もう少しの間だけ
あれからルーチェは夫とほとんど会話をしていない。夜の時間も、なんとなく気まずくて避けている。彼と向き合うのは醜さを突きつけられるのと同じだったから。
誰にも何も相談できず、部屋に引きこもりがちになった少女に、「お散歩でもいかがですか?」と声をかけたのはメリルだ。明確に触れはしないが、心配をかけているのは感じられた。
このままではいけないのもわかっていたし、たまには、と重い足取りでどうにか待ち合わせた庭園に出る。心の中とは真逆の、いい天気だ。
そうして約束の時間に姿を見せたのは。
「エリオット様?!」
「ルーチェ?」
彼も驚いた表情で一瞬だけ立ち止まりかける。が、長い脚では近付くのもあっという間。ルーチェは後退りしそうになったのをなんとか堪えた。
「どうして君がここに」
「エリオット様こそ……」
「庭木の選別について相談があると。アーサーが待っていると聞いていたが」
「わたしはメリルに呼ばれて」
気遣いに思い至ったのは恐らく同時。二人きりで立ち尽くす。
「お――お忙しいのではありませんか? あの、よろしければアーサーを探しに」
「いや」
エリオットは伸ばしかけた手を所在なく彷徨わせ、しかし、どこに触れることもないまま力なくおろした。
「ちょうど良かった。君に話したいことがあって」
そう言って切ない顔をする。別れ話を、ということだろう。
初めからそういう約束だ。お飾りの相手に対し、律儀にも面と向かって説明をしてくれるだけでも、感謝すべきことかもしれない。このまえ聞いてしまった会話は、知らないふりをしようと心に誓う。
「では、少しお散歩でもしませんか?」
どうにか笑顔を見せる。最後かもしれないなら、せめて思い出を作りたかった。彼の隣を独り占めできる時間を。
「散歩……散歩か……」
「お嫌でしたか?」
「そ、そんなことはない。ただ、目的もなく歩くなんてしばらくしていないものだから、君を楽しませられるかどうか」
「でしたら、わたしのお気に入りの場所に案内してもいいでしょうか?」
「ああ、そうしてくれ」
気難しい顔をしていたエリオットは、申し出にほっとしたように頷いた。
「領主様に対してご案内しようなんて、おかしいかもしれませんけど」
「いいや。俺も君の好きなものを知りたい」
どうして、そんな優しいことを言うのだろう。
太陽が眩しかったふりをして目を擦った。これだけ拳に力を込めていたら、手も繋げやしない。
◆
「本当にこのお城は素敵です。お庭もいつもきれいに手入れされていて」
「ありがとう。庭師達にも伝えておこう、きっと喜ぶ」
微笑まれれば胸が痛む。その度に、この時間を楽しまなくてはと言い聞かせる。
「レネシュはプラムが特産なのですよね。よくデザートにも出てきますし」
ゆっくりと歩く先に、大きなプラムの木が見えてきた。そういえばここに来て初めての食事にも、ソースとして出てきたのを覚えている。あの食事ともお別れなのは惜しい。
あちこちに植えられた果樹の中でも、その木は飛び抜けて立派だった。エリオットは何かに気付いたように少しだけ足を早める。
「懐かしいな」
見上げ、幹に手を添える。
「幼い頃からある木だ。ここからもいで、そのまま食べるのが好きだった」
「そのまま?」
「そう。こうして」
言うや、手近な枝に生った実を取る。
「お、怒られないのですか?」
「大丈夫さ、どうせ誰も見ていない。昔は木に登って採っていたんだ」
「運動がお得意だったんですね」
「モランよりはな」
今の洗練された所作からは想像がつかない。手にとった実を、頓着なく自分の服で拭いて渡す。
「行儀が悪いと乳母にたしなめられたものだが。――ああ、剥かずにそのままで。皮ごと齧ってみてくれ」
ルーチェは恐る恐る、柔らかな表面に歯を立てた。
「……おいしい! 皮も気になりませんね」
中身が甘くて瑞々しいのはもちろん知っていたが、皮ごと食べると、酸味と香りがより強く感じられる気がする。
「だろう? 本当はな、この果物は皮と実の間がいちばん美味いんだ」
宝物とばかり自慢気に微笑むのがあまりに無邪気だから、ルーチェは性懲りもなくまたどきどきしてしまう。
野性味のあふれるおやつ。なんだか悪いことをしている気分だ。そんな子供じみた行為に夢中になったかと思えば、食べ終えた頃合いで、さりげなくハンカチを渡される。
「手を拭くといい」
「ありがとうございます」
「うん」
――ああ、好き。どうしようもなく大好き。
叶うことはない。彼も最後だからと哀れんで、特別優しくしているに違いない。
