拳に怯えるお母さん
「いらっしゃいませ」
暗い顔をした四十代くらいの主婦が、店内に入ってちらちら青子の方を見ていた。
「どのようなご用件でしょうか?」
「こんなこと、ここで言うべきじゃないと思うんですけど」
主婦は青子に話すのをためらっているようだった。
「それは聞いてみないと分かりませんね」
カウンターの下からニョキッと顔を出したのは愛子だ。落とした書類をまとめていところだった。
「知り合いのネズミに、ここを紹介されまして」
あのネズミか。青子の頭の中には、目を合わせずにぶつぶつ文句を言いあう兄弟が浮かんだ。
あれからどうなったんだろう。近々近況でも聞きにいかないと。
「さようでございますか。奥の方でお聞かせ願えますか?」
愛子が主婦をカウンターの中に招き入れる。
ほかのお客様に聞こえないようにする配慮だろう。
愛子がそのまま相手をするのかと思いきや、青子の背中をそっと押した。
「ここは私がさばくから、あなたお願いね」
そう言うと、いつの間にか五人ほど並んでいた客にニコリと笑顔を向けた。
青子は、取り残さたような気分になりながらも、主婦に向き合う。
「改めまして、どのようなご用件でしょうか?」
「あの、実は、息子が昨日からずっと、拳を握りしめているんです」
「拳を?」
「はい。あの、変だと思いますよね? 私も自分で何を言ってるんだろうって思うんです。だから、誰にも相談できなくて」
「いえ、一般的に、拳を握りしめるというと、怒りが連想されますが、何か心当たりはありますか?」
「それが、息子と気軽に話ができるような関係じゃなくて。こんなことをよそ様に言うのは恥ずかしいんですけど」
「いいえ、年頃の子どもの扱いには気を配るものとお察しします」
「息子の中で何があったのか、母親として気になるんです」
「承知しました。それでは、ご住所をこちらにご記入ください」
青子は前回の失敗を生かし、主婦に用紙とボールペンを渡した。
休憩時間、青子は愛子に相談してみた。
「なるほどねー。私も子育てしてないけど、大変なんだろうなー」
青子が淹れたコーヒーを飲みながら、愛子は頬杖をつきながら言った。
「今度の猶予も三日間いただけますか?」
青子がドキドキしながら窺うと、愛子は眉を顰めて青子の目を見返した。や、やばい。
「あんた、三日間で片がつくとでも思ってんの?」
「で、では何日程必要ですか?」
「一週間はいるわね。あなた、自分が失敗しないとでも思ってるの?」
青子は顔が赤くなった。愛子は愛子の失敗も織り込み済みだというのだ。
「・・・・・・じゃあ、いってきます」
「待ちなさい」
まだ何か?
青子は気持ちが前面に出た顔で振り向いた。
「あんた、そんな顔で『青空郵便局から来ました、水田青子です』っていうつもり? 止めてくれない?」
「はい、すいません!」
青子は空元気で郵便局を飛び出した。
青子は住所を頼りに、島の空気を体中に取り込みながら向かった。何度吸ってもそのたびに浄化されていく。青子はこの島の空気が大好きだ。
男の子の名前は生田誠二郎というらしい。高校生ということは、あそこの高校か。青子は、島に一つしかない高校に潜入してみることにした。
とはいえ、高校は制服だったはず。
郵便局の制服では、怪しまれるに違いない。
ここは、さぼりたくて仕方ないーっていう制服の着こなし方をしている生徒に、アタックしてみるしかない。時間的に、もう授業は始まっているはずだ。今頃になって登校してくる生徒は、高い確率で意欲的ではないだろう。青子は、下着が見えそうなくらいスカートをまくりあげている金髪の女子生徒の前に、飛び出た。
「青空郵便局の水田青子です、おはようございまーす」
校門をくぐろうかというときに堂々と歩きスマホをしている女子生徒は、青子の甲高い声が頭にキーンと響いたのか、眉間にしわを寄せて青子に眼を飛ばしてきた。
「単刀直入に申し上げます、今日一日、あなたの制服お借りできませんか?」
「交換ならいいよ、あんたのその制服と」
