どうせ兄さんは
「先に帰ってらしたんですね。あの、今日はすごく質の良い水晶が出ていて――」
いつも控えめな彼女が、街での発見に頬を上気させる様子はこういう時でなければ見られない。
そんな楽しみもお預けだ。エリオットは思わず緩みそうになった表情を引き締めるため、またしかめ面を作らなければならなかった。
「え」
口を閉じるのを忘れてしまった様子で、ルーチェは彼と客人とを交互に見比べている。別人かのように、モランがふわりと優雅に腰を折った。
「はじめまして、お嬢さん? ランヴィール家の次男です」
「長女な」
「もう、兄さんは黙ってて!」
モランは誰に対しても物怖じしない。幼い頃から自分の存在が愛されるのを疑ったことがないようだった。神は気安さだとか器用さといったものを全て、妹に与えてしまったに違いないとエリオットは考えている。
「あー、ええと。どこから説明しようか――」
「えっ……? えっ?! ベル様?! あの男装の麗人モラン・ベル様?!」
珍しく言葉を遮り、前のめりに問う。
「なっなんで」
「うーん? そりゃ実家だからねー」
「ランヴィール家の、って……おふたりはご兄妹だったんですか?!」
「ん、まあ」
「義理の、ね」
レネシュでは周知の話だが、外から来た彼女が驚くのは無理もない。気を悪くしないかという心配はどうにも無用だったらしい。
「どどっ、どうして教えてくださらなかったのですか!」
「いや……」
悲鳴を上げられ頬を掻く。やはり、このまえ話したほうが良かったようだ。
「あああのっ、わたしはセシリアの出なのですけど、あんなに田舎でもモラン様のお話はよく聞いていて! ずっと前になりますが、船乗りとの恋を題材にした演目がすっごく大好きで……!」
「ああ! あれはボクも演じてて楽しかったよ。憶えてくれてる人がいたなんて嬉しいなあ」
「もちろんです! 特に」
「『僕の帰りを待たなくていい。だけど僕は、永遠に君を愛するだろう』……って台詞?」
「あわわわわッ?!」
ルーチェは言葉にならない何事かを発し、そのまま座り込んでしまった。モランはクスクスと笑っている。
まるで青年かのように艶やかに台詞を紡ぎ、次の瞬間には悪戯っぽい少女の顔。天才の評は伊達ではない。本当に、恐れ入る。エリオットは無意識に詰めていた息を吐く。
「モラン、あまりからかうんじゃない。せっかくだ、夕食は共にしよう」
食事中もモランは実によく喋った。ルーチェが表情をころころ変えて反応するから殊更に気を良くしたのかもしれない。
その光景はエリオットにとってあまり面白くはなかったが、大人げないと自らに言い聞かせ、普段と遜色ない振る舞いを示すことには成功した、つもりだ。
食後のワインを口にしている最中。ルーチェが席を外した隙に、モランはニヤニヤと、グラスを持ったまま人差し指だけを向ける。
「妬いてた?」
「うるさい」
助けを求めようにも、メリル達は気を遣って出ている。
「行儀が悪いぞ」
「相変わらずお堅いなあ。さっすがレネシュ随一の貴公子様!」
「おまえが軽薄すぎるんだ」
「柔軟と言ってよ」
返答の代わりに酒を流し込む。既に目元を赤らめている兄を一瞥し、モランは小さな手を伸ばしてボトルを鷲掴むと、自らのグラスになみなみとおかわりを注ぐ。
「兄さん、すごくカッコイイのに勿体ない。そこらの役者にも負けないと思うんだけど」
「そんなことを言われてもな。事実、俺は役者ではないし」
「演技は下手そうだよねえ。嘘をつくのに向いてないっていうか」
「褒めたいのか貶したいのかどっちだ」
「えへへー」
また口をついて出そうになった小言をエリオットはどうにか我慢する。
「そうだ、うちの歌姫サマもお近づきになりたいって言ってたよ。とーっても美人なの! どう? 紹介してあげよっか?」
「遠慮する」
「ええー?」
頭痛がしてきたのは酒のせいではあるまい。
席を立てば、モランがきょとんとした顔で見上げてくる。逆さまのボトルから最後の一滴が垂れた。
「どこ行くの?」
「仕事が残ってるんだ。おまえもほどほどにして休んだほうが」
「待って待って、一緒に寝よ?」
声はかけてくるが、立ち上がってまでは引き留めない。エリオットはげんなりしながら振り返った。
「部屋を物置にしたのは悪かった。客間を使えと言っただろ」
「せっかく帰ってきたのに? もう父さんも母さんもいないんだから、さ、少しくらい甘えさせてよ」
このあとに続くやり取りを想像し、時間と天秤にかける。彼は何度目かわからないため息を吐いた。
「仕方ない。今夜だけだぞ」
「今日だけ? 優しい兄さんからもう一声!」
「……今日と明日!」
「やったー!」
自棄になって部屋を出ようとしたところで、戻ってきたルーチェとぶつかりそうになる。
