火上忍・『いのち対じぶん』
「……いつ聞いても、冗談みたいな話だ」
火上忍は正直な本音を呟いた。
診療所からの帰路、夜も更けた暗路。
電話口の向こうで口喧しく説明のされたその噂話は、自身の体質と比肩すべくもないくらいに現実味に溢れていた。
現実。
多分その話は、紛うことなき現実。
しかし現実味があるからと言って、それが果たして真実なのだろうか──火上はそんなことを考えていたのだ。
「だからー、冗談じゃあねえって。うちの学校にいるらしいんだよ。」
強く主張する彼の名は、漆峰 京──勿論一般人。
現在火上が通っている私立芥川高校の級友で、噂話に目のない暇人である。
「……もう一度聞こう。これで七回目になるけれど、何がいるって?」
「『殺人犯』」
くぐもった声で、漆ヶ峰は七度目の答えを口にした。
勿論、彼はかつて関東で起こった大災害の話など、同じく噂程度でしか知らない。
ゆえに奇妙な能力なんてものとは無縁──つまり彼の口にした殺人犯という言葉は、そのままの意味である。
しかし別段、生々しさもリアリティも感じることはなかった。
「……殺人犯だよ。火上はさ、隣のクラスで『サイトウ』ってやつを聞いたことがあるか?」
サイトウ。
どういう字か分かりにくいけれど、恐らくは齋藤か斎藤──そんなことは些事に過ぎないので、とりあえず齋藤と決めてみた。
「いや、ない」
「最近ずーっと欠席してんだよ。ほら、この前に三連休があったろ?あれが明けてから今に至るまで、二ヶ月間、ずーっと。鳩羽に聞いても何も答えねえ。」
鳩羽というのはそのクラスを受け持っている担任の教師だ。
「それから俺はあちこちを駆け巡って情報を集めた。するとどうよ、あいつは殺人を繰り返していて、最近になってようやく捕まったっつーじゃあねえか。」
「なあ、こんな話、あると思うか?」
「ないと思う」
火上はまたも正直な感想を口にした。
「……はっきり言って、荒唐無稽だ。どうせ誰かが悪戯で広めた噂だろ。曖昧でどうにも信憑性を欠くな。」
「そうだけどさ………いや、でも俺は──────!!」
「………………? 何だって?」
と、その時。
その荒唐無稽な噂話は、荒唐無稽な真実へと変貌した。
「▓▓▓▓▓▓▓▓」
聞き覚えのない単語が、文脈を無視して突如響く──しかもそれが若い女性の声だというのだから、事態はいよいよ厄介になりそうな予感が満ちていた。
いくら電波や機器の調子が悪かろうと、聞き慣れた友人の声が素知らぬ女性の声に変わるなどということはないであろうから、火上は即座にその謎に対して警戒心を強める。
「……何?」
「私──最藤 涼は▓▓▓▓▓▓▓▓で人殺しをしている」
「ちょっと待て、お前は一体──────!」
会話は途絶えた。
手にしていた携帯電話から破裂音のような爆音が短く響き、火上忍は驚いて機器を耳から離す──しかしそれが銃声だと気づいた時には、『通話終了』の文字が画面に佇んでいた。
「──────漆ヶ峰?」
第一に危ぶまれるのは彼の身の安全である。
殺人犯・最藤 涼……火上は思考を阻む謎を整理してから舌打ちをする。
「面倒なことになったよなぁ」
自覚させるようにわざとらしくそう呟いてから、火上は自宅へと急ぎ足で帰宅した──走りはしなかったものの、息を荒らげて。
しかし部屋の電気をつけるや否や、彼は即座に布団へと倒れ込んだ。
・
目が覚めた。
火上忍は窓から射し込む白光を睨みつけ、嘆息しながら上体を起こす。
熟睡。
とりあえず眠気はとれた──そう、城崎が興味を示したのは、火上忍の精神面なのだ。
たとえ友人が命の危機に晒されているとしても、自分の心身に迫る眠気や疲労の回復を躊躇なく優先できる、その異常性。
物事に対して必要以上に干渉せず、また感心も関心も持たない。
別に漆ヶ峰の存在を軽んじているわけではない──彼は大切な友人の一人だ。
ただ火上にとって最優先なのは常に自分のことであり、助けるのは常に自分だけなのである。
これが言わば普通、火上忍にとっての通常なのだ。
「……とりあえずは地図かな」
朝九時頃、彼は自室のパソコンを起動した。
それと同時に部屋の本棚から厚い地図帳を取り出して広げる。
«沈黙室»。
あの時響いた不気味な──無気味な単語は、そんなものだった。
しかしそんな洒落た地名があるはずもなく、ただ無為に時間のみが過ぎていく。
「地名じゃあない──施設とかの名前でもなさそうだ。«沈黙室»とは名ばかりで、場所を表しているわけではないのかもな。」
そうなると用無しである地図帳を放り出し、彼は気だるげな動作でパソコンに向かった。
「『«沈黙室»で人殺し』ね──他に考えられるのは……。」
場所ではないとなると、他に考えられる可能性は何だろうか。
手段。
道具。
時間。
これくらいだろう、と火上は思った。しかし時間という線は薄そうだ。ならば手段と道具か。
だが殺人ということは少なからず人が死んでいるわけで、その死には原因が必ず伴う。
焼死や溺死、感電死。
そういう死因の裏返しが言わば手段なのだから、その読みもどうも辻褄が合わない。
なら道具──────道具?
不意に違和感が生じ、それが融解していくのを感じる。
知っていたかもな、と思った。
そう、言うならば答えは既に目の前だったのだ。
火上は嘆息し、あの日のことを思い出す。
全てが絶望的──ではないが、全てが切望的だった『破壊』の日。
生きたいと願う人の力が最も強まったであろうあの一日、そして虚しくもその殆どが無に帰したあの数時間。
当時、火上は屋外にいた。
理由は覚えていないけれど、本当に瑣末なことだったように思う。
神奈川県横浜市のある平凡な家庭。
そこが元々の彼の住居だった──目を閉じても覗き見えるその『光』は、人間だけを確実に虐殺していく。
その光景に絶句したのは記憶として確かだ。
渇いた絶望の黒色と、仰々しい黄金を混ぜたような光。
いろんなことがあった。
いろんなものがなくなった。
そんな記憶なんてもういっそ、跡形もなく消えてしまえばいいのに。
火上忍はそう思った。
思ったというより、否応なしに思わざるを得なかったのだが──────彼は«蝋燭»と名付けた己の能力を何よりも忌み嫌っていた。
毒虫のように長年脳裏を這い続けた嫌な記憶が、今回の事件とゆっくり繋がるのを感じる。
火上は叫びたい気分だった。
「ああ、知ってるぞ……«沈黙室»。この際殺人犯が誰かなんてのはどうでもいいが──────。」
「要は最藤 涼も僕と同類ってことなんだろう?」
同類。
それが指すのは、能力者という意味の他にもう一つ。
つまり、死にたがり。