天使の導き
武装した兵士たちが横を通り過ぎてゆく。見れば先程ワインを注いでくれた男性が険しい顔をして鎧の金具を留めていた。ベルク特有であろうか、鎧はチェーンメイルに似て鎖で体を護っている。
胴体部には輝く瑠璃色の鉄板が結わえつけられ、急所を補強している。そこが攻撃されることを想像してローラは青ざめた。
物々しい雰囲気が宮殿に満ち渡る。
当然命を落とす者も出てくるはずだ。敵は真っ先に心の臓を狙うのだから。
「ダルガさんっ」
ダルガの手はやはり大人のもので、父さんとは異なる力強さが感じられた。歩調を合わせてはいても、その幅の小さなローラにとっては手を掴まれているのは苦痛だった。
さらに背後からは今にもダルガの手を切り落とさんばかりの形相でシルバが追いかけてきている。一刻も早くこの手を放さねば。
「もうしばらく辛抱下さい。貴方が危険にさらされる場にいれば、先の話はすべて夢幻で終わってしまう。お分かりですか? 貴方はこの国の運命を握っているのです」
そのようなことを言われてもローラはするべきことが見つからなかった。否、ならば余計に戦いの場にいることがふさわしく思えた。
予言の娘。何度そう思われようともローラはただの娘だ。
特別扱いなど望んではいない。勿論命を落とすつもりもない。
ただ今まではシルバやベスと楽しく旅をしようと余裕を持っていた心が、確かに使命を感じつつある。ダルガの足は速い。こうした考えも意識せねば周りの人々同様に過ぎて行ってしまいそうだ。
吹き抜けの渡り廊下を渡る瞬間、ローラは腕を思い切り下に振り下ろした。
唯一体育で習った護身術だ。教師が言っていた通り、あっさりとダルガの手から逃れた。
前を進んでいたダルガがゆっくりと振り向く。
「ローラさん?」
つんのめるようにシルバとベスが背中にぶつかった。二人はそばにいる。
「私は異国の民です。もうそれを否定しません。ですが王女や姫ではありません。ナッツさんが今も戦っていると言う時に暖かい部屋に閉じ込められて、何も知らずに夜を明けるなんていやっ」
一息に思いを吐きだしたローラは肩で呼吸をした。上下する弱弱しいその肩をベスは黙って見守った。
「…ミリア王女にそっくりですね貴方は」
「え?」
ダルガの左手が何かを握りしめていた。そっと差し出されたそれは、旅行先で売っていそうな羽のペンダントだった。
シルバが髪越しにそれを凝視する。何であるか知っているようだ。
「私の後に続いて下さい。『我が命じる6007の精霊たちよ』」
「へ?」
ベスに小突かれた。
「いいから言った通りに複唱しな」
「あ、はい。『我が命じる6007の精霊たちよ』」
シルバの足元に気配を立てずアリグルが戻ったのはその時だった。
「『28の夜の末に』」
「『28の夜の末に』」
ローラはのどの渇きを感じていた。無意識にダルガの言葉を叫んでしまうのだ。目の前でダルガは眼を閉じ立っている。その角ばった唇がもう一度動いた。
「『地上からわが身を解き放たん』」
ローラの最後の一言を機に、二人の体から重みが消えた。
背中がむずがゆくなったので、肩を回すと奇妙なものが腕に触れた。まるで、庭に降り立った鳩の翼のような。
「成功したようですね」
目をあげると、そこには絵本に描かれた天使がいた。紫を帯びた大きな翼をはばたかせ、宙に浮く天使はダルガ自身だった。
恐る恐るローラは下を見た。そして後悔した。
渡り廊下は割と高い場所に位置していた。ローラの家の屋根裏部屋の窓よりも高い位置に。
血の気が失せる。
体中から血がお役御免と言うように引いて行く。
ローラは悲鳴を呑みこんだ。高所恐怖症の彼女にはあまりに突然の拷問。
ローラは翼を得て、空に浮いていた。
シルバは足元にすり寄ったアリグルに命令した。
「飛ぶよ」
アリグルは一瞬目を見開かせたが、迷いなく犬の姿を捨てた。
ベスの傍らで空気が乾ききる。
自らの姿を水で構成する水竜が吸い取っているのだ。
古の姿に戻ったアリグルは、波打つ身を夜空に投げだした。そうして体を鳴らすように弧を描いて戻ってくると、バランスを保ちながら廊下へ頭を突き出した。