薔薇や大手毬が美しく咲いた一画を抜ける。ベンチに並んで腰かけ、遠目に城を見る。ルーチェの隣からは大きなため息が聞こえてきた。
「……このところ少し忙しくて。花祭りの準備もあったから」
「忙しくないエリオット様を見たことがありません」
「確かにな」
小さく笑う。いつの間にか普通に笑ってくれるようになったのに、この笑みも他の人に向けられてしまうのだ。これまでの時間を後悔してはいないが、ただ、寂しかった。
「花祭りといえば、あのガラスのお花はとてもきれいですよね。昔からの慣習なのですか?」
「少なくとも、俺が子供の頃には既に。しかし昔は売場もあれほど大きくはなかったんだが――あ」
しまった、という顔でエリオットは口を噤む。きっと花を買いにいったのだろう。王家から妻を迎えるのなら、とびきりの花を用意するに決まっている。
すがる気持ちで小鳥の騎士様に祈る――どうか強さをください。もう少しの間だけ、優しく振る舞えるように。
「……お、お城の壁もお掃除されているんですね。道理できれいな」
聞かなかった振り、気付かなかった振り。それがルーチェの精一杯だ。
「え、ああ、そうだな。まあ言ってしまえば見栄だ。他領からの客人もあるし」
「あんなに高いところ、怖そう……」
「まったくだ。職人達には頭が上がらない」
並んで座っていると、一緒に出かけた時のことを思い出した。ついこの前なのに、なんだか遠い昔のように感じられる。
「わたし、レネシュの好きなところはたくさんあります」
初めて来た日のことは、はっきりと覚えている。厳しい山々を背に建つ立派な城、優しい人達に、少しせっかちだが頼もしい領主。
「そういえば、お城にある絵や花瓶はエリオット様のご趣味なのですか?」
掃除の手伝いをしたことも懐かしい。エリオットは首を振った。
「城のことはほとんどアーサーに任せている。調度品も、父や祖父の代から受け継いだものが大半だ。そういった方面には詳しくない」
「でも先日、贋作を売りにきた商人を追い払ったと聞きました」
「有名な画家の作品を模したものだったから、たまたまわかりやすかったんだ。多少は、父が色々と収集したもののお陰で目が肥えたかもしれないが……」
端正な顔を大袈裟にしかめる。
「メリル達からは女性を見る目はないと言われるがな。失礼な話だろう?」
「ふふ、まったく!」
二人でくすくすと笑った。せっかくこうして冗談も交わせるようになったのに。
すぐ触れられる近さに手が置かれている。
もし、もし、一度だけでいい。最後の機会だからと自分の気持ちを訴えたら。
この関係が壊れるのがずっと怖かった。だが今や、もう失うものは何もないだろうと、ずるい自分が囁く。
「あの、」
ふと隣を見上げると、エリオットは眉間に皺を寄せて険しい顔をしていた。視線に気付くと少しだけ驚いたような色を見せ、すぐさま曖昧に笑む。気を遣われているのが伝わってくる。
……やっぱり、いけない。
口を引き結ぶ。夫は優しいひとだ。話を切り出しにくくさせてしまっては申し訳ないと思った。
エリオットはなかなか口を開かなかった。どうか早く拒んで欲しいとルーチェは願う。でないと期待してしまうから。
しばらく無言で俯いていると、プツリと何かをちぎる音。少しの間があって、小さなものがおもむろに差し出される。
「ほら」
反射的に受け皿にした手にぽとりと落とされたのは、葉っぱでできた一羽の小鳥。
「幼い頃にこういった遊びはしなかったか? なんだか元気が無さそうに見えたから……あ、いや、さすがに子供っぽい、よな……」
段々と勢いを失う声を頭上に、手のひらの鳥を凝視した。体が熱い。心臓が痛いくらいに鳴っている。
そっくりだ。仕上げに尾をしごいてゆるく跳ねさせるのも同じ。
あの男の子も深い紫の瞳をしていたのを思い出す。年齢は、たぶん、一致する。
セシリアに来たことがある? その一言を口に出せばいいだけなのに。
確かめるのが怖い。だって、だって。別れなければいけないなら余計に辛くなる。手の中の小鳥をそっと包み込んだ。
「エリオット様」
苦しいけど、知りたい。訊きたい。ひりつく喉から言葉を紡ぐ。
「最後にひとつだけ、お訊きしたいことが――」
唐突に肩へ重みを感じ、ルーチェは驚いて隣を見た。俯いたままの大きな体が寄りかかってくる。思い切り、のし掛かるかのように体重を預け……
「エリオット様?」
返答はない。咄嗟に腕を掴み損ね、脱力した体がずるりと落ちる。
彼はそのまま、崩れるように地面へと倒れ込んでしまった。




