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体を壊してしまうわ!

 前夜に伝えた通り、ルーチェはまだ薄暗い夜明け前に起こされた。こっそりとあくびを噛み殺しながら、眠い目を擦ってメリルと身支度を整える。


「エリオット様はいつもこの時間に?」

「既に沐浴を済ませ、今頃は礼拝をされているかと。もうじき食堂にいらっしゃるはずです」

「まあ。それじゃあもっと早起きなのね」

「ご本人曰く、あまり眠らなくても平気だそうです」

「そういう体質もあるのかしら」


 平気……かどうか、あの『影』を目の当たりにしては怪しいところだが。


 昼間よりずっと静かな城の中。廊下の灯りは点々と灯され、厨房からはもう食材を切る音がする。

 メリルと二人で食堂へ向かう途中、アーサーにばったり出くわした。


「奥様! おはようございます。ずいぶんとお早いのですね?」

「おはようございます、アーサー。今日はエリオット様に合わせてみようと思ったんです。なかなかお会いできないから、普段どんな過ごし方をされているのか知りたくて」

「そうでしたか。ふふ、素晴らしいお心掛けかと思います」

「アーサーはもうお仕事?」

「坊っ……旦那様は朝のうちに事務作業を片付けられることが多いので。もうすっかり慣れましたよ」


 紙束を腕に抱いて、柔らかに微笑む。侍女がなぜか舌打ちをした気がしたが、聞き間違いだろうか?


「ねえアーサー、お願いがあるのだけど。エリオット様に、どうかわたし達のことは気にしないよう伝えてくれませんか? お邪魔をしてしまうのは本意ではないというか、勝手にしていることだから」

「お邪魔なんてことはないと思いますよ。でも、奥様がそう仰るのなら承知しました。……と、噂をすれば、ですね」


 使用人達と挨拶を交わしながらエリオットが食堂へとやってくる。相変わらずその背には、真っ黒なモヤがまとわりついていた。

 彼は厨房の陰から覗く二人組にも当然気付いた。が、ルーチェの願い通りにアーサーが首を振ればそれっきり、興味を失くしたかのように書面に目を落としてしまう。見計らったように、侍女のひとりが一杯のお茶を差し出した。


 真剣な面持ちを見つめていられるのは離れているからこそだ。ルーチェは思わずため息をつく。なんて美しい横顔だろう。時折アーサーと相談する様子はあるが、淡々と仕事をこなしていく姿は、若いながらも長として頼もしい。

 そして紙束を捲れど捲れど、いつまでも朝食の皿は運ばれてこなかった。


「……ええと、朝ごはんはまだ召し上がらないのかしら?」

「あの薬湯でおしまいです」

「あれだけ?!」


 薬湯は確かに体にいい。病み上がりで食欲がない時や、栄養補助として飲むものとされる。だが、主食にするなんて話は聞いたこともない。


「お昼はきちんと召し上がるわよね?」

「きちんと……かどうかは意見が分かれるところかと思いますが。料理人達もなかなか苦心しているようですね」


 メリルとそんな会話をしていたら、あっという間に一段落したようだ。書類のうち何枚かを抜き取り席を立つと、エリオットは来た廊下を部屋の方へ戻ってしまった。あの様子では、二度寝など絶対にしないだろう。


 そうして昼前、彼は再び食堂に戻ってきた。アーサーも一緒だ。今度はルーチェ達に目を向けることもない。

 そこへ運ばれてきたのは一皿だけ。


「サンドイッチ?」

「主菜も副菜も一度に口に運べますからね。時間がもったいないとのことで」

「……」


 片手で掴んだそれに齧りつきながら、更に増えた書面の束に目を通している。想像以上だ。ルーチェとしては感心するやら呆れるやら。


「毎日ああいったお食事を?」

「落ち着いて会食を楽しまれることは滅多にないかもしれません。お客様がいらした時などは、その限りではありませんが」


 彼は食べ終えるのも速い。アーサーにまた何事かを言いつけ、食後のお茶を飲むかどうかのうちに外套を羽織って、今度はいそいそと城の外へ。

 さすがに、立ち去ろうとするアーサーのことを慌てて引き留めた。厳密にはメリルが、だが。


「そこの変態」

「振り返ってしまう自分が嫌になるね。なんだいメリル」


 彼女の言葉は妙に刺々しい。執事のうんざりとした顔がにこやかな笑みに変わる瞬間を見、ルーチェは少しだけ怖くなった。


「エリオット様がどんなお仕事をされていたか、ですか? 朝のは先週分の財務の確認です。商人や市場から定期的に物を買っていますので。お昼に確認されていたのは領の運営方針です」

「まさか、いつもこの量を……?」

「領地改革の一環で何件か工事を並行していますからね。経過もきちんと、ご自身の目で確認されたい方ですし。午後は司祭と裁判に向けた会議、そのあとは騎士団の鍛練にもお顔を出されるはずです」

「……」

「ああ、今日は予定があったかな。砦や町の方にも向かわれるかもしれません」


 それからもしばらく観察を続けたものの、アーサーに聞いた通り。会議への同行はできないが、城の中での様子を見れば、その忙しさは充分に伝わってくる。ほとんど休憩することなく常に動き回る様には、ルーチェのほうが先にヘトヘトになりそうだった。


