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リセナと愉快な仲間たち

暗黒騎士は溺愛するのに名前は呼ばない?

作者: 甘糖めぐる

※長編の派生作品ですが、単品でもお読みいただけます(詳細はあらすじ欄に)

【オープニング】名前を呼んで


 自室のベッドの上。後ろから大きな体に抱え込まれて、リセナ・シーリグは身動きが取れなかった。

 自分の体に回された、鍛えられた腕も血管の浮いた手も、じっとそこにあって何をしてくるわけでもない。ただ、後ろの彼の唇だけが、何度もリセナの首筋に押し当てられていた。たまに耳を甘噛みされると、やっぱり後ろにいるのは大きなワンちゃんなのではないかと思えてくる。それも、狼に近い犬種だ。


 彼は、いつまで経っても何も言わない。衣擦れと、口付けと、こらえきれなかった自分の吐息ばかりが耳につく。心地よさと羞恥が混ざり合った時間。もう、一時間はこうしているだろうか。


 ――今日は長いな……。やっぱり、アレのせいかな。


 それは、彼が魔物討伐の旅から帰還してきた時のことだった。


 ◆


 リセナは、領主の息子であるレオンルークス・ライランドと幼馴染だ。ライランド領の財政を支えるシーリグ商会の一員として、二人で打ち合わせをすることもある。


 ――あ、もうすぐレオが来る時間だ。


 彼女が出迎えをしようと、家の玄関を開けた矢先。のどかな田舎町の片隅が見えるはずのところに、黒い鎧が視界いっぱいに広がる。


「えっ!? グレイ、帰ってきてたんですか? 呼び鈴、鳴らしてくれたらいいのに」


 見上げると、いつから突っ立っていたのか、相変わらず無表情に近い青年がいる。グレイ・ヴィア――今は彼女の騎士ということになっている、元魔王軍の暗黒騎士だ。

 無造作に後ろへなでつけられた髪も黒く、その中で、赤い瞳だけがわずかに――世界中でリセナしか気づかないくらい、本当にわずかに、優しく彼女を見下ろしている。


「おかえりなさい」

 リセナが言うと、彼は

「……ああ」

 とだけ答えた。


 ふと、向こうの方からひづめの音が聞こえる。栗毛馬に乗って、レオンがやってきたのだ。彼は、グレイの姿を見ると、あからさまに「うわ……」という顔をする。

 グレイもまた、レオンの方を冷たい目で見ていて――リセナは、タイミングの悪さに頭を抱える。

「あの……グレイ、今から打ち合わせがあるので……」

「…………」

(彼にしては)ものすごく、抗議的な眼差しを向けられる。

 ちなみに、グレイとレオンは、一緒に魔王討伐その他諸々をした仲間から『飼い主を奪い合うワンちゃん』と評されたことがある。


 リセナは、小さく息を吐いた。

「……わかりました。レオに断りを入れてくるので、先に部屋で待っててください」

「……お前の部屋か?」

「はい。じゃあ、ちょっと、行ってきます」


 グレイを警戒して止まっているレオンの元へ、リセナは小走りで向かう。

「ごめんなさい、レオ、今日は――」

「うん、急ぎじゃないし、また出直すね。というか、リセナ――」

 レオンが、グレイをちらりと見て声をひそめる。

「シーリグ邸に、見るからにヤバイやつが出入りしてるって、うちの親が心配してたんだけど。あいつのこと、なんて言ったらいいの?」

「えっ」


 グレイの存在をどう表現すればいいか、実は、リセナもいまいちわかっていない。


「えっと……。暗黒騎士だけど、魔王を倒すために配下に加わってただけで、意外と優しい安全な人……です?」


 とは言ってみたものの。魔王戦で重傷を負ったレオンを、グレイが普通に置き去りにしようとしていたことを彼女は思い出す。リセナを取ろうとする人間に対しては、まるで人の心がないのだ。


