共に歩んでいきたいと願う相手は
早く戻りたい。
内心をその思いで満たしながら、エリオットはどうにか微笑を貼り付け続けている。ルーチェの父親、つまりローレンス卿の話が非常に長い上に退屈なのだ。
いや、退屈というだけならまだいい。はっきり言って不愉快だった。
「すっかり見違えて、我が娘とはとても思えんぐらいです。着飾らせればそれなりになるものですな。いやはや、さすがはランヴィール卿!」
――それなりだと? あんなに愛らしい生き物に対して何をふざけたことを言っているんだ、世界一かわいいだろうが!
……とは間違っても口に出さない。若くしてレネシュの地をまとめるに至った青年は、何もかもを押し殺して営業用の微笑を浮かべた。
「どうでしょうね。彼女のように優れた人物であれば、たとえレネシュでなくても良妻となったとは思いますが。私のところに来てくれたことにはとても感謝していますよ」
正確には、ローレンス家から引き離すことができて安堵しています、だったが。
「ハハハ、女性を立てられるのも出世の秘訣ですか!」
「はは……」
「ところで、このところ銀の値打ちが下がっておりますでしょう? 我が領地も影響を受けておりましてな。まあ、ランヴィール家とはいわば親戚といっても良いと思っておるわけで……」
――いい加減にしろ!
苛立ちを隠しながら、早く終われとひたすらに念じる。下心を隠す努力くらいできないのか、やはり妻を伴わなくてよかった……ぐいとグラスを傾けて気を紛らす。
エリオットには一つ、妻の心の安寧のために話さなかったことがある。前妻を……彼に薬を盛った女性を、会場で見かけた気がするのだ。
わざわざ伝えて不安にさせることもないだろうと黙っていたが、この父親といい、連れてきたことを少し後悔した。彼女の勇気を尊重すべきだと頭ではわかっているものの、無理をさせていないかだけが気がかりだった。
ベラベラと話し続けるローレンス卿へ、延々と適当な相槌を繰り返す。
やがて給仕が三杯目のおかわりを注ぎに来たと同時、「失礼を」と切羽詰まったような声が飛び込んできた。ロディだ。
「お話し中に申し訳ありません。団長、ちょっと」
挨拶もそこそこ、足早にその場を離れる。助かったと内心思えど、焦ったような表情が気にかかる。
「どうした」
「奥様が見当たらないのです」
元のテーブル付近に姿はない。見渡してみても同様。ほとんど減らないままの食前酒のグラスだけが置き去りにされていた。
「少し出ているだけじゃないのか」
「そう思い、お待ちしていたのですが……。先ほど部屋の外も見てみましたがそれらしい影は」
「わかった」
こういう時ほど冷静にならなければいけなかった。どれほど不安でも、心配でも、長が取り乱せば余計な混乱を招く。
周りの空気は変わりない。皆、楽しげに談笑している。この場で何か事件があったとは考えにくいだろう。
「周囲に聞いてみたところ、その……イザドラ様とご一緒にいらっしゃるのを見かけた方が」
「なに?」
イザドラ――エリオットの二人目の前妻。
ロディが言い淀んだのも当然だ。過去の出来事を知っていれば、彼女達が親交を深めているなどと呑気な想像をする者はない。
「申し訳ありません。一瞬、目を離した隙に……!」
「いや」
騒ぎにしたくないことも理解してくれているから、周囲には悟られないようにしながらも素早く動いてくれたのだ。できることをしたのなら責める道理はない。悔しそうな表情をするロディの肩を、エリオットは軽く叩いた。
「おまえにも付き合いがあるのはわかってる。彼女を一人にした俺の責任だ。誰もこんな場で何かがあるとは思わないしな」
「ですが」
してやられた、と思う。彼女が一人きりになる機会を窺っていたに違いない。となると、もしやローレンス卿も……
硬い、ヒールの音がした。匂いのきつい香水は苦手だ。
「お久し振りですわね、エリオット様」
話し掛けてきた彼女の格好は、以前と変わらず華美だった。ロディへ目配せをすれば、彼は小さく頷き立ち去る。
探す手間が省けた。本人に訊くのが手っ取り早いだろう。
「ああ、久しぶりだな。早速で悪いが君に訊ねたいことがある」
「まあ。なんでしょう?」
自由を奪われた身に近づいてきた、あの姿を思い出しそうになるが。
ふっと息を吐いて意識を集中する。違う人間だと信じ込むほど自分に言い聞かせる。エリオットは腹に力を込めた。弱みなど、見せるものか。
「単刀直入に訊こう。私の妻を知らないか? 君といるところを見たと聞いている」
「ええ、先ほどまで一緒に。多祥なりご縁があるのですもの、お話ししたくって」
あっさりと認められたのは予想外だった。
「でも残念ですわ。先に帰ってしまわれましたの」
「……なんだって?」
続く言葉もまったく想定できなかった。
帰った? ルーチェが?
