火上忍・『迷わず進め 死にたがり』
「あー……泣いたらすっきりした」
いろんなものが吹っ切れたように不明里は呟いた。
「そうですか、それはよかったです」
火上忍は泣き明かした後の彼女から目を逸らすようにして頷く。
「うん……でもごめん。愚痴みたいなの聞かせちゃって」
「いえ、別に」
「…………なんか怒ってるの?」
端的な火上の返答を不思議に思ったのか、時々不明里は火上忍の顔を覗き込む。
端的というより短的。
淡々的である。
「離してくれませんかね」
火上忍は苛立ちよりも不安を込めて言った。
というのもベッドに寝転がっている彼の体に、不明里が背面から抱きついていた。それはもう、幼い子供が買ってもらったばかりのおもちゃを抱きしめるが如く。
「なんで?いいじゃん…友だちなんだから。」
不明里の態度の急変は、しかしその言葉で片付けるには有り余るものがあった。
鋭敏な冷たさを放つ、所謂クールビューティーといった雰囲気の女性だった頃の記憶が早くも思い出せなくなってきていることに、やはり火上は若干の不安を憶えざるを得ない。
「友だちを何だと思ってるんですか…というかこの絵面、いろいろまずいですよ。というか、背中。当たってますし。」
十五歳というのは、発育的な観点から見てもそれなりの年齢である──つまり十六歳の高校生の少年にとって、彼女の豊満と言えなくもない乳房の感触は思想を大いに阻み、妨げるのだ。
「ま、冗談はここらで止めておくとして──そうね。疲れてるだろうから、一度眠っていいよ。調べることは私がいろいろまとめておくから、交代制で。」
火上の身体からぱっと離れた不明里は、鞄から取り出したノートパソコンを立ち上げてそう言った。その声色は優しさに満ちていて、つまり自身に対する気遣いと判断した火上はその言葉に甘えることにした。
「わかりました…それでは、何かあったら起こしてください。」
そう言って、少年は改めて布団を被る。
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ。」
・
「まー、そういうわけ……うん。大丈夫。今のところは通常通りだよ。」
不明里の透き通るような声がどことも知れぬどこかに響いた。
「わかってるって。もし«蝋燭»が暴走したりしたら──────」
「その時は、私が殺すから。」
そんな会話が為されていたのを当の本人である彼は知らない。
知らないが、しかし知る由もなく。
また知る必要もない。
なぜなら彼は。
・
「おはよう。交代の時間よ。」
やや平静さを取り戻したような声で、不明里は火上忍を起こした。
彼は彼で自分を取り巻く万物に無頓着なところがあるので、寝入る前にあったあれこれさえも既に思考の外にあった。
無頓着──いや、ならば単に無関心と言うべきだろうか。
「……おはようございます。お疲れ様でした、あとは僕が」
「その事なんだけれど」
と、寝ぼけ眼で作業に取り掛かろうとする火上を不明里が止めた。
「ちょっと聞きたいことがあって……彼女、最藤 涼。最近になって捕まったっていうの、一体なんでだっけ?」
「えっと……そりゃあ確か、殺人を繰り返しているから────じゃないですか。」
物言いに反して、これはなかなか確かではないし定かでもない言葉だ。しかしこの話を火上忍に持ちかけた漆峰 京の語りでは、少なくともそうであったはずだ。
「いんや。そうじゃあなくてさ。殺人の動機だよ。ヒントは彼女の過去にある──隣のクラスなら知っているでしょ。彼女は一体『何』?」
「残念ですけど、隣のクラスであるが故に知りませんよ。僕は高校では部活もやっていませんし、クラス外の人間とはほとんど関わりがありません。」
火上忍はそんな回答をした。
キャラクターが陰鬱だとか屈折しているとか、あるいは人間関係に対して拒絶的であるとか否定的であるとかそういうことを言う以前に、彼──火上忍はそういった,ものをそこまで重要視していなかった。
場合によってはそれどころか蔑視さえしていたのだから、まともな、少なくとも一般的なコミュニティが築けているとは言い難い。
その病的なまでの人間関係の狭さは彼が空洞の少年であることを決定的に、そして一定的に裏付ける要因でもあるのだが、しかし今回の件に関してはそのことこそが不明里の掴んだ違和感と直結していた。