 それを覚えているレオンも、複雑そうな顔でうなずいた。

「じゃあ、とりあえず、そう言うけど……。結局、あいつ、なんできみに惚れてるの? あいつが弱ってる時に看病したって話は聞いたけど」

「なんででしょう……」


 ――彼、幼い頃に両親を亡くしてるから、その代わりなのかとはじめは思ってたけど。なんだか、そんな感じでもないような……。というか、あれは惚れてるっていうのかな……? だって、グレイは、一度も――


 考えている途中で、突然、後ろから腕が回される。


「おい」

 全然言うことを聞いていないグレイが、レオンから彼女を奪いにやって来ていた。

「行くぞ」


 その声は静かだが、身の危険を感じたレオンがそそくさと馬を方向転換させる。

「じゃ、じゃあ、リセナ。また今度ね」

「は、はい……!」


 再び、グレイと二人きりになる。

 そっと彼を見上げてみると、ああ、嫉妬しているんだろうなという顔をしていた。


 ◆


 そして、この、一時間に渡る無言のマーキング(?)タイムである。


 魔王討伐が終わったあとも、グレイは各地の魔物や魔族を管理するために剣を振るっている。(リセナとしては、できれば穏便に済ませてほしいのだが、彼はもっぱら武力で押さえつけている)

 たまに彼女の元へ帰ってきて、数日こうして、またしばらく旅に出ることを繰り返しているのだが――。


 彼女は、今日、彼に呼ばれた時の言葉を思い返す。


 それはいつだってそうなのだが「おい」とか「お前」とか、そんなのばかりだ。


 ――はじめの頃よりは、力加減も上手くなってるけど。二年もこうしてて、一度も名前を呼ばれたことがないなんて……そんなことある……!?


 おそらく、彼は、出会ってから一度も、彼女の名前を呼んだことがない。


 ――呼ばれたい……なんかたぶん恋人的な関係だと思うので呼ばれたい……!


「あの、グレイ……!」


 意気込む彼女だったが、返事の代わりに耳を甘噛みされて

「ひゃぅ」

 と、妙な声しか出せなかった。


【前編】調査命令


 リセナは、大人になっても、まだ少し引っ込み思案なところがあった。


 ――グレイに名前で呼んでほしい……けど、やっぱり、面と向かってお願いするのってなんか恥ずかしい……。


 ようやく解放され、彼に浴室を貸している間、そんなことを考えながら出かける支度をする。白銀の髪を綺麗に梳かして、瞳と同じ紺碧のフォーマルドレスを着て――いる途中でグレイが部屋に戻ってきたけれど、彼は彼女が着替えの途中であることをちっとも気にしない。


「どこかへ行くのか?」

「えっ、あっ、ちょっと王太子殿下の所に――仕事の打ち合わせで」


 慌てて服を整えて、リセナが振り返る。


「お風呂……もうちょっと、ゆっくりしてきていいんですよ? あ、もう、お昼寝します? 長旅で疲れたでしょう」

「いや。付いていく」

「……!? あの、お城に行くので……。ちょっと、警備の人、びっくりしちゃうかなあ……」

「…………」


 彼女が言葉を濁すと、グレイはおもむろに片手を胸の高さに上げ、その手のひらに風属性の魔法で小さな竜巻を起こした。

 通常、暗黒騎士は、その身に宿す負の感情の影響で闇属性の魔力しか持たないとされている。けれど、彼には十分な理性が残っていて――というのを、主張したいらしい。


「わかった、わかりました……! あなたが、闇属性だけじゃない、理性的な人間なのは知ってますから……! ……城では絶対に、剣を抜かないでくださいね」

「ああ」

 彼は素直に返事をするが、それだけでは、リセナは全然安心できなかった。


 ◆


 グレイがまた魔力で編んだ鎧をまとっているものだから、城の警備兵から無駄に足止めをくらう。そして、ようやく王太子の元へたどり着くと、待っていた彼から開口一番にこう言われた。


「私の首でも取りにきたのか……?」


 応接室の入口で、しどろもどろになるリセナ。

「あの、殿下、彼はですね……」

「元の場所に捨てて来い」

「そんなぁ……その、これには色々な事情がありまして……」

「いや、いい、聞きたくもない……座ってくれ」


 王太子は、リセナをいたく気に入っていた過去があるので、どこの馬の骨とも知れない男が彼女のそばにいることが大変面白くない。“色々な事情”は知らないが、グレイが彼女の能力を目当てに現れた暗黒騎士だということは知っているのだ。

