クズ子爵め
帰りが早かったために夜食が無かった、とある日のこと。エリオットは休もうと部屋に戻るところで、たまたまルーチェと出くわした。
それからどんな会話をしたかも緊張で覚えていないが、部屋で話をする流れになったのだ。女性の、妻の私室に足を踏み入れるなど生まれて初めてのこと。
以来、時折は彼女の部屋を訪れている。使用人や騎士達に見られれば何を言われるかわからなかったから、こそこそと移動するのは気疲れするが。
エリオットの部屋のようなテーブルセットはないから、なんとなく間を空けてベッドに並んで座る。落ち着きは、しない。男所帯にはない匂いにもくらくらした。だが、不思議と居心地は悪いわけでもなかった。
「どうだ、勉強の調子は」
「考え方のコツが少しわかってきた気がします。色と特徴の変化を覚えるのが大変で」
「色というと、魔石を熱した時のか?」
「はい、それです。高温だと燐光を放つ、などという……ロディがちょっとだけ実物を見せてくれました」
「上級の試験でも問われる内容だな。規則性がないのが厄介だが」
「頑張って覚えます……!」
隣で話すのは真正面で向かい合うより気楽だった。……意気地無しと思われているだろうか、と気にはなる。
ベッド脇の小さなテーブルには、いつも置いている水差しが退けられ、代わりにお茶が用意されている。隣に並ぶ山盛りの焼き菓子はエリオットが持ってきたものだ。
促しても遠慮されるのは予想がつくから、自ら先に手を伸ばす。
「こちらのお菓子は?」
「このまえ町で、試食にともらったんだ」
「こんなに取っておいてくださったんですか? ありがとうございます。いただきますね」
追随するように小さな手が、赤いジャムののった一口大のマドレーヌを持ち上げる。
試食をもらったのは本当だ。が、少しでも喜ばせたくてたくさんの種類を追加で買ってきた。エリオットは妻の好きな食べ物も知らない。
「一人で食べるほど甘党ではないしな」
このちょっとした茶会が楽しみなのに、当人を前にすると言葉にできないのがもどかしい。ろくに噛みもせず流し込む。もたらしてくれる安らぎに比べたら菓子の一つや二つ、どうということもないのに。
彼女はまるで小動物のように食事をする。口いっぱいに頬張って大層幸せそうな顔をする様子は、見ていて飽きない。
しかし、視線は悟られないよう気を付けなければならなかった。でないと今みたいに、目が合った途端にびくりと俯いてしまうのだから。
「その……もしかして、俺の髪が気になるか?」
「へ?」
「ずっと見ているようだったから。この間もそんなことを言っていたし」
褒められたことを覚えているから、二人で会う時はできる限り髪は結わずにいた。いくら周囲に貴公子だなんだと言われようとも、気に入った相手によく見られたいのは彼も同じだ。
「いえっ、あの……!」
彼女は下を向いたまま、もじもじと手をいじっている。
「お外と違うご様子なのが嬉しくて。領主様でないエリオット様の姿を、この時間だけは見られますから」
――君は俺をどうしたいんだ?!
