渡った。同時にアンガーの口からキセルが零れ落ち、血が流れる。
「勝手なことをするでないっ、グレン!」
「黙って下さい、父よ。もうあなたに族長の資格は無い」
「なんだと…」
アンガーの目に、息子が父を刺す姿が映った。民がざわめく。混乱が忍び寄る。
(わかるよ…ラリア。こんな世じゃ、つまらないねえ。滅ぼしても良いと思うだろうね…)
「族長になにをするっ」
「父親殺しは死罪だ!」
「黙れ、黙れ! 女王に寝返った奴らの始末すら出来ぬ族長に何の価値がある?」
ティンクトは息子の本性を見ながら、悲しそうに倒れた。剣は心臓を貫いていた。
(あぁ、聖なる国と信じていたのは儂だけか)
ティンクトは絶望しながら眼を閉じた。
ダン、と音が響いた。イラクエラの民から熱が引く。アンガーは力強く突いた右手で体を起こした。そのまま平然と左手で胸から剣を引き抜く。血が噴き出すことは無かった。
「屑を助けたものだねぇ」
失望の滲む声が広場を制する。グレンは当惑して後ずさった。その情けない姿を彼女は冷酷に見守り、立ち上がる。
「なぜ? なぜ、立つことができる!」
アンガーはせせら笑った。美しい臙脂の髪を揺らし、遊女の危うさを覗かせて。
「国一つ滅ぼすエレクトのお陰さぁ、あの子に感謝だね。滅びの魔法球が命を救うとは皮肉なものだ」
グレンは意味がわからず、よろよろとさらに後ずさった。後ろには怒りに満ちた民が並んでいる。
老婆がアンガーを見据えて言葉を紡いだ。
「グィンゼル…、愛しい子。しかし、恐ろしくなったねぇ」
アンガーは口の端だけを上げ、母に応えた。
「グレン、この国であんたの支配は続かないだろう。次は誰も助けてくれないからねぇ」
ハッキリと言い放つ彼女に誰もが息を呑んだ。今や国中の民が広場に集まっていた。
無垢な子どもの無知は時に幸せだ。
「ふ、ふざけたことをっ、貴様は忌まわしき存在だ。死神に気に入られた忌み子だっ」
「忌み子はどちらだ、父親殺し」
アンガーの冷徹な声はグレンの心を突き刺した。
グレンは奇妙な音を絞り出すと、人々の中に飛び込んだ。無論、逃げ出せる訳もなく、橙の着物が幾多にわたり立ちふさがった。
惨めに広場の中央へ突き返された彼が、父の亡骸の横へ転がる。グレンは小さく悲鳴を上げた。
「族長ティンクトの人望が見る影もないね、哀れなグレン。ご機嫌よう」
アンガーは優雅に簪を解くと、母に渡した。イラクエラで伝わる、別れの儀式だ。
老婆は涙ながらそれを握り締め、何度も頷いた。アンガーも堪えきれずに母を抱きしめた。民も感慨深く、かつての王女を目で追う。
「グィンゼル王女」
誰かが呟いた。
イラクエラの王女は、確かに国を守った。しかし、その代償は余りに淋しいものであったが。
「じゃあねぇ、聖なる国。愛する国。儚い、美しい、雄々しい国。私は生まれ名を捨てた。二度とそなたの地を侵さないと誓う」
老婆が痛哭な泣き声をあげる。
「ただし、」
顔を歪めて彼女は続けた。
「月夜の空を解放下さい」
森から風が吹いた。アンガーに向かって。彼女は恭しくそれを受けとめ、キセルを拾った。代わりに握っていた剣をグレンの側に投げる。
「有難うねぇ、守神よ」
民が敬意を込めて跪く中、彼女は森へと消えていった。
暗く、穏やかな闇を進む間に、いくつもの怒声が背後から聞こえた。それらは小さくなっていったが、一つ、剣で何かを突き刺す音が心に届いた。絶命の木霊。
アンガーはティンクトとグレンを想って涙を流した。ティンクトは優しい叔父であった。グレンは共に育った仲間だった。一筋流れたそれは、柔らかな地面に滲みこんで沈んでいった。
「馬鹿な女だねぇ、後悔ばかり残らせて」
かつて、イラクエラにはエレクトを生み出す湖が存在した。大陸の中でも唯一安定なエレクトの源泉であり、聖地として崇め奉られていた。
アンガーはその力を使って国力を上げようと考え、湖のエレクトを吸い尽くした。予想と異なり、その総量は僅かなものだった。
フェシア湖の聖なる魔力は、その限られた聖地でしか意味を成さなかったのだ。その事実を知り、アンガーは湖畔で笑っていた。神秘の力はこんなものだったのか、と。これほどくだらなかったのか、と。
今となっては、婦人の作ったキセルが億倍のエレクトを発するのだから皮肉な世界だ。ラリアの一撃も、それが無ければ防ぐ術はなかっただろう。
アンガーは一人森の奥地へ歩き続ける。袖もとから落ちたキセルを出して丁寧に拭い、口にくわえてから。
月は彼女の頭上で嗤うように、瞬いた。