あの方は早死にします
二頭立ての四輪馬車は、近辺を走るものよりも頑強な造りだ。果たしてこれが普通なのか、領地の外にほとんど出たことがないルーチェには判断がつかない。
仕立ての良い執事服を身につけた痩身の男性が、柔らかに微笑みかける。一目見て、ローレンス家とは格が違うと理解できた。『影』は……ほとんど見えないくらいに薄い。
「ルーチェ・ローレンス様ですか?」
「は、はい」
「領主エリオット様の命により、お迎えに上がりました」
エリオット。冷たく乱暴者だと噂の……夫となる人物。
伴もなければ見送りもない。荷物の異様な少なさにも、もう気付かれているだろう。俯くとお下がりの靴が目に入る。昨夜遅くまで懸命に汚れの痕を落とそうとしたもの。
きっと一生に一度だけなのに。
恥ずかしくて情けなくて、目元に熱が集まってくる。どうしようもできずに突っ立っている少女の両手を、不意に温かなものが包んだ。
「大丈夫です」
目線を合わせるように屈み、手を握る。その眼差しはいっそ家族よりも優しかった。
「大丈夫。他ならぬ貴女をお迎えに来たのですよ」
義姉ではない。気味が悪く厄介者だとされていた自分を。
瞬きしたら涙が零れてしまいそうだった。頷くと、彼は満足げに笑みを深くしパッと手を放した。
「おっと。どうか無礼をお許しくださいませね?」
「いえ……あ、あの! ありがとう、ございます」
「私のクビを懸けた甲斐があります。くれぐれも坊っ……旦那様にはご内密に」
唇に指を立てる仕草にどうにか笑う。やはり領主様は厳格な方なのかもしれない。なんだか久し振りに笑った気がして、ルーチェはこっそりと両頬を揉んだ。
迎えにきた彼はアーサーと名乗る。若く見えるのに執事長らしい。きっととても優秀なのだろう。
「配慮が足りず申し訳ありません。誰か、侍女を連れてくるべきでしたね」
馬車に乗ってからもあれこれと気遣う彼の言葉に、ルーチェは小さく首を振った。狭い箱に二人きりとなっている状況を、わざわざ気にしてくれるだけで嬉しかった。
「こちらこそ何も用意していなくて……それにこんな身なりで、本当にごめんなさい」
「とんでもない。急なお願いをしているのはこちらの側ですから」
最後の日くらい、せめて髪に香油でも使わせてもらえたら良かったのに。
唯一まともなのは服だろうか。アンヌが大切に保管してくれていた母の形見。型が古いのは気にしていられない。他の服はみんな油や煤で汚れてしまっていた。
「レネシュへいらしたことはありますか?」
緊張を解そうとしてか、アーサーは積極的に話しかけてくる。
「いいえ、今回が初めてです。で、でもお話には聞いたことがあります。レネシュ領はその堅固さから、まるで一つの小国のようですらあると」
「恐縮です」
国の北側には大きな山脈があり、人を襲う魔物が棲む。これから向かうレネシュ領はその山々に面した要の地だ。
そもそも辺境伯という家は、その兵力のために王家ですら気を遣う立場。そんなところに嫁ぐとなれば……
「わたし、戦えないのですけど、大丈夫でしょうか?」
「戦う、とは?」
「きっと魔物が襲ってきた時に何もできないので……あっ、でも囮くらいならなんとか――」
「まさか! そんなことはさせられませんよ」
恐る恐る上目で見れば、アーサーは大慌てで両手を振る。
ルーチェは今度こそ胸を撫で下ろした。ついに父親はそういう手段に出たかと思ったのだ。痩せた腕では剣を持ち上げることすらできやしないのに。
「魔物は街まで下りてくることは滅多にありません。それに砦には騎士も常駐させていますから、どうかご安心を」
「騎士様?!」
腰を浮かしかける。てっきり、王都に行かなければ会えないものと思っていた。
「あっ、えと、失礼しました……。その、騎士団をお持ちなのですね?」
「ええ、旦那様が団長を兼任しておられます。うちの騎士団は武勇において、王都の騎士にも負けないと思いますよ」
ルーチェの態度を気にする素振りもなく、誇らしげに微笑む。
どうやら領主様は騎士でもあるらしい。貴族といえば商人である父やその友人しか知らないから、あまり想像がつかなかった。もしも熊のような大男だったら……少しびっくりしてしまうかも?
