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ルーチェ・ローレンスには死相が見える

 少女が燭台を手に息をひそめて台所へ向かうと、乳母のアンヌがパン粥を用意していた。屋根裏部屋に運んでくれる予定だったのだろう。


「ああルーチェ様、おいたわしい……!」

「大丈夫、大丈夫よ、アンヌ。いつもありがとう」


 まともに食べずに働けば、お腹が空くのは当然だった。日々の家事ですっかり傷だらけになった手で、泣き崩れる老婆の背をそっと撫でる。


「食べ終えたら、今日もお裁縫を教えてくれる?」


 もしもこの先、家を出られたらきっと役立つはず。そう言い聞かせて堪える日々は既に長い。

 屋根裏暮らしの子爵令嬢だなんて、憧れの『騎士様』にだけは絶対に知られたくなかった。たとえ、彼は笑わないと確信していても。



「また夜中に貧乏臭い餌を食べていたの? ああ嫌だ、臭いがうつっちゃう!」


 朝食の席で義姉に言われ、ルーチェは曖昧に笑うに留める。急いで詰め込んだつもりだったが、使用人の誰かに見られたらしい。


「階段の手摺が汚れていたのだけど。ちゃんと掃除してるの? それしか能がないんだから」

「すみません。もう一度磨いておきます」

「喋らないでよ汚いったら! んもう、料理に灰が入っちゃった。これは下げてちょうだい」

「申し訳ありません」


 しずしずと腰を折る。

 ルーチェ・ローレンスは今年で十六歳。いつか婿をとってこのセシリア領を継ぐのだとずっと信じてきた。よく夫を支え、家族と慎ましい暮らしを守るのだと。周囲に呆れられようとも、化粧やドレスを選ぶより、語学や数字の勉強は楽しかった。

 今となっては家事までできるようになってしまったが。


 婿入りをした父は、聡明な母のことは元から少し疎ましかったのかもしれない。母が亡くなって以降、ルーチェが同じように帳簿の誤記を直すと、いつも機嫌を損ねた。

 だから今はそれも隠れてやっている。思い出が詰まった故郷が、父や義母の勝手で荒れるのは見過ごせない。


 派手な女性と、その連れ子。彼女らが来てからルーチェの居場所がなくなったのはすぐのこと。

 使用人達もクビになるのを恐れてか積極的に助けはしない。唯一、乳母のアンヌだけが世話を黙認されていた。大した爵位でなくとも、娘が死んだらさすがに世間体というものがあるのか。


「なに? 言いたいことがあるなら言いなさいよ」

「いっ、いえ」

「フン! また気色悪い『占い崩れ』でも考えてたんじゃないでしょうね?!」


 ギロリと睨まれ肩をすくめる。『それ』は、ルーチェがどうにかできることではないのに。密かに義姉の背後へと視線を移せば、黒いモヤモヤとした『影』が浮かんでいた。


 ルーチェ・ローレンスには死相が見える。

 厳密には、死の近い人物に『影』が見える。


 最初に気付いたのは母が亡くなった時。それから次は、仲の良かった本屋の老店主が旅立った時。

 大抵は目を凝らす必要があるほどぼんやりしたもので、生活にそれほど支障はない。ごく稀にとても『影』が濃い人もいて、どうやら濃淡と危険度は対応しているらしい。そして、自分のものはどれだけ願っても見えなかった。