そのために不明里は、二の句が継げないどころか、その回答こそを期待していたと言わんばかりに──言わば待っていたかのように、次の言葉へ繋いだ。
「高校では、ね。つまり君、中学生の頃はしていたんでしょ?部活動。何部だった?」
「陸上部──────ですけど。」
口にした途端、火上忍は気づいた。
中学生の頃、同じ陸上部で活動していた一人の少女が同級生の苛烈ないじめにより自殺したこと。
学校中が騒然となったこと。
マスコミによる報道批判を浴びたこと。
変わり果てて、荒れ果てて、様々なものを次々と失くしていった欠落の記憶。
少女の名前は確か、『サイトウ』。
「そう。同姓同名の女の子が、二年ほど前に自殺に成功している。」
「じゃあ今噂になっている彼女は…………」
「«怨霊»──そう呼ぶのが妥当ね」
いつも通りの平坦な口調で、ただ僅かに眉を顰めて不明里は彼女をそう称した。
「馬鹿な。彼女は学校に在籍だってしているんですよ。」
人殺しとして捕まったという、もし虚偽であると判明すれば本人の尊厳を大きく損なうであろう噂話が広まっている時点で在籍はしづらいだろうが、少なくとも今現在この時点においては、彼女は間違いなく芥川高校の生徒だ。
「別に«怨霊»が実体を持たないとは限らないわよ。自殺後の死体が質量を持って復活したんでしょう──但し己を『人間』ではなく『怪物』として新しく定義したままね。」
怪物
殺人鬼。
この言葉は比喩ではなく、文字通り意味通り、『人を殺す』『鬼』である────化物である。
換言すれば、人間ではない。
「……なんてこった、というのが正直な感想ですね。そんな大それた存在なら、僕らじゃ到底力も及ばないのでは?」
その上«沈黙室»なんて意味のわからない能力を携えているのでは勝算もなかなか望み薄だ、と火上忍は感じた。
「あら。あまり驚かないのね、大それた存在に対して。」
「生憎、上手く驚くのは苦手でして、下手に驚くのは嫌いなんです──まあ証子さんがいれば、上手く驚かせることは出来そうですけれど。何せあなたは«詐欺師»だ。」
「そう。じゃあ付き合ってあげる──そして安心しなさい。さっきその手の知人に連絡して確認したけれど、«沈黙室»は武器の名前よ。本人に備わった、言わば固有のものではないわ。」
それは火上忍にとって嬉しい情報だった。しかしそんな情報に精通している知人がいるというのは、彼に言わせればなかなかどうして恐怖と戦慄に値するものがある。推測するに、あの時携帯電話越しに鳴り響いた銃声と関わりがありそうだ──ならば«沈黙室»は銃器だろうかと彼は予想した。
名前に反して全然静かではなかったし、それを用いていることもわざわざ知らせるようなことでもないように思ったが。
「いつかあなたも会えるかもね。最も美しい殺し方を模索する«美食家»・悪逆 果実に。」
「はあ……そうですかね。必要とあらば。」
名前からしてろくな人間ではなさそうだ──そんなことを思ってしまえば、今回の事件だって同様か。
そう。
そもそも人間であるとは限らない。
火上忍は先日、彼女を『己と同類』『死にたがり』と評したものの、その願望はとっくに叶っていたのである。
終わっていたのである。
むしろそこからが、怪物としての最藤 涼の始まりだったわけだが────。
『いじめられっ子』。
体質だろうと気質だろうと、怨恨だろうとトラブルだろうとどうでもいいが。
目的は復讐か。
そこまで考えた時点で、やはり火上忍は再認識した。
そこまで奮起できるのは、そこまで怒りを発露できるのは、方向性や手段、結末はどうあれ自分にはできないことだ──────と。
羨ましいと。
しかし不明里の件を通して新たに学んだのが、こうして何も思い入れなどなしに率直に羨ましがることができるのは、裏返せば«蝋燭»の彼が相手を何とも思っていないということだ。
不明里 証子のことは大事にしたいと心から火上忍は思ったが(尤もそれも、彼に心なんて高尚なものが存在すればの話だ)、この素知らぬ化物には何も感じない。
「しかしまあ……安心しましたよ。いろいろ調べていただいてありがとうございます、でも結局行き着く結論は一つだ。」
「というと?」
「僕は躊躇なく彼女を殺せる」