おやすみ
嫁いでからひもじい思いはしていないというのに、ルーチェの休息は変わらず安眠とは言いがたい。
捨てられたらどうしよう? いつもベッドに入る度にぐるぐると考えてしまう。
役に立たなければという焦り。空回りしているかもしれない、取り返さなくては……
大きな音を立てる心臓を、抱くようにして身を丸めること暫し。
「……眠れない」
泣きそうになりながら身を起こす。
ローレンス家に居た頃、こんな晩は諦めてホットミルクを飲んでいた。誰にも気付かれないよう小さな明かりを灯した台所の一画で、獣や虫の声に耳をすましていると不思議と落ち着いたものだ。
ガウンを羽織り、念のために燭台も手にして、そっと廊下に顔を出してみる。夜番の使用人達もいるはずだが、静寂が耳に痛い。だが暗い道は怖くとも、生きた人間の方が恐ろしいことは充分に知っている。
当然、厨房は無人だった。自らランプをつける。
牛乳と蜂蜜を探してごそごそとやっていたら突然、背後から大きな声が聞こえた。
「何をしている!」
思わず飛び上がる。慌てて振り向くと、なんと入り口にいたのはエリオットだ。しかも、ピザ生地を延ばす用の大きな麺棒を片手に。
ルーチェと目が合うや彼は思いきり眉根を寄せ、深い息を吐き出す。
「君か……てっきり賊か何かかと」
「も、申し訳ありません」
体を熱くする少女に構わず、いや、と何事かを呟いたのち、麺棒を視線から隠すようにする。
「構わない。ここは君の家だ」
会議に向かう時のような上着も、タイやスカーフもない簡素な服装。襟元から見える素肌にあの裸を思い出しそうになり、ルーチェは慌てて頭を振り思考を払った。
「どうした?」
「いえ邪念が」
「邪念」
「なっなんでも!」
痛いくらいに鼓動する胸を押さえる。
二人きりだ。メリルもアーサーもいない。
「まだ起きていらしたんですか?」
「君こそどうしたんだ? 一人か? こんな夜中に」
疑問には疑問が返る。エリオットは未だ警戒する素振りを見せながら、厨房内に視線を走らせた。机の上に準備したカップにも気付いたらしい。
「その、眠れなくて、温かい飲み物でもと……」
「それだけか?」
「それだけですっ」
ナイフのような念押しに何度も頷く。まさか彼と会うとは思ってもみなかったのだから、万が一にも何かを仕込むはずがない。
「エ、エリオット様は? まさか今までお仕事を?」
「まあ。寝付けないから少し夜風にあたるため出てきただけだ」
「そんな薄着で?! 逆に目が冴えてしまいます。体を暖めた方がよく眠れるかと」
「そう……だろうか?」
勢いで口をついた言葉だったが、意外なことに機嫌は損ねられなかった。顎に当てた手は無骨で傷痕も多く、まさしく騎士のもの。初めて、手袋をしていないところを見た。
いつもルーチェを気遣ってくれる青年は、自分自身については無頓着らしい。
ええいままよと思いきってカップを指差した。声が裏返ったのも仕方がないだろう。
「よろしければ、ご一緒にいかがです?!」
◆
またもや予想に反して頷いた領主様は、なんと準備すら手伝う気のようだ。おろおろと見守るしかないルーチェを放り、蜂蜜の瓶を棚からひょいと取って渡してくる。
「探していたのはこれか?」
あれだけ高い位置にあったなら、ひとりでは絶対に見つけられなかっただろう。お礼を述べるより早く、彼はさっさと牛乳の入った壺を持ち上げにかかっている。
受け取る時に触れてしまった固い指先。開いた掌にもはっきりと肉刺が見え、思わずルーチェは声をかけた。
「あ……その、剣ダコというのでしょうか? すごいですね」
今まで触れたことのない感触。瞠目したエリオットが動きを止めるまで、ルーチェはあの噂のことをすっかり忘れていた。
「こ、これは……!」
彼はさっと手を背中に隠し、珍しく視線を泳がせ口ごもる。
「その、違うというか」
「ちがう?」
「……」
「……」
「……っ、すまない、きれいな手でなくて」
今度はルーチェが驚く番だ。
「ど、どうして謝るのですか? 働き者の手だと……男らしくて大きいなとは、思いますけど」
「……怖くないのか?」
「何が、でしょう?」
「何が、って……私が騎士団の所属なのは知っているんだろう?」
「もちろんです。それがどうかしましたか?」
彼が困惑する理由がまったくわからなかった。傷がないことがきれいだと言うのなら、ルーチェの手だって大概だ。
「あっ。蜂蜜はお嫌いではないですか?」
「……ああ。我が家でも、入れていたから」
我が家、という言葉にルーチェは内心で首を傾げた。そういえば彼の両親はどこに? 紹介の機会もなかったからこれまで気にしなかった。早くに隠居というのも珍しくはないが。
それきり会話は続かない。初対面の時に捲し立てるように話されたのが嘘のようだ。どうか気まずさが紛れればと、少しだけ雑に音を立てて鍋を火にかける。焚き付けに使う綿は、雲のようなウサギの魔物から採取したものだと、ラジーが教えてくれた。
