どうかこのままレネシュに
「お体の具合はいかがでしょうか?」
「問題ない。運が良かったな」
「本当にご無事で良かった……!」
少女の唇から小さなため息が漏れる。自分のためと思えば、エリオットにとっては嬉しい反応だった。
襲撃で一人の犠牲者もなかったのは奇跡と言っていい。城の皆には感謝しかない。隣に座る少女には特に。
エリオットはあの高さから落下したにもかかわらず、植え込みに引っかかったおかげで、打撲の他には掠り傷程度で済んだ。額の横に傷痕は残ってしまったが、理由を思えばむしろ誇らしいくらいだ。
より重傷なのは盾となったロディである。といっても、巧みに受け身をとったために、片腕を折るだけで済んだらしい。呆れる器用さだった。
事件以来、ルーチェはなぜか『影』が見えなくなったと言う。「皆さんのお顔がよく見えるようになりました」などと笑い、内心はどうあれ、本人は大して気にしていないようにエリオットには見えた。
彼女がレネシュのために命を懸けたのは事実だ。もうただの契約で片付けることはできないだろう。
なぜ例の騎士より先に出会えなかったのか、段々と腹立たしくなってくる。ぶつける先もないから余計に苛立ちが募るばかり。どうあってもかの騎士に勝てないことは、彼女の語り口から嫌でも実感させられている。
今日も部屋で話を。日に日に時間が長くなっていることに相手も気付いているのか、訊ねる覚悟はなかった。
「エリオット様はどうして騎士になりたかったんです?」
葛藤など露知らず、珍しくそんな質問をされて少しばかり返答に迷う。
「ん、まあ……格好いいからだ」
「ふふ、意外とあっさりとした理由なのですね。魔物に対するのは怖くないのですか?」
「男たるもの、一度は憧れるものだろう」
なるべくおどけて返せば笑顔で応じられた。気を遣わせずに済んだのを見留め、誇らしい充実感と安堵を覚える。
「レネシュの騎士団は祖父の代より前からあるんだ。多忙な両親に代わり、子供だった俺の面倒もよく見てくれた」
「お父様も騎士をされていたのでしょうか?」
「いや。父はただの役人だった」
ルーチェは口ぶりに何か察したようだった。そうだな、と深刻にならないよう慎重に言葉を探す。
「前領主である俺の父は、優しく愛情深い人だったが、残念ながらあまり商才がなくてな」
優しすぎた、と彼は思う。つけこんで、足元を見てくる相手も少なくはなかったのだ。もっと自己中心的であれば生きやすかったろうに。
「その姿を見るうち……いつしか自分こそがレネシュを負って立たねばならないと思うようになって」
彼は剣と経営に、義妹は歌と芝居に興味を持ち、両親は正反対なきょうだいを平等に愛した。騎士団員らも訓練の手を止めては、主人の小さな宝物たちを可愛がったものだ。両親には、好きに生きるよう言われていた。
「俺は阿呆だったから、騎士にも領主にもなれると信じていた」
「ちゃんと、どちらにもなっているじゃありませんか」
「だといいんだが」
苦笑する外ない。つくづく、人生というのは短すぎる。優先すべきは義務である領主の務め。自らに言い聞かせて生きてきた。
だから、魔物から彼女を守ることができたのは、騎士としての役割を果たせたようで嬉しかったのだ。
「領主となることは、重荷には感じなかったのですか?」
「やるべきだと思ったから」
しっかりと否定を返す。
「レネシュは資産だけでいえば裕福なほうだ。作物を育てるのにそこまで適した土地ではなかったが、昔から砦を管理することで、王家から多めに資金をもらっていた。だが、人が集まればどうしても格差は生まれる」
幼い頃に父親に連れられ町へと出掛け、その日の寝床もない貧しい子供達がいると知り衝撃を受けた。その場でパンを買ってやっても、そんなものはほとんど意味がない。彼らは一生、与えられる側にしかなれない。
エリオットの父もきっとわかってはいた。だが同時に、変化に対し臆病な人物でもあった。
「必死で学び、父と共に交渉の場に出向くようになったんだ。それがこの家に生まれた自分の責務だと信じていたから」
少女は重々しく頷いた。領主の子なら似たようなことを考えるかもしれない。
「今思えば若かったな。実の息子から責め立てられる状況は、父にとっても辛かっただろう」
