たった一掬いに
「仕事を増やしてすみません、とのことです」
アーサーに告げられ、エリオットはいささか不貞腐れたような気分になった。書面を捲る手を早める。
「仕事というほどのことじゃない」
「置いておいてくだされば、侍女達が朝に回収しますよ」
指しているのは夜食の皿のこと。いつも手ずからさげていると知った、ルーチェからの伝言だという。
たったそれだけの言葉を直接伝えにこないほどだ。廊下で話しかけてみても体を強張らせているし、既に嫌われているに違いなかった。だが苛立つのも身勝手なことは理解している。
「あ、一枚飛ばしました」
目ざとい指摘に反射で舌打ちが出る。
「お行儀の悪い。奥様に怖がられますよ?」
「……うるさいな」
廊下に視線を走らせてしまう。まだ起きてくる時間でないことは知っているのに。
「大体、おまえもおまえだ。どうして彼女を勝手に部屋へ入れた」
「どうしてと言われましても」
「安全管理という言葉を知ってるか?」
「ええ充分に」
「その腹の立つ笑顔をやめろ」
普通、主人の寝室に無断で他人を出入りさせるだろうか。いや、他人、ではないのだが……ともかく! 肉親ですら遠慮するものではないのか?
「あれだけ監視させておきながらまだ警戒されますか?」
「良からぬことを企むかもしれない」
「嫌うための理由を探してどうするんです」
呆れ声へ、反論が思い付くはずもない。何度だって隙はあったはずだ。毒味をしているといっても運ぶのが彼女自身なのだから、いくらでもエリオットを害する機会はある。そんなのは初めからわかっている。
「ああ、もし奥様がしょんぼりと引き返されて! 旦那様のためにご用意されたお食事が他の騎士達の胃袋に入った方が良いのであれば! 今後は私も、無理にお部屋に入るようには申し上げませんけど」
「……そうは言ってないだろ」
金目のものや宝石、辺境伯夫人という立場に惹かれる相手はわかりやすかった。
しかし彼女は違う。黙っていれば金と地位が手に入るのに、しなくても良いことを懸命にする。何か裏があると疑うのは当然だった。
「おまえも、なぜ彼女をそこまで信用する」
「そこはまあ、勘、と申し上げておきます。少なくとも旦那様よりは当たりますでしょう」
「この……!」
「身なりが派手でなく、大人しそうで、異性の影がない。ご命令通りの女性を探しましたが?」
「異性の影がない? 嘘をつけ。既に慕う相手がいると言っていたぞ」
「ふむ。……ま、気にしなくていいのでは?」
素知らぬ顔だ。エリオットが子供の頃から知る相手では、いくら凄んでも無意味である。行き場のない感情はため息となった。
「彼女は心に決めた相手がいると言ったんだ。レネシュのために無関係な人間が不幸になっていいはずがない」
「気になるのなら直接お訊きすればよろしいのでは?」
「そんな機会があるか」
「お部屋へいらした時にお話ししてみたら良いじゃありませんか」
「おまえやメリルもたまに来るだろう」
「……まさかとは思いますけど、我々に向けるのと同じようなご対応を?」
「いちいち誰が訪ねて来たかなんて気にしていられない」
「ばッ……!」
「ば?」
アーサーが抱えた頭を振る。
「それは本当に良くありませんよ……」
「向こうが俺と話したがっているとは思えない。あんなに緊張して」
ロディや他の騎士と楽しげに会話しているのは何度か目撃している。何となくおもしろくない気分にさせられ、そんな気持ち自体にも戸惑うのだ。
「旦那様のことをお嫌いなら、お部屋にも足は運ばれないはずでは?」
「…………確かに」
「だからきっと――」
「ではなぜ避けられるんだ? 説明がつかない」
彼にしてみれば麦芽の収量予測のほうがまだ容易い。
アーサーが筆舌しがたい呻き声をあげる。
「俺の言葉に固くなっているのをおまえも見ただろ? 二人きりで話した時はもっと酷かったぞ、目を合わせようともしない」
「いえ、それは恐らく……」
「なんだ。言いたいことがあるなら聞く」
「はあ……もういいです。ご自分で考えてください」
腑に落ちないながらも、窓の外をちらと見る。昼の郵便に間に合うだろうか? 侍女達から布地の調達要望が上がっていたはず。
薬湯をぐいと流し込んだところで、「ああそれに」とアーサーがすっとぼけた声を発した。
「いずれは跡継ぎの問題も出てきますよ? 夜の営みだって、そう先延ばしにはしていられないはずです」
「ゲッホ! ゴホッ!」
素早くハンカチを差し出されるのもまた腹立たしい。口元を拭い、涙を滲ませたまま睨み付ける。
「仕事中に、なんて話をする……!」
「旦那様が仕事をなさっていない時を教えてくださいませ」
「屁理屈をこねるんじゃない。夜の、その……っ、そういうことは! 彼女とはしない!」
「やり方がわからないとか?」
「馬鹿にするなッ」
「冗談ですよ冗談。はい座って、次はこちらに署名をお願いします」
思い切り舌打ちをし、なんとか腰を落ち着ける。噛みつくのも馬鹿馬鹿しいとはいえ、エリオットにも矜持というものはあった。
「真面目な話、お若いうちはいいとしても、この先どうされるおつもりです? まあ最後の手段ですが、モラン様にお任せになるというのも……」
「それこそあり得ない。どれだけの人間を敵にまわすことになるか」
「そうですね、ええ、そうかもしれませんが」
「ふん、跡継ぎだよな。いざとなればお前の息子がいるだろう」