「あんたが死神令嬢だなんて言われてるせいで、この間のお見合いも破談になったんだからね。いい加減にしてよ!」

「申し訳、ありません」


 投げつけられたナプキンを拾う。何度目かわからない八つ当たりだった。


 できることなら、過去に戻って自分に忠告をしてやりたい。この力のことを明かしたのは人生最大の失敗といっていい。

 悪意を知らない愚かな少女は、純粋な善意から義姉に助言をした、つもりだった。

 しかし返ってきたのは奇異と恐怖の眼差し。そうして彼女には不吉な評判がまとわりつき、元から少なかった友人も、この暮らしのせいでほとんど居なくなった。


 食べていけるような才能でもない。見える、というだけで何もできない。

 だから、もうお節介は封印した。アンヌを除けば、そうまでして助けたい相手もいないのだ。


「こらこら、食事の席であまり騒ぐんじゃない」

「お父様!」


 猫なで声に唇を噛む。とはいえ、ルーチェは久しくその人物を父と呼んではいないが。


 いちいち怒ったり泣いたりしたら、余計にお腹が空いてしまう。使用人のように扱われ、尽くしても見返りはない日々。

 それでも耐えられたのは、たったひとりの憧れの『騎士様』が心を支えてくれたから。毎日毎日、辛いことがある度に自分を奮い立たせた。いつか彼と再会することを夢見て。

 そのためにもまずは絶対に家を出ていく! ――と思っていたら、その日は意外と早く訪れたのだった。


「喜びなさいルーチェ。良い報せだ! お前に縁談を持ってきた」

「ひどいわお父様! なんでこいつに?!」

「まあそう焦るな」


 久しぶりに名前を呼ばれ、一瞬は自分のことだと理解できなかった。

 驚きはしたが、心配しなくても羨む要素なんてないに決まっている。相手はどこの没落貴族か行き遅れの老人か。どのみち断る選択肢もない。


「信じられない良縁だぞ。相手はなんと北方レネシュ領の辺境伯、ランヴィール卿だ」

「まあっ!」


 途端に義姉は機嫌を直したらしい。

 レネシュといえば国内でも有数の領地。ローレンス家のような無名貴族に声がかかること自体が不自然だ。


「あの冷酷で乱暴と噂のランヴィール卿ですってぇ? 女性にも平気で手を出すとか。もう何度も離婚を経験されていると聞くわ」

「そんな……!」

「まったく笑わない御方で、いつも魔物の血にまみれてるんですって。ああそれと、フフ、役立たずが大層お嫌いだそうよ」


 ルーチェは眉間に力が入るのを我慢できなかった。

 でも、と考え直す。尊厳を踏みにじられながら他人と暮らすのと、厳しくとも自由な生活と、どちらがまし?

 天秤はすぐに傾く。会ってみないとわからないし……逆に言えば、役に立てたら認めてもらえるかもしれない。たとえほんの髪の毛の先くらいでも、可能性があるのなら。


「ま、見捨てられて帰ってきても、あんたの居場所はないけどね」


 クスクスと笑う姿をそっと視界から外す。仮に追い出されたとしても、もうここに戻る気などなかった。

 どうせ令嬢の肩書きなんて領地を出れば役には立たないのだ。ルーチェは諦めて思案する。もし追い出されたら、そう……せめて家政婦として、どこかで雇ってもらえたりしないだろうか?



 少女には、小さな頃から生きる支えとなっている英雄がいる。


 彼との出会いは幼い頃、飼っていた小鳥が死んでしまった日のこと。もちろん当時は母も存命で、今のような目にあうとは夢にも思っていなかった。

 友達は鳥が家族だなんて変だと言うし、両親にも心配をかけたくなくて、庭でひとりで泣いていた。

 頭が痛くなるくらい泣き続け、やがて日が暮れてきた時分。その少年は不意に現れたのだ。


「どうしたの? どこか痛いの?」


 近所では見かけない。少し年上のようで、幼心にわかるくらいのきれいな身なりに驚いた記憶がある。

 驚き固まる少女に、彼は物怖じせずに微笑んだ。


「こんにちはお嬢さん。お家は? あそこの子?」

「……」

「座ってもいい?」


 どうにか頷くと、少年は頓着なく地面に座る。そして何を話すでもなく、隣で草をちぎっては投げし始めた。

 喋らないと退屈させてしまう、と耐えられずに口を開いたのはルーチェの側だ。


「……あのね、ララが」

「ん?」

「ララがね、しんじゃったの。とっても仲良しだったのに」

「……それはお友達?」

「家族よ。小鳥さん」

「そっか」


 彼には初対面なのになんとなく心をゆるしてしまう、妙に大人びた雰囲気があった。妹がいると後で言っていたから、そのせいかもしれない。「お兄ちゃんなの?」と訊ねれば、とても照れ臭そうにしていた。


「君は本当にララのことが好きだったんだ」

「うん」


 彼はズボンを探り、一粒のキャンディを差し出した。


「これあげる。元気を出して」

「あ、ありがとう……?」

「立派な騎士は女の子に優しくするものだからね」


 絵本によく出てきた騎士という単語に、少女は泣いていたことも忘れて目を瞪った。


「騎士? 騎士さまなの?」

「そうだよ。まだまだ見習いだけど」

「すごいわっ! ドラゴンとか、見たことある?」

「ううん。でも父さんは見たって言ってた。大きくてイオウの匂いがするって」

「いおう?」

「温泉の匂いだよ」

「温泉って、大きなお風呂?」

「そう。見たことない? ――はい、これもあげるね」


 そして、忘れられない一番の贈り物。

 いま思い出しても胸がきゅっとなる。彼は、その辺りの葉っぱで器用にも小鳥を作ってくれたのだった。


「どう? 尻尾をね、くるんってやるとかわいくなるんだよ」


 一枚の葉からできた小さな鳥。ゆるくしごかれた尾も、ララに少し似ていた気がする。


「ララちゃんはお空に昇ったんだ。近くにいなくても君のことを見守ってる」

「いつも、ララとおはなししてたの」

「じゃあ、寂しくなったら心の中で僕に話しかけて? 君が笑えるようになるまで、この子と僕が一緒にいてあげる。だから、大丈夫。ね?」

「……うん」

「君は優しくて強い子だよ。大丈夫」


 頭を撫でた小さな手。そのあたたかさを忘れた日はない。


「暗くならないうちにお家に帰ったほうがいい。お父さんとお母さんが心配する」

「うん。……あの、ありがとう」

「どういたしまして。じゃあ……またね?」


 遠くから誰かが呼ぶ声がして、彼は立ち上がり尻の土を払った。何と呼ばれていたかもおぼろげだ。名前が無理でも、せめて顔を思い出せたら良かったのに。



 後日、葉っぱの鳥が枯れた時にもう一度大泣きしたものだが、あの少年が心の支えであることは変わらなかった。

 たとえ見習いの子供でも、少女にとってはひとりの素敵な騎士。心の中で『小鳥の騎士様』と呼び憧れていることは、とうとう母親にも内緒だった。


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