ポニーテールの幻影
部屋の隅っこに一昨日くらいに飲んだ野菜ジュースのパックが転がっている。コンビニ弁当ばかりの日々に、せめてものあがきとして時々飲む、野菜ジュース。パッケージはやけにカラフルで、うす暗い六畳間の部屋に似合わない。
僕はため息をついて緩慢にソファーから立ち上がる。明日が締め切りの課題を、まだしていない。都内の大学に通い始めて早2年。若いときの時間の流れは一瞬だというが、間違ってはいない。サークルも、バイトも、大学の授業も、全部中途半端な僕でさえ、気づいたら一日一日が飛ぶように過ぎていくように感じる。そして、それがやけに残酷だと思う。時間は平等に流れるとはよく言ったものだ。
何かを本格的にやろうと思っていないわけではない。せっかく渋る親を説得して田舎の町から上京してきたのだ。わざと時間を無駄にしようと思って無駄にしているわけではない。ただただ、毎日更新されるSNSをチェックして、適当にスマホゲームをして終わる一日の連続は、もう終わらせたい。
恋でもすれば、何かが変わるのかな。画面のついてないパソコンを目の前にして、ぼーっとそんなことを考える。無理なのは分かっているのに。たぶん、自分は今後一切恋愛というものにかかわらない人生を送るんだ。恋愛という、そんな浮かれたような言葉、さえないメガネのいかにも理系という見た目の僕には似合わない。
忘れられない人がいる。
中学三年生で初めて同じクラスになった、矢崎葵という名前の女子。
「あれ、山見和也君、去年同じ委員会だったよね、よろしく!」
第一印象は、あまりよくなかった。ほぼ初対面にもかかわらず、平気でフルネームで呼ぶような、そんな気の強い女子。リーダーシップとかいう言葉が安物のおもちゃのように感じていた思春期の僕にとって、矢崎のような女子は敬遠すべき存在だった。だけど、彼女は変につっぱねていてほかの女子から変人扱いされていた当時の僕にかまわず近づこうとした。
「どうせだし、今年もおんなじ委員会入ろうよ、ね?」
「いやだよ、もう去年で懲りた、生徒代表委員会なんて」
「もーそんなこと言わないの。どうせなんかやんなきゃダメなんだから。うちらたぶん、いいコンビになるよ。」
矢崎葵の言葉はあたっていた。彼女の押しに流されるがままに二人で始めた生徒代表委員は、わりとほかの委員会より仕事量が多く、クラスと生徒会の懸け橋となるようなことをこなしていた。クラス男女一人ずつ選ばれるため、必然的にその男女の距離は近くなる。僕たちは日々の業務の中で、少しずつ打ち解けていった。
ある秋の夕方だった。僕は矢崎と二人でクラスアンケートの集計をしていた。高校受験を控えているにも関わらず、相変わらず委員会は忙しくて、でも僕はその忙しさをむしろ心地よく感じている自分に気が付いていないふりをしていた。僕たち以外に誰もいない教室に、斜めから差し込むオレンジの光は、やけに柔らかい。遠くで響く吹奏楽の合奏の音色は、二人の間の静寂をむしろ際立たせていた。黙々と、紙をめくっていく矢崎葵の横顔を見ていると、なんだか今までの僕が知らない種類の感情が急に湧き上がってきて、妙に焦った。
「なあ、葵。」
「ん?」
彼女は手を止めて僕の方を見た。逆光でまぶしいのだろうか、いつもの凛とした視線が和らいでいる。きつく結んでいるポニーテールが、少し揺れている。
「何でもない。」
僕は慌ててそう言って、元の作業に戻ろうとした。心臓がバクバク言っているのはなぜだろう。その理由に気づかないふりをし続けているのはなぜだろう。受験生だから?
「あのさ、和也。私、和也と一緒にこの委員会はいれてよかったよ。ほかの男子じゃ頼りにならないし。」
「葵がしっかりしすぎてるからみんな気が抜けちゃうんだよ。」
僕がそういうと、葵はふっと息をついて、少しだけ笑った。
「好きでしっかりしてるわけじゃないよ。私だって、弱さを見せられる相手が欲しい。」
今思えば、それは矢崎葵なりの、感情の表現だったのかもしれない。だけど僕はそれに気づいてあげられずに、黙ってうなずくことしかできなかった。
季節は過ぎて、卒業式の日になった。僕らはそれぞれ別の高校に進むことが決まっていた。矢崎葵は県で一番の高校に合格した。彼女らしいな、と思った。そこの高校を受験したのはうちの中学からはたった一人だったが、誰も彼女がそこを受けるとは知らなかったのだ。一方僕は、市内の公立高校に進学を決めた。さすがに冬になると委員会活動もなくなって、矢崎葵と話す機会はどんどん減っていった。僕も彼女も受験勉強に必死だったのだ。いや、僕たちだけじゃなくて、周りのみんなも。卒業式を迎えた僕たちは、開放感に満たされていた。受験、厳しい校則、義務教育からの解放。
無事に卒業式を終えると、みんなは校庭に駆け出した。今日だけ許されて持ち込んだスマホで、みんな記念写真を撮るのだ。女子たちはキャーキャー言いながら半泣きでピースを繰り出す。その様子を僕は教室の窓から眺めていた。友達はいたが、みんな同じ高校に進む予定だったし、何より写真を撮るという行為にそれほどの価値を見出せなかったのだ。何度も言うが、その時の僕は変に突っぱねていたのだと思う。寒い冬が過ぎて、暖かい春の光に包まれたみんなは、幸せそうで、なんだか僕もうれしい気持ちになった。
扉が開く音がした。
振り返ったら、やっぱり、葵がいた。扉の開ける音で判別くらい距離が近くなっていたのか、と驚いて笑いそうになる。
「和也は、校庭に行かないの?」
首を傾ける葵。ポニーテールが、左側に揺れる。
「僕は、いいんだ。ここでみんなを見てる方が楽しいし。」
ふうん。彼女はそうかすかにほほ笑んだように見えた。
「葵は?どうして教室戻ってきたの。」
「ちょっと忘れ物しちゃって。別に、和也に会いに来たとかじゃないよ。」
「そんなの分かってるよ。」
葵はいたずらっ子のように笑って教室を出ていった。あれ、忘れ物を取りに来たんじゃないのか。彼女の手には何も握られていなかった。
なんだか、桜の花びらが舞い落ちる瞬間に出会った気持ちだった。今思えば、この時僕は、彼女を呼び止めるべきだったのかもしれない。だけど、そんなこと、思いつきもしなかった。それまで恋をしたことのなかった僕は、それが恋だとはっきりとした確証を得たわけじゃなかったのだ。
それに、もう違う高校に進む彼女に何かを言ったとして、それが何になる?