「楽しいですね。要人を追跡する場面、小説で読んだことがあります」


 途中からメリルは両手をわきわきさせていた。確かに、尾行は侍女の仕事ではないだろう。

 結局、彼は午後からもほぼ城内にはおらず、なんと夕食も食べないらしかった。


「一日のうち、お食事されるのはお昼しかないということ?」

「出先や、騎士団の宿舎にある食堂で済ませられることもあるそうですが。夕食の時間が終わってからのお戻りも多いので、必然、そうなる日は少なくありませんね」

「信じられない……体を壊してしまうわ!」

「奥様からもどうか言って差し上げてください」


 ルーチェの悲鳴にも似た言葉に、心底呆れた様子のメリルが肩をすくめた。アーサーが縁起でもないことを言っていた理由がわかった気がする。


 領主が多忙だからといって、城の人々が怠惰なわけではない。むしろとても勤勉と言っていい。散歩中に彼らがサボる場面を見かけたことはなかった。単純に、彼の仕事が多すぎるのだ。

 そこまでしなくても、と思ってしまうのはルーチェが外の人間だからかもしれない。レネシュ領は決して貧しくはないし、充分な戦力だってある。それなのに、どうして次々と事業を進めているのだろう? まるで生き急ぐみたいに。



「こんにちは、奥様。お散歩ですか?」


 こそこそと尾行を続けていたところで、急に背後から話しかけられ飛び上がる。

 必死に鼓動を落ち着けようとしながら振り向けば、騎士の格好をした青年が人懐こい笑みを浮かべていた。


「こんにちは。ええと……」


 向こうから話しかけられるのは珍しい。急いで服の裾を正していると、彼は胸に手を当て恭しく頭を下げた。その動作があまりに自然な優雅さを伴うものだったから、ルーチェは少しだけ面食らう。


「騎士団の副団長を務めております、ロディ・ブルーと申します。どうぞお見知りおきを」


 副団長ということは、立場上はエリオットの部下だ。懸命に、妻として見栄えするよう意識を集中する。


「丁寧にありがとう。よろしくお願いします、ロディ」

「ええ、ぜひ。奥様のお話はうちの騎士達からも伺っていますよ」


 にっこりと笑顔を向けられても、何かまずいことをしたかと落ち着かない。特に他意はなさそうだが、些細なことでも疎まれるわけにはいかないのだ。

 ロディはルーチェ達を交互に見比べ、素直な様子で首を傾げた。


「ところで、こんな柱の陰で何をなさっていたんです? 団長に何か御用でしたか?」

「団長……」

「ああええと、旦那サマ?」

「いえっ。その、ただエリオット様がどのような生活をされているのか知りたくって……ええと、観察を?」

「ははあ。確かにあの方はものすごくお忙しいですからね。仕事中毒と言っていい」


 振り返るが、メリルはただ無表情で小さく肩をすくめたのみ。


「……ええ、そうね。お忙しいことは今日だけで充分にわかりました」

「寂しいですか?」


 真っ直ぐな問い掛けにわずかな間だけ言葉を見失う。どうにか首を振ったのは、まるっきり嘘というわけでもない。


「恩返しがしたいの。せっかく迎えていただいたんですもの、少しでも支えになりたくて。お手伝いするにしてもお邪魔にならないよう、まずは生活を知るところからだと思うから」


 彼は軽く目を見開いた。だがそれは一瞬のこと。すぐに爽やかな笑顔が戻ってくる。


「はは、そうでしたか! もしもお辛いことがあれば仰ってくださいね。自分は普段から団長と近しいですから、力になれることもあるかと」

「ありがとう。頼りにしています」

「ま、本人が聞く耳を持つかは別ですけど」


 それでは、と気軽にひらひらと手を振って去っていく。


「あの、今の方は?」

「ロディ様はエリオット様のご友人でいらっしゃいます。騎士団所属ですが事務を担当されていますし、どちらかというと文官に近いかもしれません」

「すごく気さくな方ね」


 アーサーやメリルのような使用人と、騎士団の人達とでは、また性質が違うのかもしれない。

 しかしいずれにしても。


「ふふ」

「どうされました?」

「エリオット様ってお城の皆さんから慕われているなと思って。それってとても素晴らしいことよね」


 どんな人物かは正直まだわからない。それでも周囲の態度を見ていれば、少なからず信頼できる相手だろうとは思える。

 楽しい気持ちで笑みを浮かべれば、メリルは少しの間だけ考え込むような素振りを見せる。「……僭越ながら申し上げますが」と続けた口調は、珍しく歯切れが悪い。


「奥様のお人柄もあるかと思います」

「わたしの?」

「はい。皆も恐らく、安心しているのかと」

「安心?」


 ルーチェは言われた通り、好きに過ごさせてもらっているだけだ。全く身に覚えはない。

 釈然としないが、今は、負の感情でなさそうなことを前向きに捉えるしかなさそうだった。

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