年頃の娘の婚礼だからな
婚儀の日はあっという間に訪れた。いい匂いのする石鹸で体を清められ、見たこともないくらい上質な粉で化粧をされ……並ぶ道具はどれも輝いて見える。
決して美しいとは言えない赤毛をメリルが梳かす。されるがままに任せながら、ルーチェはさらに身を小さくした。
「ごめんなさい、手間をかけさせて」
「奥様は何も悪くありません。我々のご用意が至らなかったばかりに」
傍では、侍女達がドレスを前に猛然と針を動かしている。花嫁が想定より痩せていたために身幅を調整しているのだ。
「……しかしあのロリコンが目測を外すのも珍しいですね」
「ろり?」
「いえ、お気になさらず」
ぶつぶつと呟きながらメリルが櫛を動かす。
「っ……!」
「申し訳ございません。痛かったですか?」
「い、いえ、大丈夫です」
引っ張られたのを思い出し、一瞬だけ身が強張る。まだたった数日では忘れられない。もうそんなことはされないはずだと言い聞かせ、膝上で握りしめていた両手を開く。
メリルはゴワゴワだったはずの髪を見事に整えたばかりか、真珠を散りばめて結い上げた。
そしてドレスの調整も終わり、衝立の奥で着替えている最中、部屋に誰かがやってくる。硬い靴音はちょうど一人分。
「用意はできたか」
「そう急かさなくてもよろしいじゃありませんか」
ドレスを着せながらの返答は、相変わらず素っ気ない。
肌触りの良い服、別人のように施された化粧……急に緊張が込み上げる。震えに気付かれていないことを祈った。きっと彼は、華やかな世界でたくさんの女性と出会ってきたはず。
「大丈夫です」
仕上げとばかりに裾を整え、メリルはルーチェの顔を覗き込む。覇気や生気の無さは人形を思わせる、しかし。
「とっても可愛らしいですから。大丈夫」
「……このお城の人達は本当に優しいのね」
「どなたにでも、というわけじゃありませんよ。さあ」
しっかりと目を合わせて頷いてくれたこと。それだけで泣きそうになりながら、いざ覚悟を決めて衝立から出ていけば。
「まあ……!」
「お似合いです、奥様!」
侍女達がはしゃぐ中、恐る恐る視線を上げた。
夫となる人物は絹の手袋をはめるところだったらしい。思わぬ近さに驚く間もない。
「わ、あ……」
危うく心臓が頭のてっぺんから飛び出すところだった。あまりの美しさに息をするのも忘れる。
初対面の時にまとめていた銀髪はおろされ、儀式ということもあってか、何房かを丁寧に編み込んでいる。礼服は長い手足によく映え、顔立ちが整っていることも相まって、
「王子様みたい……」
「なに?」
「いっ、いえ。――あのっ! こんなに素敵なドレスを着られるなんて夢のようです。ありがとうございます」
「年頃の娘の婚礼だからな。気に入ったなら良かった」
何かを言われる前にと慌てて口を開けば、彼は自らの襟元を直しながら何でもないことのように言ってのける。
結婚するのだ、この人と。
実感が沸いてくる。名ばかりでも妻となることには違いない。本来は釣り合うはずもない相手なのに。みっともなく見えやしないかと、もじもじと両手をいじる。
「今さらですが、ご迷惑じゃないでしょうか。わたしみたいな者が妻を名乗っては……」
「迷惑だって? とんでもない。お陰で頭痛の種がだいぶ減る」
持ち込まれる縁談について、彼は本当にうんざりしていたらしい。
「特に、陛下への返答に気を遣わなくて良いのは助かるな」
「陛下……って、国王陛下ですか?!」
「ああ。何度断っても見合いを勧められるから、正直なところ辟易していた」
「そのようなお相手のほうが良かったのでは……?」
「そうとも限らないと思うが」
顔をひきつらせるが、嘆息と共に至極あっさりとした返答があって。
「家柄を気にしているなら無用な心配だ。私は結婚相手の身分に興味はない。少なくとも、君は礼節を知る人物のように見える」
ルーチェは思わず綻んだ表情を隠すため俯いた。祝いの席なのにまた泣きそうになる。
何もかももらってばかりでは申し訳ない。噛まないようにと、名前を何度も反芻した。
「ありがとうございます。エリオット様は、とてもお優しい方ですね」
「……それはありがとう」
素直な感想を述べれば、目を逸らしながら応じる呻き声は小さい。
「あ、申し訳ありません。ご無礼を……!」
これまで同年代の男性と交流する機会はほとんどなく、どうにもぎこちなくなってしまう。
いつの間にかまた握りしめていた両手に気付いて省みていると。
「失礼いたします。――ああ、坊っちゃん。良かった、こちらにいましたか」
