君で良かった
『影』はやはり見間違いではなくて、日に日に濃くなっていく。
毎晩、エリオットと対策を練るべく話し合う。混乱を防ぐためにも他の人達には黙っていようと決めていた。
領土を争うような戦が起きる可能性は低い、砦の総点検は先月に実施したばかり、火気の扱いは十二分に注意を徹底させて……
「最近では騎士だけでなく、侍女や使用人の皆さんにも『影』が」
「参ったな。範囲が広がったということか?」
「騎士団関係者のものが濃いのは、相変わらずなのですが……」
いつ事件が起こるのかわからない、その内容もわからない。それでもエリオットはルーチェの言葉を信じ続けた。悪化していく光景をひとりで見ているしかなかったら、どんなに苦しかっただろう。共に居てくれるだけで心強い。
「見え方に個人差は?」
「人によって濃さにばらつきはあります。形は一律、モヤのようなのですけど」
一瞬だけ彼の背後を見た。なるべく視界に入れないよう心がけていたが、やはり恨めしい気持ちが沸いてくる。
「ううむ……もう一度、整理してみよう。誰の『影』が濃いのか教えてくれるか」
名前を挙げ終えると、エリオットはしばし顎に手を当てたまま床を睨んでいた。やがて「少し待っていてくれ」と言って出ていったかと思うと、少しして、バタバタと駆け戻る勢いで再びドアを開けた。
「わかったかもしれない!」
息を切らしながら机上に帳簿を開く。そこには日付と、何名かの騎士の名前が並んでいた。
「砦の見張り当番の表だ」
砦は観測所の役割も兼ねているから、毎日交代で数名が常駐することになっている。
彼が指差したのは、とある日付。
「ここ。君が言った騎士達じゃないか?」
当番として並ぶ名は確かに先ほど挙げたもの。一際『影』の濃い人達だ。
血の気が引いた。否定を願って見上げたが、エリオットは苦い顔で頷く。
残り、一週間しかなかった。
◆
その日は大規模な実戦演習を行うとの通達があった。いささか急な連絡に騎士達は戸惑ったが、誰ひとりとして抗議したり、手を抜こうとしたりする者はなかった。実際の現場は抜き打ちどころではないと知っているからだ。
当然、城の外へも素早く報せがもたらされる。レネシュの家畜達は小屋へと入れられ、市場は早々に畳まれた。領外からの道もすべて通行止めとなる。
屋上には石弓が並べられ、騎士達が配備された。きびきびと準備を進める彼らに指示を出しているのは、もちろん団長のエリオットだ。
銀色の鎧をまとい髪を結った領主の姿は、それだけで周囲に緊張感を与えるに充分なもの。戦場へ赴かんとする姿をルーチェは初めて見た……見たくなどなかった。
砦へと出立する直前、わざわざ屋上まで訪ねてきた少女を見、彼は少しだけ驚いたようだった。
「建物の中にいたほうがいい。何が起こるかわからないんだ」
言葉を探す。本当に特段の用事があったわけでもない。
「エリオット様。どうか、ご無事で……っ」
だが、どうしても顔を見たくなった。祈らずにはいられなかった。今も変わらず彼の『影』は濃いままだから。
伝わったのだろう、彼はいくらか力を抜いた様子で嘆息した。
「命を無駄にするつもりはない。だが、犠牲を払ってでも大切なものを守らなければならないのは、きっと領主も騎士も同じだろう」
「そんなこと、」
「君もどうか気を付けて。……それと、このまえくれた贈り物。本当に嬉しかった」
唯一、事情を知るそのひとは。籠手をおもむろに外し、ルーチェに向けて手を差し出した。ふっと微笑まれて心臓が跳ねる。覚悟を決めた表情に、引き留めるための言葉が喉元で突っかかって、出せない。
「まだ何があると決まったわけでもないが。ありがとう。レネシュに来てくれたのが君で良かった」
◆
ルーチェが訓練を見学したいのだと言えば、砦が見える場にいることを騎士団は許可してくれた。傍のロディも鎧を身につけ、銀剣を携えている。
「こんなに大きな演習なんて急だなあ。団長は理由を教えてくれませんでしたけど」
「皆さんずいぶんと手際が良いのですね」
「まあ、魔物は襲う前に通達してくれませんからね」
会話しながらも、ルーチェは山の方をずっと見つめる。気付けば祈るように両手を組んでいた。
たまに空砲の音が響くくらいで、騎士達が大勢いるにもかかわらず屋上は静かだった。
「さてと。もうそろそろ合図が見えるはずですが」
砦での演習が一段落した後に、城側でも砲撃訓練が行われる予定となっている。行程はいたって順調。
――もしかして、予想が外れた?
