健やかなる時も、天が試練を与えし時も
「急にすまない」というのが出迎えたエリオットの第一声だった。
先ほどから頭を下げられてばかりだと思う。謝らなければいけないのは、ルーチェの側なのに。
「手ぶらで申し訳ありません。お待たせしてお休みになるのが遅くなってはと思って」
「構わない、呼び出したのはこちらだ」
「……いえ、あの。嘘をついてしまいました」
「嘘?」
ぱちぱちと葡萄色の瞳が瞬かれる。泣かないように、どうにか顔面に力を込めたのだが。
「本当は、ついさっき、部屋の前でやっと自分が手ぶらなことに気付いたのです。それまではエリオット様のお顔を早く見たいと、そのことで、頭がいっぱいで……っ」
でも、無理だった。じわりと視界が滲む。安堵で胸が詰まり、何を言ったら良いのかわからない。
「ごめんなさい、ごめん、なさい……!」
「ああ、どうか泣かないでくれ」
ルーチェは情けなかった。『影』が見えなくなってからだったから余計に。それでも屈み覗き込んでくる瞳は不安げで、焦ったような早口を、ほんの少し嬉しく思ってしまうのも嫌だった。
「君は何も悪くない。自己管理もできないなんて、きっと失望させただろう」
「誰もそんな風には思いません。それほど気を張っていらしたのでしょう」
失望されても仕方がないのはルーチェだ。せめて体を気遣おうと決めたのに、それすら充分にこなせなかったのだ。
「妻としての役目を果たせないことが悔しく、恥ずかしくて」
「それは違う。俺が君の時間をもらっているのだから……と、キリがないな」
苦笑の気配に目が合う。彼は少し眉根を寄せながら小さく息を吐いた。
「立ち話をすることもないだろう。入ってくれ。暗くなる前に終わらせるから」
横になっていたほうが良いのではないかと言うと、否定しながらも遠慮がちに「できれば隣で話したい」と返される。それでいつもの向かい合わせではなく、ソファーに並んで座る。
手を伸ばせば届く。だが、互いの体温はわからない。
「本当にすまなかった。目が覚めて、真っ先に考えたのは君のことだ。悪いことをしたと思ったし、何より恥ずかしかった」
「恥ずかしくなんて!」
身を乗り出すと座面が軋む。驚いたような顔がやっと隣を向いた。
「調子が悪い時くらい誰にだってあります。弱音を吐きたいことも。領主だから一時も気を休めてはいけないだなんて、そんな道理はありません」
「……そういう風に言われると甘えたくなってしまう」
彼は片手で口許を覆い、ふいっとまた目を逸らした。
「君の前だとどうにも気がゆるんでしまって。病み上がりなのに、自分を抑えられなくなりそうだ」
銀糸から覗く頬や耳が、うっすらと紅潮している。漏れた掠れ声の艶っぽさに、それどころではないとわかっていても少女は赤面を止められない。両頬を、手のひらで少しでも冷やそうと頑張ってみる。
落ち着かない様子で座り直す気配があって、両の拳が膝の上で握りしめられるのが視界の端に見えた。
「その……どうして君は、そんなにも尽くしてくれるんだ? 俺はとてもひどいことを言った」
関係に終わりがあるのは確かに悲しかった。でも恐らく、もっとひどいのはルーチェの側だ。
「最初は……怖かったんです。役立たずだと思われたら、見捨てられるのではないかと」
「あり得ない!」
ローレンス家に帰されないように、見限られないように。『使える』と思われることを望んだのはルーチェ自身。
力強い声が嬉しかった。幸せだ、と思う。小さく笑えば、「あ、いや」などと戸惑いを見せる素直な様も、とても好き。
「わかっています。エリオット様が愛情深い方だと知ってからはなおさら、どうかお役に立ちたいと思うようになりました」
「君は優秀だが、俺が君を気に入っているのはそれだけが理由じゃない……と、思う」
「もったいないお言葉です」
彼には安らげる場所が必要だ。ずっと思ってきたこと。
それはきっと、家族ではないだろうか。
そして彼とそうなるのはルーチェではない。覚悟を決めて息を吸う。
「話したいことがあると、仰っていましたよね」
目頭が熱い。声が震えないように気を付けるので精一杯。
後味が悪くなってはいけない。笑顔で、何でもないことのように切り出さないと。
「王家の方とご結婚されるのですよね? おめでとうございます」
「…………は?」
「……え?」
思っていた反応と違う?
