明日はお休みにしましょう
「明日はお休みにしましょう」
「ふむ、誰がだ?」
「エリオット様に決まっています」
ルーチェに告げられ、エリオットは納品書を整理していた手を思わず止めた。阿呆な面を晒していることに気付き、慌てて口を閉じる。
どうして急に、という疑問は差し出されたビラによって即座に解消した。金獅子座の公演案内だ。モランが主演の代役を務めるという話は、ルーチェに聞いて知っていた。
「ぜひ観に行ってきてください」
まず心を占めたのは安堵だった。妻だけでなく、アーサーとメリルに、騎士団の隊長格までもが揃って部屋に押し掛けてきたのだから。何か盛大な過ちを犯したかと……彼女が実家に帰るなどと言い出さないかと、さすがに腹の奥がぎゅっと緊張していたのがわかる。
心苦しさを覚えながら、彼は慎重に否定の言葉を選ぶ。
「残念だが明日は無理だ。農地毎の税の計算がまだ」
「終わりました」
「……は?」
「昨日の夜、終わらせました」
「終わらせた? あの量を?」
メリルが帳簿をさっと開いて机上に載せる。
「証拠ならこちらに」
エリオットは唖然とした。本当に全ての処理が終わっている。女主人も領主と同等の権限を持つから、法的におかしなところは一つもないが。
「だ、だとしたらなおさら俺だけが休むわけには」
「まさか、奥様のお心遣いを無駄にされるおつもりですか?」
よよよ、と侍女は泣く真似まで始める始末。少しは表情筋を動かす努力をしてほしい。ついでに隣のアーサーもねめつける。彼はもはや口元が明らかに笑っていた。
「しかし……そうだ、会議が」
「予定は全てずらしました。問題ありません」
「なに?」
間髪入れずにアーサーが口を挟む。思わず声が引っくり返った。
「領主様にお休みをとお伝えしたら、皆さん揃って大賛成でした。快く協力してくださいましたよ」
「各農場からの報告会は? 西部の堤防の修繕状況と、あと魔石工房との会議、他領からの移住者受け入れの件も――」
「全て別日です。ああ、書面で済むものはそれで報告するよう伝えています。明日の予定は白紙になりました」
「急にそんな」
「残念ですが暇人というわけですねぇ」
諦めろと目線が語っている。
「だが、それなら砦に詰めていたほうが」
このところ、小さな魔物が頻繁に現れると報告がある。山の一画が崩れたか何かで住処がなくなったのかもしれない。丁度いい、調査に行くべきと思っていたところだ。
「我々はそんなに頼りないですか?」
しかし思惑は打ち砕かれた。普段は仕事に口を出さない騎士達までもが、大袈裟に嘆いてみせるのだ。
「そういうわけではなくてだな、緊急事態に気付けなかったら」
「何もレネシュを出てくださいと言っているわけではないんですから」
もっともな話である。いや、とか、うむ、とか、意味のない言葉をモゴモゴと手探りする。
ルーチェはほんのりと苦笑した。
「半日です。たった半日だけ」
不安を口にすればことごとく論破される。エリオットにも途中から屁理屈じみてきた自覚はあったので、手札が尽きてしまった後はもう、しかめ面をして黙るしかなかった。
「本当ならゆっくりお休みになっていただきたいのですけど、きっと、何かをなさっていないと落ち着かないでしょう? せっかくのいいお天気のようじゃありませんか」
居並ぶ面々の顔を見渡し、とうとうため息で応じた。
いざとなったら城へはすぐ戻ることができる。昼間に少し外出するくらいなら、と自らに言い聞かせる。
「ね? いってらっしゃい」
……妻に笑顔でもう一押しされ、不覚にもどきりとしてしまったのは内緒だ。
◆
いつもと同じ時間に起きれば、まずはアーサーに呆れられ、こっそり向かうことすら予見されていたかのように、書類をしまっている棚の前には使用人が立ちはだかっていた。
どうにも落ち着かずに城内をうろうろしていたら、行く先々では侍女に手伝いを断られ、ついに出くわしたルーチェとメリルに追い出されてしまった。
というわけで彼は、町に出てきたわけだが。
時間もあるし、市場を覗いてみるのも悪くはないと考える。このまえ改修工事をした孤児院へも行けていなかったのを思い出す。
……しかし、告げ口をされたら面倒だ。
物陰に隠れた姿に一瞬だけ視線を向ける。騎士がついてきているのにはすぐに気付いた。別に一人でも――と腰元に触れようとした手が空振る。そういえば剣も取り上げられたのだった。確かに、ただの観劇には不要だろう。
何度目かわからないため息が出た。どうあっても、休まなければならないらしい。
開演には少し早いが劇場へ向かう。観劇は随分と久しぶりだった。そもそも、仕事以外の用事で城の外へはほとんど出ない。
通りを行くだけなら意外と気付かれないものだ。ルーチェも言っていた通り、良い天気の中を歩くのは心が和む。
ふと、廃棄済みの樽が積まれた一画が目に入る。子供が遊び場にしては危ないかもしれない。片付けるよう手配しなければ……
「……いかんいかん」
つい、仕事のことを考えてしまう。
ふるふると首を振ったところで、通行人の会話が耳に入ってきた。
「聞いたか? 今日は急きょモラン・ベルが出演するらしいぞ!」
「ええっ? そうと知っていたら予定を空けたのになぁ」
緊張が高まり、別に自分が舞台に立つわけでもないのに妙にそわそわしてしまう。ああ、やはり帰ってしまおうか?