 一方、グレイは、そんな王太子のことなんてどうでも良さそうにリセナの後ろに控えていた。彼女が()()()()()()()()()、言われた通り大人しくしていることだろう。


 打ち合わせが終わって、リセナは豪華なソファーから立ち上がる。

「それでは、本日はこれで失礼いたします、殿下」


 すると、王太子から「リセナ」と、呼び止められた。


「はい……?」

「お前は、ミラーズ領での事件を知っているか?」


 ミラーズ領とは、リセナの住むライランド領の隣にある領地だ。


 彼女は、首を横に振る。

「いえ。なにがあったんですか?」

「ミラーズ領にある、アリスターという森で異変が起きているようでな。そこへ入った者が、軒並み、記憶喪失に見舞われているらしい。重症の者は、自我を失ったかのように反応が希薄になったという報告もある」

「それは……危険ですね。早く調査をしないと」

「まったくだ。今から、そいつを派遣してくれ」

「えっ」


 王太子の視線を追って、リセナはグレイを見やる。絶対に嫌がらせだ、と思いながら、彼女は王太子を向き直った。

「ですが、今からだと到着が夜になります。魔物がいるかもしれませんし、明日の朝でも――」

「森に入らぬよう命令はしているが、聞き分けのない子どもが被害にあってはいけないからな。事態は一刻を争う」

「それは……はい……」

「その男は、お前の騎士なのだろう?」

「はい……」

「お前は、生涯をかけて、この国の平和と発展に貢献してくれるのだろう?」

「はい……」

「では、調査結果を使い魔に伝えるように。不明なら不明で構わない」


 リセナの影から、呼ばれたと思ったのか、ネコの姿をした妖精(ケット・シー)が抜け出してくる。しかし、特に用がないとわかると、また影に飛び込んで身を潜めた。彼女の能力――魔力増幅(アンプリフィエ)が貴重で強力なため、監視と報告用につけられている使い魔だ。


 結局、リセナは断りきれずに、グレイと共にミラーズ領へ向かっていた。

 彼が亜空間から()んだ黒馬の背中――それも、グレイの前にちょこんと乗せられて、夕暮れの道を走る。

「ごめんなさい、グレイ。こんなことを頼んで」

「構わん」

「私も、力になれるかもしれないし、付いていきますね」

「駄目だ。町で待っていろ」

 素っ気なく拒否された。


 しかし、得体の知れない現象が起こっている場所に、彼を一人で行かせるわけにはいかない。

「心配した私が後から勝手に付いていくより、はじめから二人で行動した方がいいと思いませんか?」


 自分を人質にして脅迫――いや、交渉する彼女に、グレイは長い時間沈黙したあと


「……俺から離れるなよ」


 と、ため息混じりにささやいた。


【中編】知らない森


 辺りがすっかり暗くなったころ、アリスターの森が前方に見えてきた。一度、馬を止めて、外から森の様子を観察する。舗装はされていないが道はあり、特に変わったところのない普通の森に見える。


