人生最悪の日
彼は何色が好きなのだろう?
ルーチェが思い返してみても、城内での服装には頓着していなさそうだ。それとなくメリルに訊いてみたこともあるが、芳しい回答は返ってこなかった。
ただ、派手なものが好みでないのは確からしい。普段も装飾品の類いは身につけていない。
以前、「エリオット様って存在自体に華があるわよね」と言うと、メリルは心なしか胸を張っていた。マジメで武骨な領主様に、髪を伸ばすよう進言したのは彼女だ。顔立ちも整っていて、背が高く手足も長いから何でも似合う。
――つまり、夫への贈り物選びは、少女にとってかなりの難題だった。
「あ、お、お待ちください! お渡ししたいものが、あるのですけど……」
部屋で話をして、そろそろ眠る時間という頃合い。自室に戻るのを引き留め、彼に一つの袋を渡す。ずっと勇気が出ず、置きっぱなしになっていたものだ。
「あの紙袋……」
「『あの』?」
「いや」
戸惑いを見せながらも、大きな手が取っ手を恐る恐るつまむ。
「俺に?」
「は、はいっ。その……日頃お世話になっていますので、感謝の気持ちです!」
本当はもっとたくさんの気持ちを伝えたかったのに、当たり障りのない言葉を発するので精一杯。ルーチェは男性に贈り物を選んだのも初めてだった。
「今日は何か特別な日だったか?」
エリオットは怪訝そうに呟きつつも、その場で中身を確認する。「開けても?」という問いかけには何度も頷いた。
「……クラヴァットピン?」
「はい、スカーフを留めるのにも」
どうしても結婚式での姿が忘れられず、首もとを彩るための小さな装飾を贈る。身につけるものがいいと願うと選択肢は多くなかった。
瑞々しいオレンジ色の石が嵌め込まれたピンを見つめながら、エリオットは何も言わない。もしかして好みではなかっただろうか。なんとなく、本当になんとなく、彼には夕日の色が似合うと思ったのだが。
「君が町で買ったのか」
「はい。レネシュの中でも老舗のお店だと聞いて」
頷き、再び丁寧に箱の中へとしまう。その面持ちはどことなく緊張に満ちている。
「ありがとう。機会があれば使わせてもらう」
もう少し笑顔を見られるかと思っていたルーチェは拍子抜けする。やはり雇われの身で贈り物なんておかしかっただろうか。元はといえばエリオットの資産だ。不安だったからこそアーサーにも相談したのに。
ルーチェ自身、一念発起して服装にも気を遣っているものの、恐らく目に留めてはいないに違いない。良くも悪くも、実を重んじるあの『エリオット様』だ。贈り物を渡せただけで満足すべきなのだろう。
――死の影なんかじゃなくて、エリオット様の心が見えたら良かったのに。
ルーチェはベッドの中で大きく息を吐く。先ほどまで並んで腰かけていた場所はすっかり冷えていた。香水は好まないから、毛布を抱き締めても彼の名残は何もない。
出会った時と比べたら、『影』はかなりましになってきていた。ちょっとした夜食が役に立っているとはとても思えないが、改善したのなら喜ばしいことだ。
同時に、それだけで満足できないのがつらかった。
「……」
国の要地を任された辺境伯。夜の茶会も、未熟な妻を心配してのことに違いない。
いつか彼は他の誰かと結婚するのかもしれない。どんな女性が好きだろう。少なくともこんなに卑屈な考えは持たない人物に決まっている。もっと美しく、器量が良くて、家柄もちゃんとしていて……
その時、わたしは。
ルーチェは想像するだけで恐ろしくなる。その時、わたしは……素直に祝福できるの?
◆
人生最悪の日だった。
朝食の時は普段と変わらなかった。メリルと他愛ないお喋りをして、彼女からちょっとしたアーサーの愚痴を聞いて、料理人の三兄弟と献立の話をして、それから、いつものように勉強と仕事を。
異変に気付いたのは昼頃。鍛練が一段落してか、砦から戻ったところか。ともかく、騎士団の面々が城へ姿を見せた時だ。
「なんで……?!」
あちらを見ても、向こうの騎士も!
何度も目を擦っても――彼らの『影』は一様に、皆、真っ黒だった。
「奥様?」
メリルの問いかけにルーチェは口を開きかけるも、やはり閉じるしかなかった。
気持ちが悪い、死神のような力。信用できるかもわからない、いや、それが信用できるのだとしたら彼らはきっと近いうちに――
「ルーチェ?」
本当に最悪だった。
頭を殴られたような衝撃を堪え、辛うじてその場に踏みとどまる。会議から戻ったばかりなのだろう領主様。
「どうした? また遅くまで本でも読んでいたか」
――なぜ? 昨日まで、昨夜まで。あんなにお元気そうだったのに!