居並ぶ騎士達を眺めていると、気のせいか……皆の『影』が陽炎のように一際大きくゆらめいた。ピウッと微かな笛のような音が響く。
ずっと向こう、砦の上空。鮮やかな赤色の煙が弾けた。
「え」
ロディが珍しく呆けた声を発したのと同時、見張りの騎士が「副団長!」と悲鳴を上げる。
「赤の狼煙です! 魔物がこちらへ向かって来ます!」
「わかってる! 総員、配置につけ! 弓兵は構え、投石機を用意! 砲台に催涙弾の充填も忘れるな!」
見たこともない表情で彼は叫ぶ。
「飛んでるぞ! 恐らく――竜だ!!」
砦の一画で土煙があがるのが見えた。遅れて轟音が届く。
「砦が?!」
「落ち着け! 怯むな!」
空を飛び回る巨体。翼のある相手に砦はほぼ意味を成さないと騎士達は言っていた。一方で、滅多に襲ってこないとも。
「あー。はは、ちょっとこれはまずいかもしれませんね」
ロディがいつもの口調を心がけようとしたのはルーチェにもわかった。笑みがひきつっていたとしても。
「ご安心を。奥様のことは我々が必ずお守りしますからね」
あの崩れた砦には……エリオットがいる。
どくどくと脈打つ心臓が痛い。ぎゅうと自分の胸元を掴む。大丈夫、大丈夫。絶対に無事だと言い聞かせる。
だから、勝手に諦めるわけにはいかなかった。
「さ、早く避難を――」
「ま……待って!」
あれだけ巨大な竜に襲われては人間などひとたまりもない。震える息を吐き出し、吸う。
「まだわたしにも出来ることがあります」
「は? 一体何を……!」
賭けだ。たとえこの身に何があっても、エリオットと共にこのレネシュを守らなければならない。ルーチェは彼の妻なのだから。
「わたしなら魔物が次にどこを狙うかがわかるかもしれない。もし試してだめだったらすぐに避難すると約束します。お願いです、一緒にレネシュを守らせて!」
ロディは何かを言いかけ、それから背後の空を振り仰いだ。魔物は凄まじい速度で近づいてきている。
視界の端で黒いモヤがぶわりと膨れあがったのをルーチェは見た。
「みっ右! 右側の皆さん逃げて!!」
ありったけの声で叫ぶ。考える間はない。
少女の滅多にない大声が効いたのか、転げるように騎士達が散らばれば、次の瞬間には竜の爪が容赦なくその場を薙いだ。
思った通り、『影』が濃くなるのは死が迫った証。危険を知らせることならできる!
「ね、ロディ、信じて。少しは役に立てるはずだから……!」
「あ、ああー! もう!」
彼は半ば自棄かのようにルーチェを建物の陰へと引っ張った。
「奥様がこんな場で冗談を仰るような性格でないことは存じてますよ。それに、お節介のお人好しであることも!」
死角となる位置に押し込め、背を向けたまますらりと剣を抜く。
「危険を感じたら僕らを見捨てて逃げると約束してください」
「嫌です!」
「ハイハイ聞こえません。いいですか奥様、僕が指示を伝えます。あとできれば――方向は東西南北で仰ってくださいね?!」
「……はいっ!」
しっかりと頷き、周囲へと視線を走らせる。
「北西の方向! 来ます!」
「第三部隊は逃げろ! 弓兵、放てッ!」
石畳が破壊される。辛うじて逃げた騎士達と、その場に降る矢の雨。
周囲を見回しルーチェは叫ぶ。その度にロディが的確な指示を出し、素早い巨体の急襲はギリギリで避けられていた。
翼の皮膜に矢が刺さる。何度も何度も応酬を繰り返し、とうとう落下した魔物は怒りに任せ尻尾を振るった。尖塔の一つが呆気なく崩れる。
――次はどこ? 早く、早く……!