 リセナが、黒馬の首筋をなでながら尋ねた。

「この子も、一緒に入れそうですね。ところで、この子はなんて名前なんですか?」

「……ない」

「ナイくんかぁ。よしよし」


 グレイは、少しの間のあと「なら、それでいい」と言った。

 リセナには、わけがわからない。

「え、なに、それでいいってなんですか?」

「……無いんだ。そいつには、名前が」

「えっ!?」

「指笛で来るからな。呼ぶ必要がない」


 それは、そうかも知れないけれど。


 ――そっか……グレイにとって、名前って、あんまり重要じゃないのかな。じゃあ、やっぱり、名前で呼んでって言うのは鬱陶しいか……。


 しかし、ここでしゅんとしている場合ではない。

 グレイが、ゆっくりと、森の中へ馬を進める。


「行くぞ」


 アリスターの森、その怪事件の調査が始まった。


 ◆


 森の中は静かだった。馬のひづめの音と、リセナの声だけが響く。

「今回の件、はじめて聞くような現象だし、もしかすると誰かの魔法や魔物の仕業……じゃなくて、異星生物、かもしれませんね」

 それは、昨今、隕石に乗ってやってくるようになった他の惑星からの生命体のことだ。最初は休眠状態で目に見えないほど微細だが、時間をかけて元の姿を形成して活動している。――異星生物のことは、それ以外、ほとんどなにもわかっていない。生き物に寄生する種類もいれば、金属を自分の体のように使って動く種類もいた。

 今は隕石を見つけたら触れずに報告という手順が全国民に指示されているが、それでも、稀にこの惑星に上手く潜んでいる個体がいる。


 グレイは「……ああ」とだけしか答えない。それはまあ、いつものことなのだが。


 この時、ふと首をこちらに向けた黒馬が、突然怯えたように甲高く鳴いて前足を振り上げた。


「わ――!?」


 落とされそうになるリセナを、グレイが抱えて馬から飛び降りる。

 そのまま、黒馬は来た時と同じように、宙に開いた亜空間へ戻って行ってしまった。


 グレイの腕の中で、リセナは呆然とそれを見送る。

「帰っちゃった……。えっ、よくあることなんですか?」

「いや……はじめてだ」

 彼の声には、わずかに戸惑いがにじんでいた。


 夜の森を、グレイと二人きりで進む。

 彼はリセナの肩を抱き寄せて、自分のすぐ隣を歩かせていた。おそらく、そうしなくても、彼女の方から寄り添っていただろう――それほどまでに、この森を漂う空気は不気味だった。黒馬が逃げ出した以外はなにも起こらず、見た目にもおかしなところはないのに、なんとなく居心地が悪い。木々の隙間からのぞく月明かりで、真っ暗闇でないことだけが救いだ。


 辺りを見回していたリセナが、黙ったままのグレイを見上げる。

「なにも起こりませんね。でも、さっきの、どうしたんでしょうか? あの子――えっと……」


 あの黒馬の名前はなんだったか。


「あなたの馬の……」


 名前は無いとか、言っていたっけ。


「あなたの……あれ……?」


 リセナは、隣の彼を見つめて、目をまたたく。


 ――()()()()、なんだったっけ……?


 こんなことを、ど忘れするものなのか。怪訝な顔をしているリセナを、グレイもまた、怪訝そうに見つめ返している。

 彼女は一旦、彼から視線を外す。周りにあるのは、名前も知らない木々。ここは、名前も知らない森。


 ――あれ。なんで、私、こんなところに……。


 わからない。思い出せない。


 混乱しながらも、必死に思考を巡らせて歩く。それでも、結局、わからない。


 そして、自分の肩に、誰かの手が置かれていることに気付く。


「え……?」


 隣には――()()()()()()がいた。


「っ……!?」


 彼女は驚愕した。自分がなぜここにいるのか思い出せないが、ひとつ確かなことがある。共にいる彼は、どう見ても一般人ではない。鎧をまとい、腰に剣を差し、美丈夫ではあるもののあまり人間味のない、ほとんど無表情の男だ。それも、その気になれば、こちらの肩など簡単に壊せそうなほど屈強な体つきをしている。


 ――誰……? 誘拐……!?


 混乱する彼女を、隣の彼――グレイは、また怪訝そうに見る。それから、前方に魔物の気配を感じて立ち止まった。


 リセナから手を離し、剣を構える。茂みの中からは、彼の身長の三倍ほどもある巨体――マーダーベアが、五匹も現れた。

 凶暴な魔物を、彼は次から次へと仕留めていく。その様子を見ていたリセナは、グレイの背後から、一気に駆け出した。


 ――っ、逃げるなら、今……!