「エ、エリオット様……!」
アーサーや使用人は連れていない。彼は珍しく一人で、そして真っ黒な、深い深い『影』を背負っていた。
唇が戦慄く。嫌、いやだ。死んでほしくない。
話すべき? ――そんなの決まっている。
迷いはなかった。だって、彼は。ツンとするものを腹の底へ押し込む。彼は、ルーチェの考えを否定したことも馬鹿にしたことも、一度たりともないのだ。
「あのっ……お、お話ししたいことが」
「急ぎの用か?」
頷く前に本当は少しだけ躊躇った。葡萄色の瞳が、じっと少女を見つめる。
「……了解した。場所を移動しよう」
まるきり計画になかっただろうに、実にあっさりとエリオットは首を縦に振った。
「メリル、このあとの予定を変更する。急用ができたとアーサーに伝えてくれ。司祭の件は日を改めるように、孤児院の話は夜にすると言えばわかるはずだ」
「御意に」
彼女が去り際に向けた眼差しは随分と不安そうだった。ルーチェはなるべくしっかりと頷きを返し、エリオットの後に続く。
「この時間なら誰もいないだろう」
率いられたのは談話室。侍女による掃除は、もっと朝早くになされている。
どかっと大きな体が椅子に収まる。ルーチェは静かに扉を閉めてから一瞬迷って、対面の席に着いた。
どう、切り出したものか。机の下でぎゅっと組んだ両手を見つめていると、ため息が聞こえた。
「話しにくいことなんだな?」
せっかく時間をとってもらっているのに、口に出したら現実になってしまいそうで。
――怖い。
それに、どこから話したら信じてもらえるだろう。……嫌われないだろう?
エリオットはまた深い息を吐いた。困らせてしまっているのはわかる、が、どう伝えたらいいのかがわからなかった。
「最初に言ったはずだ。俺は君の選択を絶対に咎めない。レネシュのことは気にしなくていい。まだ若いんだ、自分の人生を大事にしてくれ」
「え……?」
どうにか動く頭の片隅が疑問を呈する。これはもしかして、勘違いなのでは?
「エリオット様、違います! あの、ええと……違います!」
「違う?」
「わたし、その、レネシュを出ていきたいとか、そういったことは微塵も思っていません!」
「……ん?」
道理で人払いと言いながら、互いの部屋ではなかったわけだ。
本当に気遣いの人物だ。だからこそ、笑われることへの恐ろしさより、レネシュを、この人を守りたいと思う。
「お伝えしたいことがあります。信じていただけないかとは、思いますが――」
それから少女は初めて『影』の話をした。幼少の頃からの経験も、母親や古本屋の店主が亡くなった時のことも、そして今、レネシュ内で見えている異様な光景のことも。
エリオットは途中で口を挟まなかった。だが、騎士達の『影』の話をした時には警戒をあらわにする。
「少し時間をくれ」
頭痛でも堪えるように、机上を睨む。唸るような低い声。
「つまり君は、この城に……レネシュに災いが起こるかもしれないと。そう言っているんだな?」
「はい。このような荒唐無稽なお話、信用されなくとも仕方がないと思います。でもっ、もしレネシュの人達に何かがあるのだとしたら、見逃したらわたしは一生後悔します」
「……」
「変なお話をしてしまって申し訳ありません。わたしの誤りだったなら罰してください。備えるにしてもお金が動くのだってわかっています。その分はいつか働いてお返ししますから、だからどうかできることを――」
制止する手のひらに、大人しく従って口を噤む。彼は腕を組み、短い息吹をひとつ吐き出した。
「わかった。君を信じてみよう」
ゆっくりと瞬きをする。ぽかんとしていると、眉間に皺が寄った。
「そう不思議な顔をしなくてもいいだろう。君は自分の良心に殴られて痛みを感じる人間だと、俺は思うんだが」
「良心に? 殴られる?」
「ふむ。理屈が要るか?」
いいか、とまるで用意していたかのように言葉は続く。
「仮に嘘をついたとしても君には利がない。レネシュの武力を分断させるのが目的だとして、失礼ながら攻め入るほどの後ろ楯もないはずだ。セシリア領にそこまでの力があるとは思えん。外部とも特にやり取りがあるとは聞いていない。フン、何より、間者であれば予算の心配などしないだろうからな」
「信じてくださるのですか……?」
「その青ざめた顔が演技なら、モランより才能がある」
少しだけ和らいだ声に、ルーチェは何度か瞬いた。泣きたかったことなんて、もうすっかり忘れてしまっている。
「俺が背負うのは民の生活だ。彼らに堂々と説明できる行動なら躊躇わない。何事もなければそれはそれでいいだろう。質問は?」
「い――いえ」
「よし」
彼もまた満足そうにうなずいて、椅子へと背を預ける。
「フェリシアの命も救ってくれたしな。もしやあれも?」
「ご、ご推察の通りです」
「なるほど。影とやらは、俺にも憑いているのか?」
黙って首肯する。彼の『影』が最も濃いなどとは、とても言えなかった。
「そうか……。君には?」
「昔から自分のものはわからないのです。鏡で見ても。ですが、お城の人達の中でも、騎士団の皆さんが特に濃く見えて、他の方はそうでもなくて」
「死が訪れるまでに、という言い方が正しいかはわからないが。猶予はあるものだろうか?」
「わかりません。近いうち、としか」
もどかしさにルーチェは歯噛みした。これでは全く役に立てない。だが、エリオットは『影』が見えるという話をまったく疑わなかった。
「人によって影の濃淡に差があるのなら、ある程度は対象を絞り込めるかもしれない。今のところは騎士団絡みだと予想がつくように」
これだけ大規模な異変は初めてだ。きっと個人にというより、レネシュ全体に、もっと言えば騎士団に何かが起きる可能性は高い。団長でもある彼の『影』が濃いのもそのせいだろう。
自分に死の影が見えるなどと言われたら、決して平静ではいられないだろうに。共に対処法を考えようとしてくれるのが心強く、同じくらい切なかった。
「時間はないかもしれないができることを考えよう。ルーチェ、君が頼りだ」
また涙が零れそうになり慌てて俯いた。
必ず応えなくてはいけない。決意を新たにする。
――何があっても、わたしはこの人を死なせない。