警戒が解けないのか、エリオットは座ろうとしない。腕組みして立つ彼の視線を背中で感じながら、ルーチェは鍋の中身へと必死に集中した。小さな鍋で牛乳を温め、蜂蜜をひとまわし。アンヌに習った通り、ブクブクと煮立てないのがコツだ。
細かい泡が弾けてきたら、頃合いを見て二つ分のカップに注ぐ。
「そうだ、匙があった方が良いですね。確かこの下に……」
かき混ぜるためのティースプーンを探すべく、下の棚に潜り込んだのだが。
「こちらを――あ痛ッ!」
「お、おい」
頭をぶつけ、目の前に火花が散る。エリオットは近寄ろうとした姿勢のまま固まっていた。
「大丈夫か? すごい音が」
「へ、平気です、すみません……。こちらをどうぞ?」
「え、ああ」
涙目で見上げどうにか笑顔をつくると、エリオットは狼狽えたように目を逸らした。またしても失敗してしまった。
肩を落としながらも彼と間をあけて並んで座り、カップに口をつける。ちょっと熱くしすぎたかもしれないが、それだけ長く一緒にいられるなら悪いことばかりでもないだろう。
頭は……まだ少し痛んだ。
「……先日の、あれは」
ルーチェが挽回の機会を窺っていると、小さな水面に向けて語るようにエリオットが口を開く。
「よく考えられていた。淡雪石は安いし、寒冷地への遠征に使えるかもしれない」
あれ、というのが夜食だと気付き思わず笑みがこぼれた。
「召し上がってくださったのですね」
「た、食べ物を粗末にするわけにはいかない」
ごほん、と咳払いをする。もう手を隠す様子はなかった。
「厳しい行軍中にあたたかいものを食べられたら、きっと皆も嬉しいだろう」
「持ち歩く時間が長くなると、適温を保ち続けるのは難しそうですが」
「食事の直前に石を濡らせば問題ない。先に温めてしまうと恐らく腐敗も進むだろうし。すぐ効果が出るように石は細かく砕けば、その方が携帯性も良くなるから……」
ぶつぶつと思考に沈みかけたのは一瞬、はっとしたように口をつぐむ。
「あ……申し訳ない。つまらない話を」
「いえ。皆様のお役に立てるなら、少しはここへ来た意味がありますから」
謝罪が欲しいわけではない。胸の苦しさは見ないふりをして精一杯の淑女らしさをと笑む。
ルーチェが黙っていると、またしても話題を振ったのはエリオットの側だった。
「この前フェリシア……侍女に、医者へ行くよう勧めたそうだな」
「あ……」
ロディと話していた時のことだ。そういえばあれから姿は見ていない。
硬い声音に否が応でも緊張した。故郷での奇異の眼差しを思い出して――
「君は彼女の命の恩人だ」
ため息を吐かれ、瞬く。
「幸い、知人に良い医者を紹介してもらえたらしい。病を早期に発見できたと。静養が必要だというから、すぐに田舎へ帰した」
やっと理解が追い付いた。と、いうことは……
「彼女は無事なのですね……?」
「ああ。代わって礼を言う」
「良かった……!」
カップをぎゅっと両手で包んだまま俯く。こんな場面に笑顔なんて不謹慎かもしれない。ああでも!
誤魔化すように牛乳を一口飲んだ。もうすっかりぬるくなったせいか、甘さが口の中に残る。
ちらと隣を盗み見ると彼はとうに飲み終えていたらしい。手持ち無沙汰にカップをもてあそぶ様子は、せっかちな領主様にしては珍しかった。
モヤモヤとした『影』越しの横顔。整った目鼻立ち、長い睫毛。首筋には無造作に結った銀髪の残りが垂れる。きれいな人だとつくづく思う。もっとくっきり見えたなら。
「もし、の話だが」
「はっ、はい!」
ふっと葡萄色の視線が向き、ルーチェは受け止めきれずに慌てて目を逸らした。
「レネシュを出ていきたくなったらいつでも言ってほしい。こちらは自由と貴重な時間を奪っている立場だ。絶対に咎めたりしないと誓う」
「……わかり、ました」
出ていってほしい、ということだろうか? 気に障ることをしてしまったか、それともやはり……気持ち悪いと思われたか。
本来は辛く感じる資格もないのに。
彼は立ち上がると流し台にカップを置く。
「早く休むといい。食器は朝になったら片付けてくれるだろう」
「すぐなのでこちらで洗ってしまいます」
「君は侍女ではないんだぞ?」
呆れ顔で振り返ったかと思うと柳眉をひそめる。
「まあ、任せるが。厨房での決まりごとについては君のほうが詳しいしな」
何も言えずにいると、沈黙に耐えかねたかのように早口な言葉が続いた。
「その、さっきは大きな声を出してすまなかった。……おやすみ」
「は――はいっ、おやすみなさい!」
逃げるように出ていく背中をずっと目で追った。
「おやすみを言ってくださった……?!」
たんこぶを作った甲斐がある。少しだけ心の距離が近づいた気がするのは、さすがに自惚れかもしれないが。