地上戦にもつれこんだ直後、先ほどまでのような揺らぎがどこにも見当たらない。
この力の弱点をルーチェはすっかり失念していた――自分が狙われているのはわからない。
最も濃い『影』を持つのが目の前の副団長だと、気付いた時には遅かった。
「ロディ?!」
容赦ない腕の一振りが彼と騎士達を薙ぎ払う。
少女を守る壁はなくなった。錆びの臭いと生臭さが混じったような熱い息。じりじりと迫る縦長の瞳孔に死の恐怖を見た、その時。
銀色の光が突っ込んでくる。捨て身の勢いのまま盾で竜を思いっきり殴り付け、人影が地面を転がった。
投げ捨てたのは弓らしい。大きな槍を構え魔物と対峙する、この場にいるはずもない騎士。鎧は汚れ凹んでおり、兜もとうに壊れたか、側頭部から流れた血が銀髪を黒く染めていた。
――まさか、砦から戻ってきたというのか。
驚くルーチェの目の前で、腰を落とした彼の『影』が揺らいだ。
「待って、待ってお願い……っ!」
すっかり標的を定めた竜は、黒煙を吐き出しながらエリオットへと突進する。巨体の動きはそれだけ大振りだ。既に体勢を整えた彼は、構えた槍を竜の眉間へと迷いなく突き刺した。
咆哮。地響きに煉瓦の一部が崩れたのは大した問題ではない。
竜は痛みに暴れ、刺さった槍ごと勇敢な騎士をぶんと振り回す。柄から手が離れ、銀色の体が宙に舞う。
「かかれぇっ!!」
びりびりと空気を震わせるような声。
ルーチェは雄叫びを上げる騎士達へ目もくれず、彼の姿を追いかけた。抉られた石畳が邪魔で何度も転びそうになる。
空中に放り出されたエリオットは、そのまま尖塔の屋根に強く打ち付けられ、跳ね上がった瓦礫と共に、城の外へと転げ落ちていく。
この高さから落ちればただで済むはずもない。人形のようにただ自然の摂理に蹂躙される動きが、やけにゆっくりと見えた。
「エリオット様!!」
すっかり弱っていた魔物が、備えに備えられた騎士団に圧倒されたのは当然だった。しかしルーチェには倒れた竜のことなどどうでもいい。すぐそこで燃え上がっている黒い炎の熱さを感じることもない。柵から身を乗り出し、地面へ向かって叫ぶ。
投げ出された肢体には、紛れもない銀の鎧。
そしてどれだけ目を凝らしても……あれほど濃かった『影』はもう見えなかった。
「あ、ああ……っ!」
彼には話さなかった法則がある。……死んだ人間の『影』は見えない。
力なく横たわる体は、全く動かなかった。
「わ、わたしなんかを、庇って……!」
堪らずその場に崩れ落ちる。力なんて、あっても何の役にも立たなかった。助けたいと願ったのに、ルーチェはいちばん大切な人を守れなかったのだ。
騎士達もしんと静まり返っている。
「……おい!」
不意に周りがざわついたのはその時だ。がやがやと、何人かの騎士が手摺から身を乗り出す。
「奥様ッ!! 団長が――」
駆け寄ってきた騎士は興奮した様子でルーチェの肩を揺さぶった。彼女はふらつく足を叱咤し、手を貸してもらって立ち上がる。
同じように地面を見下ろし……微かに脚が動いた、ような気がした。
見間違いかと思った。涙で霞む目を必死に擦る。
「団長ー!」
「旦那様ぁー!」
吼えるような声が届いたみたいに。彼はゆるゆると上体を起こし、そして、拳を高々と突き上げてみせたのだ。
その時の城じゅうが震えるほどの歓声を、ルーチェは生涯忘れはしない。