そこへシルバが飛び乗る。
ベスが続く。
「ベスさん後ろに行って」
「前のが楽しそうなんだけどな」
「ベスさん?」
はいはい、とベスは竜の背中を尾の方へ移動した。
彼らを見下ろしながらダルガは冷や汗を垂らしていた。
「ドラゴン…っ」
失神寸前のローラの手を取りながら、彼は伝説の生き物に目を奪われていた。
あの猛々しい翼。流動する鬣。氷柱の如く研ぎ澄まされた爪。
王家一紋に入ってから一度も目にすることの無かった、二十年前ラリアによって完全に滅ぼされたと信じていた存在がそこにある。
ナッツに申し訳なさを感じつつもダルガはこの喜びを一人占めにしていた。
地上では誰も上を見る余裕などない。
この光景を見ているのは彼だけであった。異国の民一行を除いて。
「ダルガさん…これどうやって動いてるんですかあ…ぁ?」
繋いだ手から伝わる振動を感じてダルガは我に返った。すぐに少女にこの魔具の使い方を教えてやる。普段鍛えられたダルガにとって、肩甲骨を意識してこの羽を動かすのは容易だった。
しかし肩甲骨が自分にとって何処かもわからぬローラに伝えるのはひと手間いった。
何とか自由に移動できるようになった少女を確認してからダルガは振り返った。
もう一度あの雄々しい竜を見るために。
だが、そこには虚空が広がるだけだった。
ローラは自力で涙を止めた自分をほめ、下から吹き上げてくる風がドレスを翻さないよう抑えることに気が回った自分をほめ、再度涙を押しとどめた自分をほめた。
いくら慣れようが恐怖が消えることはない。
虚しい足元が頼りなく、平衡を保つことさえ難しかった。
(天使たちもこうして練習したのかしら…)
自分には彼女らのように微笑ましく天から降り立つことは不可能にしか思えなかった。そして、さらに彼女らへの尊敬の念が増した。
綺麗に整えられた髪が夜風にもてあそばれる。
その風を追って移した視線の先に、火柱を見た。
遅れて衝撃音と風が襲いかかってくる。
空を見ていたダルガが素早くローラを抱きよせて身を守ってくれた。ダルガの腕の中で爆撃を目の当たりにする。
美しいベルクの町並みは、魔法で守られているのか崩れ落ちることはなかった。しかし敵の魔法も容赦なく、街道を火に染め煙で国を覆い尽くした。 初めて父さん以外に抱きかかえられたことに気がつくこともなく、ローラは戦場に魅入っていた。耳の後ろでダルガが歯ぎしりするのも聞こえずに。
「ローラさん、貴方は知りたいと言いましたね。ならば絶対に地上に下りぬ、火の手に近づかぬと約束して下さい。ビグペロはあなたを欲しているのです」
ダルガの声の鋭さにローラは無意識にうなづいていた。
「約束しましたよ」
そう一言残すと、彼はローラを放し翼を幾度かはばたかせたかと思うと流星の如く火柱へ飛び込んで行った。
「ダルガさんっ!?」
今更声が届くはずもなかった。
随分と離れて、夜風に吹かれているローラでさえ顔が火照るほどの熱さの中へ、彼は行ってしまったのだ。決して破らせぬ約束を結んで。
深呼吸をして周りを見回したローラは危うく翼を止まらせ落下しそうになった。
誰もいない。
仲間を見失い一斉に悲鳴を上げ始める血管を無視し、ローラは宮殿から遠ざかった。
ダルガの向かった方へ。
約束など無かったように。それしか道が無いように。
その後ろ姿を一つの白い影が追ったことを誰が知れただろう。
その影の横顔が歪んだ笑いを浮かべていたのを誰が見ただろう。
目撃者はいた。
ゆっくりと旋回したアリグルは、影に気付かれぬよう闇に紛れて追跡を始めた。
シルバは握りしめた鬣が疼くのを感じた。
「一人目だよ、アリグル」
「ああ」
憎悪の炎が水竜に駆け巡る。
宵の口。ベスは静かに二人の対話を聞いていた。闇よりも濃い黒髪をなでながら。漆黒のネグリジェをドレスより気高く揺らしながら。
「ローランを襲う気かな」
シルバの緑の眼は白い影を捕えて逃さない。主人の腰の下、アリグルはその怒りも感じ取っていた。
「奴が娘に手を掛ける前に、私が存在を消してやろう」
(なあ、ラスディア?)