ランヴィール夫人ですわよね?
ルーチェは突然誰かにぶつかられた。よろけたところはロディが支えてくれる。
「おっと、大丈夫ですか?」
「え、ええ。ありがとう」
どうやらどこかの貴族らしい男性が、しきりにエリオットへと話しかけている。
季節の挨拶と社交辞令から始まり、大仰な身振り手振りで展開されるのは商売の話。いかにも貴族といった話題を、彼は微笑みながら聞いている。
「いかがです? レネシュにとっても悪いお話ではないと思いますが!」
「なるほど。素晴らしい案だな」
「でしょう? それでは――」
「だが、今回は却下だ」
「え! な、なぜです?!」
「商いをするのなら取引相手が重んじるものは気にかけるべきだろう。妻を蔑ろにするのは私への侮蔑と同義。出直してくれ」
淀みなくきっぱりと言い切る。声音は落ち着いていたが食い下がる余地はないと悟ったのか、商人はそそくさと帰っていく。
「ごめんなさい、わたしが邪魔な位置にいたせいで」
「仮にそうだとして、彼には謝罪をするための口があるだろう。経験上、ああいう手合いは後々面倒なんだ。どのみち断っていたさ」
鼻を鳴らし、ワインで喉を潤す。
彼はこれまでどのくらいの回数、こういった場を経験してきたのだろう? 礼を述べながら、ルーチェも唇を濡らす真似をしてみる……渋い。
伯爵も言っていた通り、レネシュとの取引を望む人というのは多いらしい。彼はゆっくり飲食を楽しむ暇もなさそうだった。
「ご無沙汰しております、エリオット様」
「マーシャル。来てたのか」
「あなたがいらっしゃると噂に聞いて」
「相変わらず口達者なことだ」
身なりの整った青年が声をかけてくる。供はないながらも清潔感のある見た目だ。
「このところ、小麦の仕入れ状況はいかがです?」
「西方の同盟が少しきな臭い動きをしているが、現時点ではレネシュに大きな影響はないな。ルーチェ」
顎に手をあてながら考えていたエリオットが、急に振り返って名前を呼んだ。客人はそこで初めて少女の存在に気づいたらしい。
「そちらのご令嬢は?」
「妻だ」
「なんと! ご挨拶が遅れ失礼をいたしました」
「いっいえ、こちらこそ!」
「ははは、ついに身を固められる気になりましたか? 悲しまれる方々も少なくはないでしょうなあ」
「世辞はいい」
ぴしゃりと言い放ったところを見ればそれなりに親しい間柄のよう。エリオットはばつが悪そうに咳払いをした。
「ルーチェ。小麦の取引についてだが、気になることがあると言っていなかったか」
ある地域で採れた小麦の価格だけ、急激に値下がりをしているのだ。品質が悪いのでもないし、手放しで喜ぶには不自然な坂道を描いている。
前に夫へ伝えたのと同じことを話してみれば、商人の青年はふんふんと頷いた。
「なるほど、天候のせいかもしれませんな。一時的に出回る量が増えれば価格は下がりますが、長くは続きますまい。じきに高値で取引されますでしょう」
「それなら小麦粉はなるべく蓄えておいたほうが良さそうですね」
「市場全体への影響は、そうですね、仰るとおり同盟が買い占めに走っていることもありますから、慎重に様子を見るべきかと。……ふふ、やはりレネシュの主人を務められているだけありますね。これはエリオット様も気に入られるわけだ」
彼が満足げに立ち去るまで、エリオットはほとんど口を挟まなかった。向こうはその道の熟練者だ、ルーチェに対し大袈裟にしてくれたことくらいわかるが、少しは役に立てたのなら嬉しいと思う。
「良かったじゃないか、ルーチェ」
「さっすが、僕達の奥様です!」
「僕達の?」
「なんですか?」
「いや……」
エリオット様とロディが何やらモニョモニョとやっている。
「あの、エル?」
「うん?」
「もしかしてさっき、わざとわたしに話を振りましたか?」
「ああ。仕入れについては君のほうが詳しいし、それに」
微かに挑戦的な笑みを浮かべながら肩をすくめる。
「侮られてはいけないからな。君の尊厳が傷つけられる可能性は、極力排するべきだ」
どうやら周囲に認めさせるために、わざわざ配慮したらしい。
改めてお礼を言おうと視線を向け……
「どうした?」
息を呑んだ少女を訝り、振り返ったエリオットも即座に理解した。ため息のような呻きを漏らし、壁になるかのように少しだけ近付く。
「やはり、来ていたな」
ルーチェは床を見つめて頷きを返す。
父だ。
平気だと思っていた。夫もロディも居れば問題なく振る舞えると。それなのに、自分の体はどうしてしまったのか。まともに姿を見ることはおろか、足が固まってしまったように動けない。
「だ……大丈夫です、ちょっとびっくりしただけで……!」
「とてもそうは見えない」
