火上忍・『trouble record』
地獄。
人間が死後に堕ちる世界を指す。
時に八大地獄などといった呼称で分割されたりもするのだが、しかし苦痛の方向性が異なったところで、大差などないと火上は考えていた。そして多分──そんなものが本当にあったとしてだが──普通に生きている人間の殆どは、終わればそこへ行き着くのであろうとも。
そう。
天国と地獄の二つに分岐していたとしても、決して比率は半々とは限らない。
むしろ百人いれば九十九人が、千人いれば九百九十九人が地獄へ行くのだとすら思ってしまう。
その方がなんとなく、世の中においてバランスが良いように思えてしまう。
「何ですか、それ……«地獄»ですって?」
駅から電車に乗り込み、一駅先の隣町で下車。
夜遅くだからか、駅構内の人通りは少ない──どころか、気づけば人ひとりさえ見えなかった。
悪逆は至って真面目な面持ちで話したけれど、残念ながら普通の世界に生きる普通の少年にはその真意は伝わらなかったらしい。
悪逆 果実は思ったよりも背が低かった。
というより、その風貌からして『子供』と呼ぶのが言い得て妙なくらいである。
それが火上忍の抱いた第一印象だった。どうやら«名もなき組織»の結成にも彼が少なからず関与しているようだし、なるほど、言動の突飛さ、荒唐無稽さで言えば如何にも子供らしさで片付けられる。
──────幼さゆえの『不条理』。
辻褄の合わなさ。
しかしこの«地獄»の件に関しては、明らかにそんなちゃちなものではなかった。
彼は本気だ。
「文字通り、意味通りさ……«自殺願望»を引き起こしたのは、この国のどこかに八人いる«地獄»そのものだ。イメージ的には擬人化と言うべきか──いや、絶対に人ではないが。」
人ならざるもの。
化物だとか、怪物だとか、妖怪だとか、鬼だとか、それを言い表す言葉はいくらでもあるけれど────しかしその全てが、人間とは絶対に相容れないもの。
言わば未知であり。
拒絶すべきもの。
「……そいつらが、«自殺願望»を?」
「そうさ。簡単に『死にたい』と言える世の中、簡単に『死ねる』世の中だ────要は言葉に付随して『命』の価値が著しく低下しているわけだよ。世間は憎悪の人殺しと逃避の自殺者に溢れていたりするだろう?」
それを聞いて、火上は言葉に詰まった──というのも、彼ら能力者は総じて並々ならぬ重荷を抱えて必死に生きる『死にたがり』そのものであるからだ。
当然、生半可な気持ちでもないし、面白半分で死にたがるわけでもない。
決して命を軽んじてはいない。
それを勝手に消されてしまっては困るのだ──言わば今の彼らは、か細く、しかし確かに燃え続ける蝋燭の灯火のようなもの。
その魂を消されては。
困るのである。
滑稽な話にも聞こえるが、しかしそうではない。
『生きたい』という渇望と、『死にたがり』の呪いは、表裏一体のようで実は異なる。
相反するようで共存する。
そのことを何よりも自覚しているのが、火上たちであった。
「でも待ってくださいよ。それが今回の事件とどう関係が?」
悪逆や不明里と目線を合わせることもなく、火上は問いかける。
ゆっくりと階段を昇り、地下から出ようとした。
「────待て、«蝋燭»ッ!」
少し離れた背後から、立ち止まった悪逆の声がした。
言われて彼は振り向く──が、結果からして、その行動は振り向くだけに留まらなかった。
数秒後には、火上忍は駆け出すことになる。
古びた蛍光灯が点滅し、使い物にならない電光掲示板が破片と化している。
そしてその背後に、何かがいた。
何か?
いや、何かってなんだ。
「異形だ……これは。」
火上忍は冷ややかにそれを見つめていた。
質量を持った黒い影のようなものが、大口を開けて悪逆と不明里を狙っているのだ。
「くそっ……こんな時に!」
こんな時に。
悪逆は不自然な物言いをした。
少なくとも、眼前で暴れ狂う化物の出現を予知していたかのような。
「証子さん、これはなんだ!?」
長い階段を駆け下りながら、大声で火上忍は叫ぶ。
「……«化物»よ。今は詳しく説明できない。早く言えば、私たちが今追っている«怨霊»と似ているもの──────っ!?」
平静を装うとする不明里を、化物は足で踏み潰そうとした。
ホームの広範囲が大きく罅割れる。
「くっ……話してる余裕もない。目の前に集中して!」
不明里は叫ぶ。
「今逃げるとこいつは地上に這い出てくる、今始末しねえとヤバいぜ────«蝋燭»、戦えッ!!」
悪逆は火上に叫ぶと、何も無い自身の掌から二本の小刀を取り出した。
これが武器屋としての彼の本分であり、能力である。
「行くぜ化物、ぶっ殺してやる────妖刀『篝火』ッ!」
「不本意だがやるしかないか────«蝋燭»ッ!」