ランヴィール家は血筋を重んじるわけでもない。勝手を知る者なら誰でも良い。
珍しくぎょっとする執事の姿に、エリオットも少しだけ溜飲が下がる。
「ご冗談を! まだ四つになったばかりですよ?」
「俺なんて陛下から六歳の孫を娶れと言われていたんだぞ?!」
ばさりと書類を放り出す。既に署名は済んだ。
机上に広がった紙束を丁寧にまとめつつ、執事は哀れみを滲ませた眼差しを向ける。
「ああ……メイ姫様ですか」
メイ姫は国王陛下の孫娘にあたる。父親が旧友だったお陰もありエリオットは国王とそれなりに近しく、王宮へ訪れたついでにたまに面倒を見ることもあったのだが。ここ数年、背伸びしたい年頃の少女は『エリオットお兄様』と結婚するのだと言って憚らない。
最大の問題は、王が孫を溺愛しており凄まじく甘いことだ。
「随分と懐かれているらしいですもんね。良かったんじゃありません?」
「馬鹿を言え、王族に名を連ねるなんて絶対に御免だ」
「坊っちゃんは繊細でいらっしゃいますからねえ。王宮なんて絶対に向いてませんよね」
「おまえの図太さが羨ましくはあるな。あと坊っちゃんはやめろ」
「結婚を急がれていたのって、もしかして姫様のことが理由です?」
眉間に皺を寄せる主人に、アーサーも肩をすくめる。
「なるほど」
「それだけじゃ、ないが。どちらにせよ、今回のことが姫様の耳に入ればまた宥めにいかねばならん」
過去も二度とも、彼が『断りもなく』結婚したことに対し、メイ姫は大いに機嫌を損ねた。端からすれば微笑ましい話だろうが、相手が一国の姫ともなれば、当人にとっては厄介極まりない。
「思い切り突き放してみたらどうですか? 怖いお兄さんだと分かれば近寄って来ないでしょう」
「子供相手にそんな真似できるはずがないだろ」
「御自身のためでも?」
「俺のためでしかないから、だ」
「まさしくそういうところが貴族向きではないですよねえ」
「どういう意味だ?」
怪訝な顔のエリオットに、アーサーはどこか満足げに微笑む。
「そのままの意味ですよ。パーティーやサロンでの姿しか知らないご令嬢達には、ぴんと来ないでしょうけどね。……さ、そろそろ次の会議のお時間です。ご支度を」
◆
完全に予定が狂ったことに苛立ちながら、エリオットはひとり足早に書庫へと向かっていた。辺りはとっくに暗くなっており、城の中も眠りに就く用意を始めている。
魔石の新たな取引先との交渉が長引いてしまったのだ。値下げをと食い下がってくるのを蔑ろにもできず、最終的にはやや強引に脅すことで決着したが。
よりにもよって今日は週末。出納に関する処理をしなければならない。余計な時間を食った分、休んでいる暇はなかった。
帳簿を棚から抜き取り、乱暴に腰を落ち着ける。頁を捲りながら愛用するペンを取り出し……
「ん?」
今週分は、いや、この頁で合っている。
これから書かねばならないはずの数字が、なぜか埋まっていた。
「誰の仕業だ……?」
思わず呟いたが、その筆跡には見覚えがある。確かに、彼女がこの帳簿を熱心に読んでいたのも見かけた。
すっきりとしない心地を抱えながらも、計算が合っているかを確かめる作業に移る。二、三を見たところで、恐らく全て正確に記されているのだろうとは思ったが。
自室に戻ると更に驚いたことに、いつもの食事までもが用意してあった。添えられたカードには、まさしく先ほどの帳簿と同じ筆跡が連ねられている。
本当に妖精か何かのようだ。姿は見えずとも、温かい食事が待っているのは心が和らぐ。
と同時にわずかな痛みを自覚した。つまり彼女は、顔を合わせることすら嫌なのだろう。
夜食は、鯖と香草を炊き込んだ粥だった。魚の皮には焼き目がつけてあり、小骨まで丁寧に取り除かれている。
費やしたであろう時間を思った。このたった一掬いに、どれだけの手間と思いやりが込められているか。
何か礼をしたかった。こちらも手紙を書いたらどうかと、思い立って紙とペンを手にとる。
だが、何を書けばいいのだろう。そもそも、
「俺なんかの手紙で喜ぶか……?」
雇い主が急に踏み込んだ話をしてきたら戸惑うかもしれない。それに、侍女やアーサーが出入りする時に見られてしまってはたまらない。
宛名だけを書いた紙を前にため息を吐く。くしゃりと捨て、もらった手紙はそっと折り畳み直す。
これまで料理に添えてあった手紙は箱にまとめて保管していた。捨てるのも忍びなく思い、やめ時を失ったまま今に至る。
机の中には小さな箱がもう一つ。中身は……指輪だ。
なぜか今回に限って用意するようアーサーが進言してきたのだ。「これが最後と覚悟を決めるおつもりで」などと言われれば、積極的に断る理由もない。
正直、渡せる気など到底しなかった。窓から投げ捨てて無かったことにしてしまいたいと、いったい何度考えただろう。
彼女は心に想う騎士がいると最初に言った。いずれその相手と結ばれたいのだろうと思っているのに、出ていきたいかと問えばそうではなさそうだ。
若い彼女が普通の結婚を諦めるには早い。馬鹿げた契約に尽くす必要はないのに。
小さな金属の輪のせいで、エリオットは部屋へ戻る度に憂鬱な気分になった。ぐるぐると考えてしまってちっとも休まらない。
何ということもないただの装身具だ。仮に出ていく時に売れば多少の金にもなるだろう。
そうは思ったが……彼女がレネシュを去る想像をすると、ほんの僅かながら不安な心地になるのも事実なのだった。