「坊っちゃんはやめろ」
渋面を濃くするエリオットが素早く振り向いた戸口。訪問者の姿にルーチェは歓声を上げた。
「アーサー!」
「ああ素晴らしいですね! とてもお似合いだ。……っとと、申し訳ありません。おはようございます、奥様」
すぐに柔和な笑みを浮かべて軽く礼をとる。流れる動作は嫌みがなくて上品だ。契約結婚だと知る相手から妻として扱われるくすぐったさに、返す礼は少し不自然なものになった。
「おはようございます。この間はありがとう」
「当然の務めですよ。なかなかゆっくりとご挨拶に伺えなかったこと、お許しください」
「きっと忙しいのでしょう? 気にしないで」
「痛み入ります。本日の式ではお手伝いをさせていただきますので、よろしくお願いいたしますね」
「それも執事長としてのお仕事ですか?」
「私は聖職出身なもので、勝手もよく知っていますから。しかし本当にお綺麗でいらっしゃる――」
と、彼らの間に割って入る影があった。メリルだ。
「それ以上は奥様に近付かないでください。不敬です」
「おいおい、楽しくお話をさせていただいてたのに」
「うるさいこの変態」
いつも淡白な侍女の、一層に冷たい声。
ギロリと睨みあげる彼女に対し、飄々と肩をすくめる執事。ルーチェがおろおろしていると、アーサーのため息を合図に口論が始まってしまった。
「君は私が女性と話しているといつもそうだ」
「お気をつけください奥様。この男、私の幼馴染みに手を出した変態なのです」
「誤解を招く言い方はやめてくれ。今でも私達の夫婦仲が良いことは知っているだろう?」
「歳の差はいくつでしたっけ?」
「ええと、ちょうど二十かな」
「幼女趣味め。くっ、本来なら萌える年齢差だというのになぜ身内……!」
「悪い癖が出てるよメリル」
「いいから奥様から離れてください」
ルーチェは呆然と呟く。
「アーサーってもしかして、すごく歳上……?」
結婚できる最低年齢は十六。そこから二十……ということは、少なくともエリオットより十歳以上は上ということになる。
まじまじと若々しい見た目を観察してしまえば、眉を下げた困り顔に応じられた。
「失礼。お見苦しいところを」
「いえ! 色々とびっくりして。メリルはアーサーと、その……」
親しい、とも違うような。
言葉を探していると先にメリルが口を開く。
「叔父です」
「おじ……叔父様?! アーサーが?」
「はい。非常に、非常に不本意ですが」
二人を交互に見比べる。ローレンス家でも城に勤める者の中には血縁者も少なくはなかったが、こうもちぐはぐな性格を持つものだろうか?
「やめろ二人とも」
呆れ顔で遮ったのはエリオットだ。他の侍女達も慣れた様子で苦笑いしている。
一礼して退いた二人に目もくれず、彼は片手をルーチェへと差し出した。見上げるも、先ほどから笑みの一つもない。
「もうすぐ時間になる。用意ができたならこちらへ」
忘れかけていた緊張が戻ってきてしまった。そっと、大きな手に触れる。ごつごつと固くて、手袋越しにも温かい。
「式では私が主導する。君はただ任せてくれればいい」
「はい」
「……まったく文句を言わないんだな」
「え?」
「いや」
控えの間へ向かうまでの廊下。淡々とした口調ながらも、足元を気にしてか、ゆっくり歩いているのが隣にも伝わってきた。三度目ということもあって手慣れているのかもしれない。
「形だけとはいえ、神前で誓いを立ててもらうことになる。苦痛だろうが我慢してくれ」
「我慢だなんて。妻としての務めを果たせるよう、精一杯に頑張りたいと思っていますから」
「……何よりだ」
口にしたのは本心だった。客人に対する態度かもしれないが、レネシュの城には既に居心地の良さを感じていたから。
そうして、準備にかけた時間と比べ、式はあっという間に終わる。賓客もない、司祭と手伝いの使用人だけで行われた、静かで小さな儀式だった。
宣言通りに全てリードされ、式典の類いに不慣れなルーチェでも導かれるままに乗り切ることができた。きっと彼はダンスも上手いのだろうなと、関係のないことを考える余裕すらあった。
ただ一つ、また失敗したと思ったのは誓いの口付けだ。
当然ながら初めてであるルーチェは、思わず固く目を瞑って上を向いた。だが、エリオットは頬に掠めるようなキスを返したのみ。
期待するように見えたとしたら、あまりに恥ずかしい……!
その晩、彼女がベッドでひとり悶々としたのは言うまでもない。当然ながら初夜らしい出来事は一つもなかった。