奥様、と心配そうに覗き込んできたのはロディだった。そうして少女の両肩に触れた重みはエリオットの手。しっかりと真正面から見つめる、葡萄色の瞳。
「無視するわけにもいかないな。ロディと待っていてくれ。俺だけで挨拶を済ませてくる」
「いえ、そんな」
「ここに来るだけでも君は充分に頑張ってくれた。厭な思いをすることが努力じゃない、自分の心を大事にしてほしい。な?」
困ったように微笑まれ、申し訳なさでいっぱいになりながら再度頷く。エリオットは「ん」と満足そうにして、一瞬だけ額と額を軽く当てた。視界が美貌で埋まり、ルーチェの頭は真っ白になる。
「すぐに戻る」
低く囁かれた声が体の芯に響く。
呆然としながら額を押さえて背を見送る。ずるい、と泣きそうになる。長い睫毛、星空のような目……
はっと我に返ると、幸いなことに周囲の誰にも注目はされていなかったらしい。ただ、ロディは、思いっきり楽しそうなニヤニヤ笑いを必死に堪えようとしていた。
「な、ろ、あのッ、違うの……!」
「団長も随分と大胆ですねえ。いやー、恋は人を変えるんだなーンフフッ」
「全然、我慢できてないけれど?!」
無理やり、話題を変えようと試みる。
「と、というか! あなたもご友人とお話ししたいのではないの? ずっとわたしに付いていなくてもいいわよ」
ロディもエリオットに負けず劣らず、男女共に声をかけられていた。いかにも友人といった軽やかな挨拶からは、交遊関係の広さが窺える。
「いいんですよ。僕は奥様が楽しんでいただけたらそれで」
「大丈夫よ、ありがとう」
「とか仰って。さっきから何も食べてないでしょ?」
苦笑するロディの声音は確信に満ちている。人の多い場所へ行くのを躊躇えば、ただグラスを握ってごまかすしかなかった。
「何かお持ちしますよ」
「い、いいのよ。子供じゃないんだから」
それに正直、たくさん話して疲れてしまった。一人でぼんやり休憩できると嬉しい。
勘が鋭い青年はルーチェがバルコニーを見たことに気付いたのだろう。小さく苦笑し首を振る。
「奥様って妙なところで度胸がありますよねえ。なるべくお一人では行動しないでくださいよ」
「えと、ん、はい」
「もう酔ってます? ラジー達には劣るかもしれませんが、せっかくですから味見だけでもなさってください。ついでに少しだけ知人に挨拶をしてきます」
「ええ、そうして。お友達は大切にしたほうがいいもの」
何に対してか彼は小さく嘆息し、早速近くにいた若い貴族に話しかけられている。
外の空気が吸いたいと思った。昼から晴れていたし、きっと星がきれいに見えるはず。
グラスの中身は、ほとんど飲んでいないうちにすっかりぬるくなってしまった。少しだけ、とバルコニーへ向かおうとした時だ。
「すみません。ランヴィール夫人ですわよね?」
まさか一人の時に話しかけられるとは思ってもみなかった。飛び上がりそうになりつつ振り向くと、豪奢な赤いドレスをまとった金髪の女性がしっかりとルーチェを見つめている。
「は、はい。わたしがランヴィールですが……」
まだ舌馴染みのない家名を名乗る。女性は扇の向こうでニッコリと笑う。
「やっぱり! ねえ貴女、お名前は? わたくしはイザドラといいます。エリオット様もお元気そうね」
「わたしはルーチェと申します。あの、イザドラ様は、エリオット様とは……?」
「あら失礼しましたわ。わたくし、彼とは昔からの友人ですの」
堂々とした態度に派手な美貌。自分に何が似合うかをよく知っているような振る舞いに、なんだか場違いな気にさせられて小さくなってしまう。
学生の頃の知り合いだろうか。爵位を訊ねるのも失礼な話だし、詳しい関係についてもどこまで踏み込んでいいやら判断がつかない。
ルーチェが迷いながら曖昧な笑みを浮かべているうちに、女性はぱちん、と扇を閉じた。艶やかな紅い唇が動く。
「先ほどエリオット様とお話ししたのですけどね。貴女、このお城は初めてでしょう? 中を案内してあげてって」
「エリオット様が?」
咄嗟に彼の姿を探したが見当たらない。ロディも見つけられないし、もちろんそれ以外の知り合いはルーチェにはいない。
目の前の女性は華やかな笑みを浮かべている。ほんの少し身構えたものの、失礼な言動をして夫の足手まといになりたくもなかった。
「少しお散歩するだけよ。ね?」
レースの手袋を嵌めた手に手首を掴まれる。驚いて硬直したが、彼女は結構強引だった。そのまま引っ張られそうになり、慌ててグラスを傍のテーブルに置く。
「でも、あ、あまり遠くにはっ」
「わかってますわ。ねえ、ところで貴女、エリオット様とはご結婚されて長いのかしら?」
「ええと――」
振り払うこともできずに手を引かれていく。もし本当にエリオットの友人なら無碍にはできないが……。