迷いも虚しく、すぐに見えてくる立派な劇場。ゆっくり歩くのは苦手だった。
万が一にも混乱させないよう、少し待ってからギリギリの時間に入場した。座席は大半が埋まっていたが、後方の長椅子の端に空きを見つけ腰かける。
隣席の男女が何やら囁き合っているのには気付かないふりをして、手渡された案内を読みながら開演を待つ。目が滑って、まるで頭に入ってこなかった。
「あの、領主様?」
座席の整理をしていた若い劇団員が、傍らに跪き小声で話しかけてきた。エリオットが視線を向ければ、そばかすだらけの顔が途端に輝く。
「わあ、やっぱり! ご来場ありがとうございます。あちらに来賓用のお席がありますが、移られますか?」
「ありがとう。もし迷惑でなければどうかこのままで」
「迷惑だなんて! あ、モラン先輩をお呼びしましょうか?!」
「いや! それは、いい。忙しいだろう」
慌てて否定すると彼はほんの少し残念そうにした。
「あー……できれば私が来ていることは黙っておいてくれないか?」
「まあ、領主様がそう仰るなら。もし不便がありましたら何なりと」
ほっと嘆息を一つ。今さらどんな顔をして会えばいいというのか。
程なくして、暗幕が閉じられ、舞台を照らすためのランプが灯る。
――成功してくれ。どうか怪我のないように。
息苦しくなるほどの祈りは、彼女が出てきた瞬間に不要だったと理解した。『女優モラン・ベル』は、誰よりも楽しそうに舞台上で輝いていた。まるで生まれた時からその役だったかのように、歌も踊りも堂々と披露していく。
ランヴィール家に引き取られたことが彼女にとって幸せだったのか、エリオットにはずっと引っ掛かっていた。
昔、淑女としての教育は、口にこそ出さないが辛そうにしていたのを思い出す。たくさんのフリルや淡い色づかいのドレスを嫌い、兄と同じような、体の線に沿った地味な服ばかりを好んだ。運動が得意でなかったくせに、無理をして騎士団の訓練についてこようとした時もあった。
でも舞台でなら。彼女は何だってなりたいものになれる。
なんだ、何もかもお節介だったらしい。劇自体はそんな場面でもないのに、エリオットは自然と微笑んでいた。
妹は、ちゃんと居場所を見つけていたのだ。
◆
重厚な物語のはずが、終わってしまえばあっという間。退席していく観客達は口々に興奮を語り合っている。きっと友人と感想を言い合うのも楽しかろう。
静かな息を吐いて立ち上がる。言葉にできない感情で胸がいっぱいで、整理するためにも歩いて帰ろうかと感動を噛み締めていた、その時だ。
「兄さんッ!」
「あっ、こら! 待ちなさいモラン!」
煌びやかなマントの裾を翻し、足音高く駆けてくる主演の姿に、興奮醒めやらぬ様子の客達も次々に道を譲った。
他の役者の制止も振り切り、彼女は飛びつくようにエリオットに抱きつく。化粧が、と口に出そうか迷ったが、それより先に目元はぐずぐずに崩れていたらしい。
「なんっ、なんで……! 舞台からでもすぐにわかった! 来るなら来るって言ってよ……っ」
唇を震わせ、見上げる。
「ど、どうだった? 楽しかった?!」
「うん。とても」
本心から頷けば、潤んだ瞳から不安げな影が晴れていく。
「来てよかった。気の利いたことは言えないが……本当に、ずっと頑張ってきたんだな」
「兄さんのせいで、お客さんに恥ずかしいとこ見られちゃうじゃん……!」
「ああ」
「ていうか、遅いんだよっ」
額を押し付け、胸を殴る。当人としては必死だろうが、残念ながら全く痛くない。
「モラン。この前は無神経なことを言ってすまなかったな」
先ほどまであんなに悠然と役を演じていたのに、顔も声も、よく知るモラン・ランヴィールそのままだ。小さく笑って、しゃくりあげている頭をそっと撫でた。
「俺はおまえのことも誇らしく思ってる。それはどうか信じてほしい」
「ん……その、なんていうか」
「うん」
「ボクこそ、わがまま言ってごめん。それから、えっと……あのね?」
「うん」
「来てくれて、ありがと」
「……うん」
身を離し、ぐしぐしと顔を拭っていた彼女がいつもの笑顔を見せてくれる。
安心したのも束の間――ぐっとエリオットの肩に手をのせて、背伸びを。
「な」
「でも、兄さんのことは諦めないよ?」
周囲が大きくどよめいた、というか悲鳴と何人か倒れる音がした。彼は女優の悪戯っぽい笑みを前に、唇を押さえて固まるしかない。
「なぁに? キスぐらい、兄さんは初めてでもないんでしょ?」
「それはそう……いやそういう問題じゃ! ないだろ!」
「あはは! やっぱりおもしろいなー」
「おまえ、お願いだから本当に自覚を持ってくれ……?!」
頭が痛いしついでに周りの視線も痛い。領民には身内と知れているにしても、エリオットこそ気絶してしまいたいのだった。