いくら褒めそやされてもどこか暗い気持ちが残った。エリオットは父親を悪人だと思ったことは一度もない。
それに彼は……褒められた記憶しかないのだ。
「心の広い人だったよ」
早くから社交の場に出ていたとはいえ、まだ二十歳にもならない若造だ。にもかかわらず、レネシュの人々は優しかった。それが逆に辛いこともあったが……居なくなって改めて、父の偉大さに気付かされたもの。
「父を亡くした当時、俺はまだ学生だった。王都の学院を諦めこの家へ戻り、領主の立場を継いだんだ」
「そう、だったのですね」
ルーチェはしばらく自分の膝に目線を落としていたが、やがて何やら決意に満ちた顔を上げた。
「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
「その……エリオット様は、女性に手を上げたことはありますか?」
「そんなことは――」
反射的に否定しようとして、唯一の心当たりに思い至る。
セシリアとレネシュは決して近くはないのだが。どうやら前妻は、相当な範囲に言いふらしてくれたようだった。
「……一度だけある」
観念して肯定すれば、小さく息を呑む気配があった。
「それは……前の奥様ですか?」
「そうだ。一向に相手をしない俺に業を煮やしたか、ある日とうとう食事に毒を盛られてな。まあ大したものじゃない、睡眠薬の類いだが」
「大した、って、そういう問題じゃ……!」
不満を持っているのだろうとはエリオットも薄々察していたが、まさか襲われるとは思わなかった。
「気付けばベッドに縛られていて……おおかた、子供さえできれば言うことを聞くとでも考えたんだろう」
「では、その時に?」
「さすがに形振り構っていられなかったからな。無論、女性に手を出したのはあれが最初で最後だ」
思い出してもぞっとする。せめて顔を殴らないだけの理性は残っていたが、かなり恥ずかしい思いをした、それに。
「情けない話だが、しばらくは女性を見るのも恐ろしくて。会食やパーティーは全て断ったし、侍女達が部屋に出入りすることも禁じた。当然あのメリルもだ。妻に陥れられる男なんて笑い種だろう?」
どうにか笑わせようと試みたのに、ルーチェはずっと俯いて両膝の上の拳を固くしている。
しくじった、と内心で舌打ちをする。気持ちのいい話ではなかっただろう。
「せっかくの時間につまらない話を」
「違います、エリオット様のせいではなくて。噂に踊らされて疑いを持ってしまった自分が、とても恥ずかしいのです」
どうやらまったく別の理由で落ち込んでいたらしい。準備していた謝罪の言葉を慌てて飲み込む。
「仕方がないことだ。君は俺を知らなかったわけだし、噂なんてそんなものだろう。だが、」
エリオットは思わず綻んだ口許を隠す。
「俺の話を信じてくれるんだな」
「そんなの、当たり前です!」
指輪を着けないのは気にかかるが、少なくとも人としては信用してくれているらしい。せっかく悪くない関係なのに、それに甘えて調子の良いことを言い出せば幻滅されてしまうかもしれない。
――本当はどうかこのままレネシュに居て欲しい。
だからこそ、例の騎士について訊ねる勇気はなかった。話題を出してそちらに傾いてしまうのを怖れている。我ながら卑怯だと自嘲するしかない。
あっという間に休む時間が訪れ、彼は部屋を辞する間際、近いうちに王都へ行く旨を伝える。
「その、わざわざ言うことでもないかと思ったんだが。一応な?」
少女に何やらもごもごと言い淀まれ、気恥ずかしくなり急いで付け足した。いえ、と呟かれた声は小さい。
「教えてくださって良かった。す……お、夫の予定は知っておきたいですからっ」
「そうか? それなら、うん」
「手紙を書いても良いですか?」
前のめりな問いかけに面食らう。手紙?
「郵便ということか? そんなに長い日数はかからない。きっとすれ違ってしまう」
「ああっ、そうなんですね……!」
慌てふためく様子が可愛らしかった。遠征に対して余計に後ろ向きになってしまう、勘弁してほしい。
懸命に言葉を探す姿に、なるべく優しく聞こえる声を心がける。これ以上は怖がらせてしまわないよう慎重に。
「戻ったらまたこうして話をしよう。土産話をたくさん持ち帰るから」
嬉しそうに頷いてくれるだけで充分だった。絶対に早く帰ってこよう、とエリオットは内心で固く誓うのだった。