 最後のマーダーベアを斬り倒したあと、グレイはひとつの疑問を持った。この魔物は、前にも倒したことがあるし、名前も知っているはずなのだが――。わからないのだ。これが、なんという魔物なのか。

 周りに生えている木の名前も、この森の名前もわからない。しかし、まあ、それは彼にとって、わりとどうでもいいからであって――リセナのことは、しっかりと覚えていた。


 そのリセナが、どこにもいない。戦いのあいだ隠れているとか、そんな様子でもない。


「おい。どこだ……!」


 答える者はいない。そばには、誰もいない。

 彼は理解する。彼女は魔力増幅(アンプリフィエ)の能力者だが、力を使わない時の素の魔力量はそう高くない。外界からの干渉――この森の異常に、耐えきれなかったのだろう。


 ――そうか、記憶を失って……おそらく、こちらを、危険人物だと認識した。


 グレイは、目を閉じて、感覚を研ぎ澄ませる。風の流れを読んで、この森の中で、動いているものの居場所を察知する――なんて、今まで一度もやったことがないけれど。なんとかして捜すしかないのだ。


 この森の犠牲者で、重症の者は、自我を失ったかのように反応が希薄になるのだと言われている。


【後編】私と彼は


 色んなものの名前が抜け落ちる。


 ひとり、月明かりの下、力なく座り込んだ彼女は震える自分を抱きしめる。


 ――私の、名前は、なんだっけ……?


 わからない。なにも。

 段々、頭がぼんやりとしてきて、自分自身が曖昧になっていくように感じる。


 ――誰か……助けて……。私、わたしの、なまえ……。そうだ、あの、一緒にいた人なら……なにか知ってるかも……。


 彼女は、なんとかして、彼のことを思い出そうとする。依然として記憶にモヤがかかったようだけれど、なんとなく、ひとつだけわかることがあった。


 ――いや、知らないかな……。たぶん、彼は、一度も……私の名前を、呼んだことが、ない。


 そう。きっと、そうなのだ。


 ――ああ、きっと、私と彼は。その程度の、なんでもない関係だったんだ……。


 そう思うと、なぜか、胸がきゅっと締め付けられた。


 徐々に“わからない”ことに対する恐怖心さえ薄らいでくる。


 ――ああ……なんだか、眠たくなって……きたな……。


 地面にうずくまって、目を閉じる。だって、眠たくなったから。人間は地べたで寝るものではないなんて、知らないから。自分が人間という生き物だなんて、知らないから。なんにも、わからないから。


 そして、意識を、手放す――










「リセナ!」


 はじめて、彼の声で、自分の名前を聞いた。


「――!」


 はっとして目を開けると、✕✕✕が珍しく張り詰めた表情でこちらを見下ろしていた。名前はまだ思い出せないけれど、自分を抱え起こしてくれているのが大切な人なのだということはわかる。


 互いに安堵したのもつかの間、そばにあった木が軋みをあげた。樹皮が、無数の人間の顔のように変形し、枝はムチのようにしなる。


 アレが全ての元凶なのだと、瞬時に判断して――彼は、最大出力の魔力で斬撃波を放った。


 闇の魔力が、たった一撃で、木に擬態した異星生物を粉々に破壊する。


 その瞬間、リセナは全てを思い出した。


 彼は、グレイ・ヴィア。魔王への復讐のために、魔力増幅(アンプリフィエ)を利用しようと現れた青年で――それなのに、彼女が自ら協力を決めるまで、無理強いすることなく待ってくれていた優しい人。


「グレイ……!」


 再び静かになった森で、リセナは、彼の名を呼びながら駆け寄った。


 勢いよくぶつかる前に、グレイが鎧を解いて彼女を受け止める。その瞳は、先程までとは打って変わって、穏やかにリセナを見下ろしていた。


 ◆


 アリスターの森の異変は消え、今までの被害者も全員元通りになった。(どうにも、互いの名を呼び合いながら会話をするタイプの人たちはそこまで大事に至らなかったらしい)――という知らせをケット・シー経由で受けたのは、グレイが再び旅に出る日の朝だった。


