エリオット様に、お夜食を
結婚式から何日かが経ってもルーチェの日常は変わらない。夫の『影』に変化がないことに落胆しながら、自分の務めを模索する日々だ。
「きっと働きすぎだからだとは、思うのだけど……」
領主の妻という立場なら、領地運営に関する資料を見ることは簡単だった。しかし中身に目を通してすぐ、ルーチェは自分の出番がないことを思い知る。
まったく抜け漏れがない。
ローレンス家と似ているのは書式だけ。書き間違えや計算誤りすらどこにも。怪しげな支出、出所の不確かな記述――何一つ見当たらなかった。
「これはエリオット様が?」
「最終的に目を通されるだけです。作成は各担当の者が」
「レネシュの人達って本当に優秀ね」
「恐れ入ります。その手の誤魔化しについて、エリオット様はとても厳しいですからね」
淡々と返すメリルは、まるで反応を予想していたかのよう。
「レネシュでは嘘と不誠実は大罪です。どれだけ長く働いていようが、平等に罰せられることになっています」
「騎士の精神を説かれているみたいだわ」
「まあ、あまり貴族らしくはないかもしれませんね」
彼はそこまで計算高い人物には見えない。貴族の世界で高潔な理想を貫くのは難しい。愚直な努力の結果だとしたら、失礼ながら二度の離婚の理由にも頷ける。
「でもあんまり厳しくては、お城の皆さんも嫌になってしまうことはないのかしら?」
「厳しくはないと思いますよ。やるべきことをやっていれば他は自由ですから」
「そうなの?」
「騎士団の大半は賭け事なんかが大好きだそうで、よくチェスやカードをしていると聞きます。息抜きの茶会についても、お菓子などは経費で買えますし」
「仕事ばかりではないのね」
「規律だけでは務まらないことも、よくよく承知されているのです」
辛辣に接する侍女も、仕える主人を信頼しているのが伝わってくる。誇らしげな返答に内心で頭を抱えた。
彼の欠点が見つからない。加えて使用人達も優秀。このままでは役立たずと思われてしまう。
穀潰しと判断され、ローレンス家に帰されては堪らない。ルーチェは何とかして自分にできることを探さなければならなかった。
◆
厨房を取り仕切る三兄弟。それぞれ上からラジー、ディアム、モールという。ラジーはいかにも恰幅のいい青年で、ルーチェに初めての食事を運んでくれた人物だ。モールは年端もいかない子供。次男坊のディアムはちょうど背丈も二人の間くらいの、ひょろりとした若者だった。騎士達の食事は、また別のところで作っているらしい。
大中小の兄弟は、一人で訪れたルーチェを見てぎょっとした顔で固まる。
「あ! 奥さまこんにちは!」
末っ子の立ち直りが最も早い。モールは好奇心に満ちた顔で皿洗い場の足台からぴょんと飛び降り、泡だらけの手のまま駆け寄る。
「モールっ! 失礼があっては……!」
慌ただしく追いかけてきたのはディアム。最初の頃は怯えていた彼も、今となってはたまに食事中に話しかけるほどの仲だ。
「あー、はは……その、めっ、珍しいですね。奥様がいらっしゃるなんて」
「ごめんなさい、お邪魔だったかしら」
「いえいえいえ滅相もない! 旦那様もここには滅多にいらっしゃらないので、ち、ちょっと驚いて、しまって」
緊張しきりな彼と言葉を交わしていると、エプロンで手を拭きながらラジーも近付いてくる。
「お待たせしました。いかがなさいましたか? 何か不手際でも」
「いえ、そういうのじゃないわ。ちょっとお願いがあって」
小鳥の騎士様に祈る。少しでもあの人の『影』を消すため、どうか勇気が持てるように。
「時々、ここを使うことを許してもらえないでしょうか? エリオット様のためにお夜食を差し入れたいと思って」
朝から晩まで働き詰めで食事をとらないのは絶対、体に悪い。
彼ら兄弟に頼んでも良かったが、これはルーチェの勝手な思いつきだ。夜中に料理するのは慣れているし、他の人達の労働時間を増やしてしまっては本末転倒。
驚かれるか、それとも冗談としてあしらわれるか。予想はまるきり裏切られた。
「……まさか、また毒を盛るつもりじゃありませんよね」
「毒?!」
一体何の話なのか。絶句するルーチェに対し、ラジーは威圧するかのようにむん、と腕組みした。目付きが胡乱なものに変わる。影から窺っていたディアムが遠慮がちに声を上げた。
「に、兄さん、そういうことを言うのはあまりよくないんじゃ」
「失態を容赦いただいた恩義を忘れたのか、ディアム。俺達は今度こそ旦那様を守らなければならん!」
「あ、あれは! 僕らにはどうしようもできなかったよ。だ、だって、勝手に淹れたお茶に毒を……」
「だとしてもだ!」
「兄ちゃんたち、ケンカは良くないよー」
「モールは黙ってなさいっ」
揉める三兄弟。それなりの騒ぎに、何事かと使用人が集まってくる。
思ってもみなかった不穏な事態にその場から動けない。また失敗してしまった。メリルの同行を遠慮するべきではなかったと、後悔してももう遅い。