エリオットは浮かれそうになる心を必死で抑える。何にでも好意的な反応をするのは、契約にしてはいささか尽くしすぎだろうと思う。
「君もここに来た時と比べたら随分と……あ、いや」
「ふふ。メリルが丁寧に梳いてくれるおかげですね」
反動で口が滑った。サロンではこんな失態などしようもないのに、彼女を前にするとうまく振る舞えない。
「俺が言いたかったのはそういうことでは、なくて」
手を伸ばし、やわらかな髪の先に触れる。きちんと手入れをすればこんなにも美しいのに。
そっと先を持ち上げると横顔が顕になる。彼女は……耳の先まで真っ赤だった。それに気を取られ、不意に指先が頬にあたってしまい慌てて引っ込める。
「す、すまん」
「いえっ、大丈夫、です……!」
彼女の生い立ちを思えばもっと慎重になるべきだというのに、焦りすぎている自覚はあった。髪だけでなく、最近の彼女は妙に洒落気が出てきたと思う。エリオットでもわかるほどの変化だ、一体誰のためかと、考えてしまう度に落ち着かない心地になる。
いたたまれない沈黙が続く。また堪えかねて口火を切ったのはエリオットだった。
「前々から聞きたいことがあった。答えたくなければ無理をしなくていい」
ぱちぱちと目を瞬くルーチェ。そう無垢な顔をされてしまっては、これからの問いは気が重い。
「君は……ローレンス家に帰りたくないのか?」
彼女は何かを言おうとし、エリオットの目を見た途端にふるりと睫毛を震わせ俯いた。
「……もうお気付きかとは思いますが、仰る通りです。母が生きていた頃は、わたしもセシリア領を守るためにこの身を捧げるのだと思っていましたが」
自嘲するような語尾は過去形だ。きっとここから話が好転することはないのだろう。
――嬉しい、と思ってしまうなんて。最低なことだとわかっているのに。
「どうしてこんな目に遭わなければいけないのかと考えたこともあります」
「……」
「で、でも! そのおかげでエリオット様にお会いできたのなら、我慢した甲斐がありましたねっ」
「……火傷の炎症というのは」
一つ一つ、確かめるように言葉を選ぶ。慕う相手が別にいるのだとしても、この場で声をかけられるのはエリオットの特権だ。
「軽傷であるほど痛むものだ。逆に、損傷が大きく深いほど痛みは鈍くなる。ゆっくりでいいんだ。少なくとも俺の前で、無理に笑う必要はないよ」
「エリオット様……」
レネシュに連れて来られた時も心細かっただろう。どれほど悲壮な覚悟を秘めていただろう。
そんな時も彼女は想い人に頼ったのか、祈ったのか。
焦がれているという騎士。彼女の気持ちを優先すべきだと頭ではわかっているのに、なんとなくおもしろくなかった。
「わたし、浅ましいんです」
膝の上で小さな両手が握りしめられる。薬指には……何も着けていない。
「お役に立ちたいのは本当です。でも……使えないと思われたら追い出されるんじゃないかと、それが嫌で」
使える、使えないという話ではないだろうに。優しい少女が愛情を受け取るのに引け目を感じるようになっていることが、そのように扱ってきた彼女の父親がゆるせなかった。
「あのクズ子爵め……」
「え?」
「あっ」
つい声に出してしまい、顔に血が上る。意外にも彼女はたのしそうに笑った。
「ふふっ、エリオット様もそんな言葉遣いをされるんですね」
「ああいや、肉親のことを悪く言うものではないが」
「気にしませんよ。自分のために憤ってくださるだけで嬉しく思います」
自己嫌悪にため息が出た。下手にも程があるだろう! もっと理知的に、格好をつけたいのに。焦れば焦るほどどうしようもない面が露呈する。
「ただでさえ他人の……武器を握り、魔獣を狩るような人間の言うことだ。今も不快ではないだろうか? 俺みたいな、でかい男と二人きりでは」
ひどく緊張しながら、悟られないよう何気ない問いかけを装う。勢いよく首を振られてほっとしたのは確かだった。
「こうして隣にいると不思議と安心するのです。触れられることも、その……い、嫌では、ありませんし……」
望んだ以上の返答にいよいよエリオットはおかしくなりそうだった。次第に小さくなっていく声を聞きつつ、唇を噛み締めどうにか顔に力を込める。
あとは怯えられていなければ完璧なのだが。目が合うことは稀な上、何より彼女はいつまで経っても指輪を着けてくれなかった。
それに、と化粧台の傍の床に視線を移す。置いてある紙袋は有名な宝飾品店のものだ。アーサーがよく奥方への贈り物を買っている。あまり女性の部屋をじろじろ見るものではないが、気付いてしまったものは仕方がない。
当然ながら、仕入れの一覧にはなかった。町で手ずから買わなければ、あのような袋は手に入らない。
エリオットはぐるぐると考えてしまう。――誰にもらったんだ? ロディか? あいつは気が利くからな。いや待て。逆に、誰かに渡すためという可能性もある……!
「エリオット様? どうかされましたか?」
「い、いや」
妻としての名だけでいいという約束なのだから、彼女が誰と親しくなろうと勝手なはずだ。狼狽えるべきではない。
だが、もはやエリオットの頭の中は「誰に?」という疑問でいっぱいだった。使用人の誰かか? 町で出会いでもあったのか? それとも……例の騎士か?
一言、訊けばいいだけだ。だが、些細なことを気にする男と思われたくはないし、契約を持ちかけておきながら干渉するのは公平ではない。
首を傾げる姿もかわいいが、それはそれである。エリオットは己を呪いたい気分で頭を抱えるしかなかった。