小鳥の騎士様のことを思う。あんな風に明るくて優しい人物だったなら。わずかながら希望が膨らむ。
そろそろレネシュ領だと教えてもらったのは、身の上話も終えてしまった頃合い。父や義姉の詳しい話はしなかった。もちろん『影』が見える力についても。
どうしても窓の外が気になりちらちらと視線を向けるルーチェを、アーサーは「どうぞお構いなく」と笑って促す。礼を述べてカーテンを更に持ち上げ、賑やかな街並みに少女は目をまるくした。
「大きな町……!」
セシリア領では考えられない広い道に、たくさんの人と明るい色彩。北の厳しい土地という言葉で想像した景色からはかけ離れている。
「向こうの、神殿のような建物は何ですか?」
「あれは劇場です。他の領から歌手を招いたりすることもあるんですよ」
「とても立派……いいですね、演劇」
「お好きですか?」
「はい、母が生きていた頃はよく」
「そうでしたか。旦那様も昔はよく劇場に通われていたので、ご趣味が合うかもしれませんね」
人物像がまたわからなくなる。女性を殴るほど冷酷で、騎士団長で、厳しくて、観劇が好き?
「あの。不勉強で申し訳ないのですが、領主様はどのような方なのでしょうか?」
「うーん。一言で申し上げるなら、非常に真面目な御方です。仕事熱心が過ぎるといいますか」
旅立つ前にアンヌが色々と教えてくれたのを思い出す。
アーサーも若く見えるが、かの辺境伯もかなり若いうちに立場を継いだとか。レネシュ領が今のように力を持つに至ったのはここ数年のことで、その辣腕ぶりは他領にも聞こえるほど。
一方で……義姉の言っていたような噂があるのも事実なのだが。
「ああそうだ。それで早速、残念なお話をお伝えしなければならないのは気が引けるのですが」
「残念なお話?」
「このままだと多分、あの方は早死にします」
「……なんですって?」
アーサーの表情は至って真面目だ。それどころかあっけらかんと肩をすくめる始末。
「どうかこれが、あなたにとっての良い報せでないことを祈りますが」
冗談にしてはあまりに不敬だ。少女が戸惑いながら言葉を探しているうちに、いつの間にか馬車は停まっていた。
◆
城に着いたルーチェを案内したのは、冷たい雰囲気の若い侍女。人形めいた顔立ちのせいでどこか近寄りがたい。丈の長いスカートにも皺ひとつ無かった。
「ここからは彼女が」
アーサーの紹介に侍女は無言のまま一礼する。『影』が見えなかったことに、またしてもルーチェは密かに嘆息した。
一人だけというのも珍しい。外から見た城は、ローレンス家とは比べ物にならないくらい大きかったのに。
しんと静まり返った灰色の廊下を進めば、慣れない靴を履いたルーチェの足音だけが響く。
裏口のような、妙に質素な扉を何度か経る。着いたのはこじんまりとした、それでもこれまで見たことがないほど立派な応接間。
急な明るさと絨毯の鮮やかさに何度か瞬きをした。猫脚のテーブルを挟み、ソファーはきちんと一組分が置かれている。
「旦那様はもうすぐ到着されます。こちらでお待ちください」
淡々と表情も変えずに言われ、アーサーと話して膨らんでいた心が萎んでいく。領主がどんな人物かはわからないが、今のルーチェの身なりでは、外見からして釣り合わないとわかるはずだ。邪険にされても納得がいく。
侍女は壁際で背筋を伸ばしたまま微動だにしない。ルーチェがやたらとふかふかな座面に体を預けきることもできず、ひたすらに手を握りしめていると、何の前触れもなく部屋の扉が開いた。
「待たせて申し訳ない」
大人びた低い声とともに、足早に入室してきた銀髪の青年。
――この御方が?
思わず固まる。背もたれがなければひっくり返っていたかもしれない。
だって……こんなに濃い『影』を持ちながら生きている人、初めて見た!