「何の騒ぎだ」
その時、人垣の奥から苛立ったような声が飛んでくる。旦那様、と侍女達が振り仰ぐ。ほっとしたような空気が広がる中、ルーチェは一人だけ息を詰める。
エリオットが、出迎えの使用人に外套を渡しながら真っ直ぐ向かって来た。外出から戻ったところらしい。
「エリオットさま、お帰りなさい!」
どこか場違いな歓声を上げたのはモールだ。ディアムの方がよっぽど、今にも倒れそうな白い顔をしている。
厨房内を見回す鋭い視線。その場の誰もが、主人の言葉を待っている。
「問題でも起きたのか、ラジー」
「旦那様のお手を煩わせるほどのことでは。ただ、奥様がお料理をされたいと……」
「料理?」
ルーチェを見た表情は怪訝そうではあったが、怒っているような様子はない。
不安を飲み込んで息を吸う。このまま家に帰されることだけは回避しなくては。
「夕飯の後片付けが済んだあと、時々で構わないので厨房をお借りしたいのです」
「何のために」
「エリオット様に、お夜食を」
「……どういうことだ?」
「夫の健康を願うのは妻として当然ではないのでしょうか?」
エリオットは驚いたように口を噤む。ルーチェの母親も料理や裁縫はしていたし、おかしなことではないはずだが。
「騎士様も領主様も体が資本のはずです。遅くに戻られて夕飯も召し上がらず、お仕事をされるならなおのこと」
「なるほど。最近ずっと尾けていたからか」
元から上背があることに加え、城ひとつをまとめあげているのを知っているせいか、ルーチェの目には余計に存在が大きく映る。
ただ、見下ろす眼差しは冷たくはなかった。表情は渋いし口調もぞんざいだが、偉ぶろうという風はない。彼女の口も思いのほか滑らかに動く。
「きちんと栄養を摂られた方が、お仕事の効率も上がるかもしれませんし。もちろん、料理人の皆様ほどの腕でないのは承知の上です! ですが彼らにも休んでいただきたく、わたしでお役に立てることはないかと」
「妙なことを」
あわあわと使用人達が顔を往復させる。彼はどこか困惑した様子で、顎に手を当て考え込んだ。
「……だがまあ、言い分はわかった。ところでそもそも、君は料理はできるのか?」
「はい。ローレンス家にいた時は自分と使用人の食事を作っていました」
作ったら作ったで、義母と義姉には犬の餌だとすぐに捨てられたが。
エリオットはまたしても複雑そうな顔をした。
「使用人の? それは……レネシュにはあまりない文化だな」
「そう……なのですか?」
「うちに限った話ではないだろうが。わかった、であれば許可しよう」
次いでラジー達を振り返る。
「別に困ることもないだろう。日常的に厨房を使っていたのなら、ひどい散らかし方もしないと思うが」
「それはそうですが」
「また毒を盛られるなら運がなかっただけのことだ」
「そんなことを仰って!」
明け透けな物言いにルーチェが驚いていると。
「なら、僕が毒見役をしましょうか?」
助け船は思わぬところから。するすると人の壁を抜けて現れたのは副団長のロディだ。彼はエリオットにもにこやかに笑いかける。
「砦の番がない夜だったら顔を出すことくらいできる。火の始末や刃物の取り扱いについても、危険のないようにするから」
「……任せる」
「奥様も、いいですよね?」
言われるがままに頷く。
じっと視線を注いだままのエリオットへ、ルーチェは慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございますっ」
「礼を言われることじゃない」
どこか気まずそうな声が聞こえて。素直に見上げれば、目が合った途端に微かに眉根が寄った。
「望みは叶える約束だ。好きにしたらいい」
彼は仕事として約束を守っただけ。所詮は契約、浮かれるようなことではない。
周囲からそれ以上の声が上がらないのを確認すれば、そのままさっさと踵を返してしまう。
「あっ、お待ちください旦那様! ご相談したいことが――」
「来月の仕入れに関してご意見を――」
せっかくの機会を逸しないようにと、使用人達が慌てて後を追いかけていく。
「たぶん悪気はないんですよ」
「ロディ」
いつの間にか傍らに立っていた騎士が肩をすくめた。
「あんなことを言ってましたけど、本気で疑っていたらわざわざ口を挟んでこなかったでしょうし」
「そうかしら……。逆に、わたしが疑われているせいだとは考えられない?」
「それはそれで良いことですよ。奥様に興味を持っている証拠でしょう?」
ラジー達は彼が厨房へ来ることはほとんどないと言っていた。今日の騒ぎはさすがに見逃せなかったのか、それとも。
「あなたにも手間をかけさせてしまってごめんなさい。助けてくれてありがとう」
「とんでもない。美しい女性の手料理を食べられるなんて役得です」
「まあ、お上手ね」
軽妙な言葉や大袈裟な身振りに、ようやくルーチェも笑顔を取り戻す。
彼はまるで内緒話をするみたいな仕草で、茶目っ気のあるウインクをしてみせるのだった。