プロキシマ・ケンタウリ動乱
反応貰えると狂ったように喜びます。
ピー、ピー、ピー……。
メリッサ・フリーデベルクは連続した電子音によって深い眠りの奥底から引き上げられた。静寂を割って破る起床アラームは、主人の機嫌も汲むことなく怒ったように音を立て続ける。
「ん……ぅ」
小さな嗚咽と共に彼女は身を捩った。閉鎖された、宇宙クルーザー船室特有の暗闇が目に映る。
「…照明、つけて」
半分も開いてないであろう眼を擦りながら、メリッサが人気のない船室に向けて言い放つと、眩しいくらいの白色光が満ちる。
彼女は自らの寝台のロックを外し、壁を蹴った。メリッサは重力を感じさせないような動きで宙を滑る───いや、実際ここには地に足を付けられるような重力は無かった。
彼女の移動を検知した人工知能はディスプレイに船外の景色を投影する。一面が紺の混じった黒だった。
画面いっぱいに疎らにトッピングされたミルク色の星々はまるで絵画のようで、宇宙というものの広大さと茫漠さが何たるかを示す。
半世紀前なら誰もが息を呑む光景。
しかし彼女は見向きもせずに部屋の反対側へ辿り着いた。手を付き、ふわり、と感覚に従って速度を落とす。
無重力でも問題なく動作する洗面台が起動し、鏡の下部に『おはようございます』という旨の文と時間が表示された。
───『地球時間:2091/6/12/23:01:43』
音も立てず、ただ一秒を刻み続ける青い光を横目に、彼女は電動歯磨きと蒸しタオルに手を伸ばした。
この間にも全身は慣れない無重力の檻に苛まれ、全ての感覚がどこか遠い場所にある。メリッサは少し、それが苦手だった。
まるで自分はここにいるのではなく、映画館か何かの椅子で投影された現実を見ているような、そんな感覚。
どっちにしろ人類にはまだ神秘の宇宙は早く、現実味のないそれを堪能しろとの脳からのメッセージだろう。
彼女の既読を認識したであろうディスプレイは、瞬く間に文字を切替える。
『地球時間0時にクォンタム・スキップ航法を行います。所定時間10分前には耐圧室へお越しください』
きっ、とキツく碧色の目を細めたのは眠気からではないだろう。
人類とその被造物が地球から離れ遙か数光年。技術的な発展を遂げて、太陽系の隣の星系、プロキシマ・ケンタウリ系に入植を初めてから40年が過ぎた。
無論殆どの歴史的快挙は23年前に産まれたメリッサには関係がなかったけれど、それでも人類史を学べば自ずと現状が見えてくるし、人類の進歩は素晴らしいと思っている。
メリッサは温かなタオルを陶器のような白い肌に滑らせる。心地の良い一時に身を任せるも、彼女の瞳は以前『クォンタム・スキップ』に向けられていた。
概形として、量子エンジンによる加速によって本来何百年とかかる距離を、文字通りスキップする技術である。
実際この民間客船クルーザーにも搭載されていて、僅か1月程で4光年強の距離にあるプロキシマ・ケンタウリ系に到達する。勿論それはやはり、素晴らしいことであるのだが。
「………どうにかできないものなのかな」
彼女はこれもまた苦手であった。確実に押し寄せる不快な思いにささやかなイラつきを覚え、クローゼットへ向けてまた壁を蹴った。
彼女がシャツを取りだし袖を丁度通した頃、再び軽やかな電子音がピッ、と来客を告げるメッセージを告げる。確認しなくても、こんな時間に自分を尋ねてくるのは彼しかいない。
「開けて」
間髪入れずに空気の抜ける開閉音と共に、影が室内に滑り込んでくる。少し日に焼けたアジア系の男は、静かに便宜上の床に足をつけた。無重力下での上下感覚も、これまたメリッサには慣れないものである。
「おはよう、メリッサ。良く眠れたか?」
「おはようユウヒ。心地はそれなりよ、そっちはどう?」
彼女は背を向けながら身嗜みの最終を確認を済ませた。どこかビジネス的で対外的な印象を抱かせる服装ではあるが、双方スーツの着用が必要だった。
「全然。この独特な浮遊感が僕には合わないらしい」
ユウヒは肩をすくめて衣擦れの細やかな響きを船内に落とした。メリッサはクローゼットを閉める。
「そうね、地球生まれには酷く辛いわ」
「だがそれも今日で終わりだ。さ、食事を取って耐圧室へ行こう」
今日で航海日は最終段階を迎える。長くに渡る宇宙の遠足も終盤で、1時間後のクォンタム・スキップを済ませればプロキシマ・ケンタウリは目の前である。
「…これが本当に最後の量子航行よね?」
「嫌なのは分かるが割り切ろうお嬢様。我々は遊びに行くんじゃない」
おどけた彼の態度を遮る様に部屋のハッチが開き、彼女らは体を引っ張りあげて廊下に滑った。
メリッサにとって、このユウヒ・シノサキという男は掴みづらい人物だった。同僚としては最も信頼できるが、終始穏やかに見える瞳の奥では何を考えているか検討もつかない。
探っても出てくるのは親の会社や学歴の話だけ。彼とは年単位の付き合いがあるが、未だにはっきりとした趣味も聞いていない。
「どうだか。あなたは心底楽しんでるでしょう?」
彼は少しだけ口の端を歪めて笑った。いつもの調子でユウヒははぐらかすのだ。メリッサにとっては大変面白くない。
ふん、と息巻いて彼女はそれきり無言で船内を滑り続けた。途中、一面の仮想ディスプレイに船室と同じような宇宙の風景が映し出される。
こうも現実を投影されたって、興奮は最初の3日だけであったから、今となっては虚しさ以外を覚える事は無い。
ただ、ただ不意に彼女は目を向けた先で違和感を見つけた。見つけてしまった。
「……?」
音もなく淡々と虚空を投影し続ける画面に、一筋の光が瞬いた。
宇宙空間の突発的な閃光には幾つか種類がある。流星、小天体同士の大規模な衝突、隠れていた恒星の移動。
だが、彼女が捉えた物は、明らかに見知っていた知識のものとは違った。メリッサは大きく目を見開く。
「…これは」
同じく顔をずいとモニタに近づけたユウヒが深く真剣な声を上げた。メリッサは心臓がより一層に蠢き、背筋に嫌な汗が垂れるのを感じる。
「かなりまずいな」
どこかで何か、運命じみたものの崩壊を告げる鐘が鳴った気がした。