ルーチェが勇気を出して顔を上げると、今度こそ本気で驚いた表情があった。何を言っているのかわからない、とでかでかと書いてある。
「一体誰がそんなことを?」
「え? いえ、でもアーサーと……あっ、盗み聞きするつもりはなかったのですが……申し訳ありません」
叱責を恐れて首をすくめていると、少しの間を置いて彼は頭を抱えて呻いた。
「誤解だ。その縁談はもちろん断った」
「ど、どうしてですか?」
「どうしてだと? 妻である君がそれを訊くのか?!」
「でもそんなことをしたら!」
「元より向こうが後出しなんだ。多少の嫌味を言われはしたが大したことじゃない」
断ったと、間違いなく言った。心の底で喜んでしまったのはやはり嫌な女なのかもしれない。
「はじめに言っただろう。愛人を持つ気もないし、君が望まない限り出て行かせることもないと」
勢いよく並べ立て、苛立ったように盛大なため息を吐く。銀髪をぐしゃぐしゃと掻く様子にルーチェはますます身を縮めた。
「だが、そうだな。俺が望むかどうかは重要じゃない」
またソファーが軋んだ。彼が向き直ったから。不機嫌にも見えるが、熱く潤んだ瞳はむしろ不安そうだ。ルーチェも、似た眼差しを向ける。
「情けない話だが。どうやら俺は、君に嫌われるのが怖いらしい」
「そ、それって……」
「つまらない男だとは自分でもわかってる」
「そんなことありませんよ?」
何を言い出すのかと思えば。びっくりしてすっとんきょうな声が出た。それこそレネシュの誰も同意しないはずだ。
「レネシュ以外の特産品や歴史にもお詳しくて、面白いお話をたくさんご存知ですし」
「取引するのに、相手の懐に入りやすくするためにはな。そういうのはアーサーが教えてくれる」
「優秀な騎士様ですし」
「優秀……かはわからないが、この土地が国に要地と認められるために鍛練したまでだ。仲間にも恵まれた」
「天文学や芸術にも明るいですよね。算術もお早いし、あっ、字もお上手です」
「俺を知らない貴族達に好印象を与えるため身につけたに過ぎない。字は……メリルの母親にしごかれたな。どれも、領主として必要だと思ったから努めたんだ」
「頼りになりますし、優しいところも素敵です」
「それは君に少しでも好かれたく、て――」
可笑しなほどすらすらと反論していた彼は、はたと口を噤んで固まった。
「今、素敵と。そう言ってくれたのか?」
「はい。エリオット様はすごく魅力的な御方だと思います」
ゆっくりと、恐る恐るといった問いかけにしっかり頷く。
「って、わたし調子に乗ってなんてことを?!」
「いや、その……とても嬉しい」
勢いよく顔を背ける。心も体も燃えてしまいそうだ。
彼の消え入るような声を最後に、またしても部屋には沈黙が流れる。離れて座っているのに、逡巡が伝わってくるようでくすぐったい。
居たたまれなくなったルーチェは「お、お水でも飲まれますか?」と水差しを取りに立ち上がった。
「あら? きれいな貝細工……」
見たことのない小箱が机上に置いてあった。木材の艶から相当な年季が入っているように見える。天板に貝殻による見事な装飾が施してあり、よく見ようと思わず手に取った。
「あ! 待て、それは……!」
「え? わっ――」
大声に驚き、取り落としそうになって慌てて受け止める。が、拍子に蓋が開きかけ、はみ出た中身の紙がくしゃりと挟まってしまった。
「ああっ、ごめんなさい?!」
己の失態に嫌気がさす。折り目を伸ばそうと急いで取り出したところで、気付いた。
「これ……!」
見覚えのある便箋。夜食に添えていた手紙だ。
混乱しながら振り返ると、立ち上がった青年は真っ赤になって口をはくはくと開閉しており……ついにそのまま項垂れてしまう。
「大の男が……気持ち悪いだろう?」
「そんなこと! 断じて!」
自分でもびっくりするような声量が出た。
