おいしい……!
「お疲れのところ申し訳ありませんが、先に城内をご案内させてください」
領主を見送った後、メリルに促され立ち上がる。知らないうちに握りしめていた両手が汗ばんでいた。
「大丈夫です。親切にどうもありがとう」
「……務めですから」
彼女は一瞬だけ言葉を探すように瞬いた。
「こちらは後ほどお部屋までお運びいたしますね」
軽すぎる鞄を持ち上げ、壁際へと移動させる。ルーチェは思わず声を上げた。
「あ、よかったら!」
少ない荷物から取り出したのは砂糖菓子。アンヌが餞別にと用意してくれた小さな土産だ。
「少しですけど、セシリアのお菓子を持ってきたの。お近づきの印に……!」
ウサギの形をした菓子をひとつ、手のひらにのせる。侍女は色のない視線でそれを見下ろしたが、突き返すようなことはしなかった。
「ありがとう、ございます」
「こちらこそ。受け取ってくれてありがとう」
ルーチェは顔を綻ばせる。ひとまず門前払いはされなくて良かった。好意を受け取ってもらえたことにも安堵する。
ぐうう……。
一息をついたところで、情けない音がお腹から鳴った。はっとしたように目を向けられ、一気に顔を赤くする。
「……お返ししたほうが?」
「いいえ! いい、いいの! ごめんなさい」
端正な顔立ちが、かくんと傾げられている。なんとも間が悪かった。
「失礼しました。もうお昼を過ぎていましたね。お食事のご用意をいたしましょう」
優秀な侍女はもちろん笑わなかったが、返す謝罪の声は小さくなる。来たばかりで卑しいと思われやしないか。見られない隙に顔を手で扇ぐ。
◆
少しだけ落ち込みながら、言われるがままに城内を歩く。
明るい雰囲気だ。華美な装飾品は少ないものの、隅々まで清掃が行き届いている。
ルーチェは領主の配慮を思う。最初の通路は裏口か何かだったのかもしれない。あんな風に人目に触れない状況なら、契約を断って帰っても支障はなかっただろう。
「あの、すみません」
「はい」
恐る恐る声をかけると、メリルは律儀にもその場で立ち止まった。
「失礼なことをお訊きするのですけど、領主様って、その……ご病気だったりしますか?」
「いえ? 健康とは言い難い生活をなさってはいますが、大病を患われたようなことはございません」
「そっそうですか」
怪訝そうな返答には曖昧な笑みを返す。
ともかくあの濃い『影』が心配だ。嫁いですぐに未亡人にはなりたくない。不健康な生活とは、どの程度のものだろう?
「着きました。お食事はこちらで」
「わあ……!」
当然わかってはいたが、ローレンス家の広間よりもずっと立派な食堂に目を瞠る。
テーブルには清潔なクロスが敷かれ、飾ってある花も瑞々しくよく手入れされていた。恐らく領主の席であろう上座。背にした大きな窓からは、たっぷりの光が射し込むに違いない。
「――は? えっ? 今からですか?! そんな急に」
「エリオット様のご命令です」
「だ、だって、好き嫌いもまだ教えていただいてないんですよ? また水をかけられでもしたら!」
「文句は後でいくらでもエリオット様へ。さあ早く」
厨房に向かったメリルと、ひょろりとしたコック帽の若者が何やら押し問答をしている。彼はルーチェの視線に気付くと、「ひっ?!」と小さく飛び上がり、慌てて中へと引っ込んだ。
首を捻りながらも、勧められるままに着席。しばらくすると、使用人が次から次に皿を運んでくる。
「ちょうど昼食が終わったところでして。大したものをお出しできず申し訳ありません」
声をかけてきた料理人は先ほどの若者ではなく、もっと大柄な男性だった。
湯気の立ち上る豆のスープ。見るからにふわふわの白パンは豊かさの象徴だ。隣には、鏡のように磨かれた器に入ったジャムとバター。焼いた肉は切れ端のはずがなく、彩りのよいサラダまで添えられている。
「ああ、もう、どうしようかしら……!」
鮮やかな色に香ばしい匂い。たれと脂が焦げる香りに思わずごくりと唾を飲み込んだ。大したものではないなんて、まったくとんでもない!
皿はすべて運ばれたようだが、大きなテーブルに着くのはルーチェひとりだけだ。
「どうかなさいましたか?」
「他にどなたかいらっしゃるのでしょうか?」
「え? いえ、そちらは奥様のためにご用意したお皿ですが」
「こんなに?!」
きちんとした食事はいつ以来か。体がびっくりしてしまいそうだ。
というか……食べきれるだろうか?
「全部? わたし一人で食べて良いのですか?」
「もちろんです。お気に召さなければ無理はなさらず」
「いいえ、とってもおいしそうです! あまりに豪華で……ありがたく頂きますね」
食前の祈りにも、いつもより熱が籠る。
まずはスープを一口。温かさが体に染み渡り思わず涙ぐみそうになる。
「んん、おいしい……!」
遠慮という言葉をローレンス家に忘れてきてしまったのかもしれない。はしたないと頭でわかっていても、隠れて食事をしていた名残で、いっぺんに頬張る癖は抜けなかった。
喉に詰まらせないように、懸命に顎を動かして胃袋に納めていく。ナイフとフォークの使い方は辛うじて覚えていたが、ソースを肉に載せるのが難しい。
「このお肉にかかっているものは何ですか?」
「プラムのソースでございます。お嫌いでしたらお下げしますが」
「いいえ! すごく、すごくおいしいです! 初めての味だわ」
「お口に合ったのなら何よりです」
さっぱりと甘酸っぱくて、力強い味の香辛料とも相性がいい。手が止まらない。
「レネシュの特産なんですよ。庭で育てているんです。……ふふ、そうもおいしそうに召し上がっていただけると、作った甲斐がありますな」
はっとして手を止めたルーチェは、見守る料理人の笑顔に気付く。
仮にも領主の妻となるのだから、上品に食べなくては!
しかし目の前の皿は既にほとんどが空。もっと味わって食べれば良かったと、ほんのり後悔しながら口を拭う。鼻に抜ける青豆の香りすら惜しい。
「ごちそうさまでした……!」
これほどおいしい料理が食べられるだけで、レネシュに来て良かったと思う。
叶うならアンヌにも食べさせてあげたい。残してきた彼女のことを思うと胸が痛む。家を出る寂しさは皆無でも、それだけが心残りだった。辛い目にあっていないだろうか。
家のことを思うとどうにも気が滅入る。想像を振り払い、使ったカトラリーを皿の上に載せた。
「おいしかったわ。お皿はそこに運べばいいでしょうか?」
立ち上がりまとめた食器を手に取ると、慌てた料理人や侍女が近寄ってくる。
「奥様、そのような真似はなさらなくても!」
「私達がやりますから!」
「あ、そ、そうよね」
自分で洗うつもりが、彼らをとても驚かせてしまったらしい。きっと、義姉のように振る舞わないといけないのだ。謝罪の言葉を呑み込んで、食器をそうっと差し出した。
「ありがとう。お願いします」
変な時間に食事を用意してくれた上に、後片付けまで手間をかけさせる。とても偉そうにはできなかった。
恐縮しながらお礼を言えば、彼らはまたしても一様に固まり。それからいそいそと持ち場に戻っていった。
「……常識がないと思われてしまったかしら?」
早速、二度目の失敗にまた落ち込む。領主様に恥をかかせないためにも、言動には気をつけなければ。