 また自室のベッドの上で、後ろから抱え込まれているリセナが彼の腕をとんとんと叩く。


「あの、もう魔力は完全に回復してますよね? まだ出発しなくていいんですか?」

「……出て行けと言うのなら、そうする」

「いや、そういうわけじゃないけど……次の予定とかないんですか?」


 尋ねてみてから、リセナは愚問だったなと思う。グレイはクールで孤高みたいな雰囲気を醸し出しておきながら、実はかなりのマイペースなので、たぶん予定とかはない。


 グレイが腕の力を緩める。リセナはその隙にくるりと方向を変えると、彼を正面から見つめた。


 ――そんなの、もっと、いてほしいに決まってるのに。


 あわよくば、また、彼に名前を呼んでほしい。


 ――この前は、目を閉じてる時だったから。グレイがリセナって言ってるところ、見たいなあ……。


 彼の口元をじーっと見つめていると、ふと。グレイは彼女の頭を片手で抱くように支えて、そのまま――()()()()、唇同士を押し当てた。


「――!?」


【エンディング】愛を表す手段


 唇を離したグレイは、急に真っ当なキスをされて困惑しているリセナを見て少し不思議そうにしている。


「グレイ――な、なんで、いきなり……!? 今まで、ずっと、首とかばっかりだったのに」

「……? 許可されたのかと思った」

「許可制だったんですか、これ!?」


 てっきり、そういったことには興味がないのかと思うほど、マーキング(?)しかしてこなかったのに。

 彼女は、自分の口元を手で覆いながら、うろたえる。


「私は、ただ、名前を呼んでほしいなって思いながら見てただけで……!」

「名前を……?」

「だって、全然、呼んでくれなかったじゃないですか……!」

「そうだったか……?」

「そうですよ!? えぇ……!?」

「気にしたことがなかった」


 平然と答えるグレイ。リセナは本気で悩んでいたのに、あまりにも反応が薄い。


「そんなぁ……私、ずっと気にしてたのに……! 全然呼んでくれないから、恋人だと思ってるの、私だけなのかなとか――」

「関係があるのか? 名を呼ぶことと、それが」

「え、だって……好きだったら、自然と、口に出たり……するかなって」


 彼は、しばらくなにか考えている様子だった。そしてまた、リセナの頭に手を添える。

 今度は、うかがいを立てる間があった。切れ長の目をわずかに細めて、彼女の瞳をのぞき込んでいる。


 彼の考えも、行動も読めない。それでも、リセナは何も抵抗しなかった。


「…………」


 グレイが再び、互いの唇を合わせる。今度は押し当てるだけではなく、舌先が彼女の唇の隙間に割って入った。


「……!」


 リセナは反射的に目をぎゅっとつむって、彼の腕をつかむ。

 しかし、身構えることは何もなかった。むしろ、驚くほど優しく、彼は互いの舌を触れ合わせる。なにかを確かめるように、長い時間をかけて、静かに穏やかに。


 やわらかいもの同士で密着して、彼の体温と混ざり合い、溶け合い、ひとつになる感覚。


 そっと離れた後も、自然と抱きつきたくなるような幸福を彼女に与えたあと、


「……リセナ」


 グレイは、再び触れ合いそうな距離で、彼女の名前をささやいた。低く、優しく、吐息の多い、色のある声だった。


 それから彼は、少し間を置いて


「……まあ、たしかに、そうだな」


 と、つぶやく。


 一体なにに対して同意したのか、リセナは会話を思い出すのに時間がかかる。


 ――たしか、私が言ったのは……


『好きだったら、自然と、口に出たり……するかなって』


 それを確かめるために、グレイは、あんなことをしていたのだ。感情を発露させるのに、人よりも多く刺激が必要な彼だけれど、たしかに愛情と呼べるものは持っていて――


「……明日まで滞在する」


 一度、表に現れたものは、そう簡単には消えない。


「グレイ……?」


 また意図を計りかねる彼女の体を、大きな手が抱き寄せる。それから彼は、首と、耳と、唇と、気の向くままにリセナへ口付けていく。


 彼女の名前を呼んで、はじめて、これが愛を表す手段のひとつなのだと知った彼は――


 その最中に、時おり、そうやって“愛”をささやいていた。

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