「あ、すみません……でも本当に。わたし、とっても幸せ者です」
改めて箱に視線を落とす。そっと捲っていけば、これまでの手紙が全てきちんと仕舞いこまれていた。
蓋を閉じ、丁寧に箱を戻す。また視界がぼやけてきた。でも、これは我慢しなくていい。どうかこれが、思い上がりでないことを祈りたい。
「もっと字が上手ければよかったのですけど」
精一杯の冗談。エリオットはゆるやかに首を振り、歩み寄る。
「今さら照れ臭いが……今日この時を逃したら、もう言えない気がする」
影が射す。いつの間にか彼は細長い箱を手にしていた。
大きな手がとても慎重に取り出した、その中身。
「健やかなる時も、天が試練を与えし時も。君と共に歩むと誓う」
婚儀の時にも告げられた誓いの言葉。
あの時とは違う。彼の深い紫苑の眼差しは変わらず真摯だが、これほど緊張してなどいなかった。耳が遠くなるくらい全身が熱くとも、しっかりと告げられる一つ一つの声を聞き逃したくない。
「ルーチェ。私と結婚してください」
差し出されたガラスの花が、窓からの夕陽を反射し輝く。
「これまでの非礼が許されるとは思わない。だが、どうしても伝えておきたかった。契約としてではなく、君を妻として迎えたい。今は心からそう思っている」
震える両手で花を受けとる。ため息が出るほど美しかった。豪奢な飾りのない一輪には、薄青の模様が花弁に一筋だけ。その清廉な潔さが、いかにもエリオットらしかった。
「わたし、」
「ずっと想う相手がいるんだろう? わかってる。俺が伝えておきたかっただけだ」
そう言って手早く箱を片付けてしまう。穏やかな笑みも苦々しい。
「受け取ってくれてありがとう。ああ、どうか返事は口にしないでくれ、理解したつもりでも悔しくなってしまうからな。まあなんだ、君には本当に申し訳ないことを――」
「その人はっ」
堪らず花を持ったままで彼の手を掴んだ。伝えたいことが頭の中を駆け巡る。つっかえながら必死に吐き出す。
「明るい笑顔が素敵な、すごく格好いい男の子でした! 騎士を目指していると。泣いていたわたしのために、葉っぱでララを作って慰めてくれました。わたしのこと、優しい子だって言って、それでっ、」
「ララ……?」
「こ、小鳥です! 大事な大事なわたしの家族!」
みるみる目を見開くエリオット。
どうしてこんなにきれいな色を忘れていたのだろう。銀の髪と葡萄のような瞳を持ったかつての少年。夕焼けの中で内緒話でもするみたいに、小さな友達をくれた英雄。
「エリオット様。子供の頃、セシリアへいらしたことはありませんか?」
訊ねる声が震えるのを抑えられない。
「……君に言われて思い出した」
呆然と呟く。
「父の仕事の都合で一度だけ――いや、だが、そんな……!」
「ずっとずっとわたしを支えてくださって、本当にありがとうございました。そしてこれからはどうか一緒に」
「じゃあ」
「喜んで、お受けいたします」
小鳥の騎士様……いや、大好きな人に、やっと伝えられる。
「わたしもあなたの傍に居たい」
彼は騎士になっていた。思った通り、高潔で心優しい騎士様に。
神様からのご褒美としか考えられない再会を、エリオットはまだ飲み込めていないようだった。それでも俯いた表情には前向きな感情が滲んで見える。
しばらく手を握り合っていると、ルーチェ、と焦れったそうな声が名前を呼んだ。
「花を、一旦そこに置いてくれないか」
「え?」
「あまりに嬉しくて、その」
切なげな顔は、ルーチェにとっての劇薬だ。
「君を抱きしめてもいいだろうか? ……あっ、いや。もちろん変なことはしない」
幸せで鼻の奥がツンとする。許可なんて必要ないのに、領主様はやはり律儀だった。
「はい」
せっかくのガラスの花だ。もらってすぐに割ってしまうのはもったいないから。