「じゃあ先にお風呂に入っちゃうね。ルーチェちゃん、行こ!」
「え、え?」
「流しあいっこしよー!」
あっという間にルーチェの手を取り、脇をすり抜けていく。時機をのがしたエリオットは、テーブルに残された空っぽのグラスを、嘆息しながら厨房へと運ぶしかない。
◆
仕事を終えて自室に戻り、エリオットは驚いた。モランがベッドの上で膝を抱えて座っていたからだ。
「まだ起きてたのか」
「とーぜん。良妻でしょ?」
「誰の妻だって?」
金髪は濡れていっそう鮮やかだし、寝巻き姿で座り込む様は愛らしい。役者モランを慕う者達からすれば、夢のような光景だろう。
「俺もおまえもいい大人なんだ」
「ボクは望んで大人になったわけじゃないもんねー」
「ああもう。わかった、わかった」
手を振れば彼女は小さな歓声をあげ、ベッドにごろんと転がった。
灯りを消し、端に潜り込む。
「こっち向いて?」
「別に、暗くて何も見えないだろ」
小さな熱が身動ぎする。
「こうしたいだけ」
胸にすり寄るのを、戸惑いながらも軽く撫でてやる。……たまには甘えさせてやるのも兄の役目だ。
「ねえ兄さん」
「ん」
「好きだよ」
「それはどうも」
「ひどい、もっと喜んでくれてもいーじゃん。モラン・ベル様の告白だよ?」
「はいはい、そうだな」
あたたかな熱は心地がよかった。どこか落ち着かない気持ちを抱えながら、目蓋は重たくなっていく。
「ね」
「うん?」
「兄さんのこと、男のひととして好きって言ったら……どうする?」
暗闇に慣れてきた目に、挑戦的な上目遣いが映る。
エリオットはぱちぱちと瞬き、知らずに微笑む。
「またいつもの冗談か?」
「……うん、そう。冗談だよ」
胸元に湿った息がかかる。いつの間にかモランは抱きつく格好。
それとなく端に逃げようとするが、背にまわった両腕に力がこもるばかり。エリオットはやんわりと妹の肩を押す。
「モラン、あまり」
「ほんとにさ、ルーチェちゃんと結婚するの?」
「もうしてる」
「そうじゃなくって! ……好きなの?」
「……」
素晴らしい妻だと思う。だがそれは優秀な働き手を見つけた時と似たような感覚で、さらに言えば、彼女が本当に愛する相手との仲を邪魔したくはなかった。
「じゃあさ。今日ボクに会って、かわいいと思わなかった?」
微睡みながら思い出す。ああ、モランは確かに冗談ばかり口にしたが、家族に対して『演技』をしたことはなかった――
「お化粧も持ってる中でいちばんいい粉を使った。唇に塗る紅だって、男の人に人気だっていうのを新しく買ったんだ。何日も前からどきどきしながら準備して、会えるんだって嬉しくって」
鎖骨に唇が押し付けられる。すっかり覚醒し固まっていると、今度は首もとにすり寄ってくる。
「おい、いい加減に」
「昔さ、兄さんが弾くチェンバロが好きだった。あとね、作ってくれるお菓子も好きだった。あのレモンケーキすっごくおいしかったな。なんだって出来る兄さんは憧れで、大好きで」
「モラン」
「どうして、みんなやめちゃったの?」
すっかり大人びた匂いに頭の芯が痺れる。気がおかしくなりそうだった。
「俺はただ、領主として」
「兄さんの人生は兄さんのものでしょう?」
昔が恋しいのは同じだ。それでも民のために身を捧げなければならないと確信していた。それが領主の、父親から受け継いだ責務なのだ。
「ボク、たくさん稼げるようになったんだよ? 兄さんと並んでも恥ずかしくないようにがんばってきたの」
「……」
「ねえ。どこか遠くの街で一緒に暮らそうよ。領主のお仕事は騎士の誰かに任せてさ」
小さな体が震えている。その勇気が愛おしくて、だが、受け取るわけにはいかなかった。途中で投げ出すことなど、誰よりも彼自身が許せない。
「それは……できない」
「ボクが家を出ちゃったから?」
「違う。おまえには才能がある」
そんなことは近くにいた彼がいちばん分かっている。本当は城に残らなければと葛藤していたのも知っているし、そのために夢を諦めようとしていたことも。
「言っただろう、家のことは任せておけと。……父さんと母さんがいなくても、大丈夫だと」
少女が帰る場所を守るためにも、彼は優れた領主でなければならなかった。
「俺はランヴィールの血に誇りを持っているから」
だから決しておまえのせいじゃない……そう、伝えたかったのに。
「……うん。ボクは、外の子だもんね」
「っ、そうじゃ、」
「約束、したのに」
慌てて否定したがもう遅い。彼女が最も気にしている急所を、最も確実な方法で抉ってしまった。
「どうせ兄さんはボクの舞台を観たことがないでしょ!」
「モラン、話を」
「おやすみ……っ」
ぐるりと背を向け丸まってしまう。
次の夜、モランがエリオットの部屋に来ることはなかった。