「こんな場所、逃げ出してしまいたいと」
「彼女がそう言ったのか?」
「これを」
それほど耐え難い仕打ちをしてしまったと?
辛い思いを我慢していたのかもしれない。先ほども父親の姿を見て震えていた。もっと前に……気付く機会はなかったのか。
差し出されたのは二つ折の便箋。祈るような気持ちで開く。
そこには、本当は毎日辛くて仕方がなかったこと、自分がレネシュの女主人に相応しくないという独白、責務を放り出したことへの謝罪が連ねられていた。
目眩がする。
「わたくし、間違っておりました。貴方の愛を疑って、あんな真似をして」
縋るように一歩を踏み出したイザドラ。声は優しく、潤んだ瞳がいじらしい。
「エリオット様。もう一度やり直す機会をくださいませんか? 貴方にこんな恥をかかせるような小娘より、きっとわたくしの方が――」
エリオットは手紙をテーブルに叩きつけた。弾みでグラスが落ち、ワインが飛び散る。会場が静まり返った。
視線が集まるのを感じながら、彼は前妻を睨み付ける。
「言え。彼女はどこにいる」
「ですから」
「これは彼女の筆跡ではない!」
人間は怒りで血の気が引くのだと初めて知った。便箋を握り潰した手が震える。
「私は時間を無駄にするのが嫌いだ。君ならよく知っていると思うが?」
広間じゅうの注目が向く中、皮肉に唇を歪める。呆気にとられていた彼女は、策が失敗したと見るや真っ赤になって唇を戦慄かせた。
いくら言葉を真似ようとも、見慣れた筆跡でないことにエリオットはすぐに気付いた。何度、妻からの手紙を読み返したことか。
命の危険はないと信じたかった。そこまでの度胸はないはずだ。
「すぐに居場所を教えれば水に流してやる。かといって君と再婚する気もないがな」
「相変わらず愚かな人! 何よ、偉そうに」
「君に対して思うところがないわけじゃない。だが譲歩できるのはここまでだ。これ以上、自分の首を絞めるような言動はやめた方がいい」
「フン、殴られたこと忘れもしないわよ」
――そっちが先に襲ってきたんだろうが!
噛みつきそうになったのをどうにか踏みとどまる。思う壷だ。が、
「貴方みたいな野蛮な男には、あのダサい田舎女がお似合いね!」
忍耐という言葉が一瞬で吹き飛んだ。
「撤回しろ」
煮えたぎる怒りをどうにか抑えようとすると、自分でも驚くほどの低い唸り声が出る。
「はあ?」
「撤回しろと言った。大切な妻を、侮辱するな」
「妻? お飾りの、金で買った女でしょう? ローレンス卿から聞いているわ」
やはり内通していたようだ。道理で偶然が過ぎている。
「今は違う」
確かに最初は金で妻を買った。都合の良いことを言っている自覚はある。罪悪感だってある。これで許されるとは微塵も思わない、だが。
「私はルーチェを心から愛している」
この先は何があっても彼女を幸せにすると決めた。共に歩んでいきたいと願う相手は、世界中で彼女だけだ。
「それでわたくしを言い負かしたおつもり? また慰謝料を払っていただいても構いませんのよ」
「金ならいくらでもくれてやる。ただ、君のお父上の工場に動力源として魔石を提供していたのはレネシュだ。君は知らなかったかもしれないが」
イザドラの家は宝石を加工するための魔高炉を多く持っている。レネシュ領と取引していた帳簿など、彼女は気にしたこともないだろう。
だから、自分自身の結婚も、エリオットが彼女の父にどれほど頼み込まれたことかもきっと知らない。不貞の後始末として本来は課せられていた罰金を、司法局に掛け合い、レネシュがほぼ肩代わりしたことも。
一時の手切れ金と将来的な利益。どちらが大きいか、それがわからないほどイザドラも愚かではなかった。
「ランヴィール卿……!」
伯爵がおろおろと間に入ろうと試みている。後できちんと謝罪しなければと思う。
エリオットは襟元を整え、周りに聞こえるよう声を張った。これ以上の反論は出てこないだろう。
「悪いが帰らせてもらう。司法局には然るべき処罰を申し立てよう。それから……今回のことに関わった者はこの先、二度と我が領地と取引できると思うな」
振り返りざまにローレンス卿を睨み付けるのも忘れない。
早く探しに行かなければ。
そうして戸口へ体の向きを変えたところで……
立ち尽くすルーチェ達と目が合った。