いや、きっと何かの意味をなしたのだ。大学生になって、少しだけ成長した今考えればわかる。僕は結局、彼女を簡単に忘れることができなくて、街角であの揺れるポニーテールを探していた。彼女の高校の制服の集団を見ると、なぜだかそわそわした。何回か、似た人を見かけて、だけどやっぱり人違いでがっかりする、そんなことを繰り返した。
高校で気になる人もできた。数回デートを重ねて、でも、いざ告白を決意しようとすると、あのポニーテールが脳裏に浮かんできて、なぜかとどまってしまうのだった。たとえ付き合ったとしても彼女以上に好きになることはできないと無意識に思っていたのかもしれない。
僕と矢崎葵の関係はただの中学校三年生の同級生。同じ委員会。連絡先を交換していなかったため卒業して以来、まったく連絡は取っていない。そして彼女のうわさも、入ってこない。なぜ忘れられないのだろう。特別かわいいというわけでもないし、何年もともに過ごした幼馴染というわけでもない。
僕はこのまま、あのポニーテールの幻影にとらわれたまま生きていくのだろうか。
部屋に転がった野菜ジュースのパック。薄暗い部屋に不似合いなほど、カラフルなパッケージ。まるで僕の人生に現れた矢崎葵という存在を象徴しているようだ。だけど、彼女は手軽にビタミンをとれることをうたう野菜ジュースのような安っぽいものではない。そんなものではない。
仕方なく大学の課題を始めようとパソコンの電源を入れる。その時、スマホの通知音が鳴った。なぜか僕はある予感がして、すぐにスマホを見た。
予感は当たっていた。矢崎葵に、インスタのアカウントをフォローされていた。もともと僕はインスタの自分で撮った写真を見せびらかす用途に懐疑的であったから、アカウントを作ったのは最近だった。どっちにしても、見る専門だし、フォロワー数も二桁で少なかった。
矢崎葵は、一つしか投稿していなかった。大学の入学式の写真。都内の、有名な高偏差値の私立大学。ああ、彼女らしいな、と思った。そして次に、少し恐ろしさを覚えた。この大学なら、彼女の家も近いだろうと考えてしまった自分にだ。そんなストーカーになったつもりはないのに。
入学式のは数枚あった。一枚目は、その大学の写真。二枚目は、友達と並んでいる写真。
矢崎葵は髪を茶色に染めてショートカットにしていた。
そりゃそうだよな、と思った。中学生の時の髪形をそのまま維持する人の方が少ないだろう。だけど僕はやけにショックを受けて、なんだかすべてを放りだしたい気分になった。変わってしまった彼女を受け入れることができないのか。そんなことはない。ただ、会わない四年間抱いてきた矢崎葵のイメージと、本物の矢崎葵が一致していないだけ。
僕はフォローを返したけど、DMをする気は湧かなくて、でもそれがなぜだかわからなくて、とにかく混乱していた。誓って言うが、別に未練があったとかではないのだ。さすがにまったく会わないし、連絡も取らない相手に対して抱く感情は恋愛的なものではなかった。忘れられない、ただそれだけ。いや、それだけなのか?やっぱり無意識のうちに恋愛感情を抱いたままだったのではないのだろうか?まさか、ポニーテールそのものに未練がある?そんなバカな。黒髪のポニーテールなんて、そこら中にいるのに。
矢崎葵はなぜ僕をフォローしたのだろう。そこに何か意味はあるのか。だけど、僕をフォローしたその瞬間は僕のことを脳裏に浮かべていたはずだ。その時何を思っていたのだろう。今、彼女はおそらくスマホを触っているだろう。「久しぶり、元気にしてた?」とメッセージを送ればすぐに目に入るだろう。
だけど僕は、彼女に何も送らない。
そんなメッセージを送ってしまえば、脳内にしか現れない思い出の姿が、現実味を帯びてしまうから。
ポニーテールの幻影にとらわれて生きていこう、これからも。そして、少々無理をしてでも、新しい恋を探すんだ。
そう決めてスマホを閉じた僕は永遠に気が付かなかった。「久しぶり、元気にしてた?都内にいるなら今度会おうよ、そして思い出話をしよう。このままじゃ私、次の恋に進めないから。」という彼女のすでに送信取消されたメッセージに。