青子は、一瞬愛子の顔を浮かべながら、交換条件をのんだ。
「学校が終わったら、郵便局に来て」
「承知しました」
近くの公園の公衆トイレで着替え終わった青子は、鏡を見た。
「うん、まだイケるわね」
去年まで高校生だった青子は、制服を着こなすことが出来た。
「うっひょー」
郵便局の制服から高校の制服に戻ったからか、言葉遣いまで学生っぽくなる。
授業中は人目につかないように隠れながら、休憩時間に一年の廊下を歩いてみた。
「あの、生田誠二郎くんってどこにいるか知ってます?」
俯きながら、女の子に話しかける。
「え、一組で佐藤たちと話してますけど」
「どうも」
一組のドアの前で話に花を咲かせていた女子グループにも同じように話しかけた。
中心にいた恰幅の良い女の子が、頼んでもないのにわざわざ呼び出してくれた。
「なんスか」
わお。めんどくさそー。青子は、気だるそうな誠二郎を、人目のつかないところまで連れていった。
誠二郎の手は、拳など作られていない。いたって自然だ。
「手、柔らかそうですね」
思わずそう言うと、誠二郎は汚いものでも見るような顔で青子を見た。さすがに気持ち悪かったか。
「生田君何か最近嫌なことあった?」
「あった」
「え? 何かな? よければ教えてほしいんだけど」
青子ははやる心を落ち着かせるのに必死だった。
「今」
「・・・・・・え?」
誠二郎を苦痛から解放した青子は、学校にポスターを貼って帰った。
郵便局に戻ると、怒りで顔を真っ赤にした愛子が待っているかと思えば、いつもより上機嫌な愛子と、隣で一緒に茶をすするあの女子高生がいた。
「今日はありがとうございました」
青子は女子高生に丁寧に頭を下げると、彼女は「お疲れでーす」と軽いノリで返してきた。
「大丈夫でした?」
青子は小声で愛子に彼女の働きぶりを探った。
「よく働いてくれたわよー。おかげでいつもの半分しか仕事してな気分」
ちーん。
ダブルパンチで青子は落ち込んだ。
「そ、そうですか」
「あんたこそどうだったのよ。収穫はあった?」
「それが・・・・・・」
機関銃のようにすべてを話した。
泣きべそをかいていると、女子高生が無言でお茶を出してくれた。
そんなことしないで。
涙しちゃうじゃない。
「一週間以上かかっても大丈夫よ。その期間、代わりにウサギが入ってくれることになったから」
なんと交渉済みらしい。
ウサギという名前だったのか。
「可愛い名前ですね」
思わず青子が言うと、
「自分の名前が嫌いっていう話をしたら、勝手にあだ名をつけられたのよ」
「先輩に何て口叩くのよ!」
部屋が静まり返った。
青子はハッと我に返った。
「ご、ごめんなさい。もう帰ります」
何やってるんだろう、私。
うまくいかなかったことでイラついてるんだ。
あと、先輩に可愛いあだ名をもらったことにも。
涙で濡れてしまったセーラー服は、クリーニングに出して返そう。
その夜、ひっきりなしに電話がかかってきた。
高校に貼った、お悩み相談のポスターを見た生徒からだったが、生田からかかってくることはなかった。
次の日も高校に潜入したが、ターゲットに直接関わるのは控えることにした。
「生田君にプレゼントを渡したいんですけど、何が好きか知ってるかな?」
誠二郎とよく喋っている女の子に聞いてみた。
「なんだろう。カメラとかいいんじゃないかな? あいつ、よく人の写真撮ってるし」
「カメラね! ちなみに、手作り料理とかあげたら食べてくれると思う?」
「食べてくれるんじゃない?」
女の子は軽く言った。あまり深く考えていないようだ。
もちろん、本気でプレゼント選びに悩んでいるわけではない。
趣味嗜好を知り、生田という人物を少しでも知る手掛かりになればと思って聞いただけだ。
ばれないように距離を開けて一日中つきまとっていた。
どっからどこ見ても変な様子は見られない。
家にいる間拳を握っていること以外は、いたって普通だ。
つけまわっても退屈を感じるだけだ。
家に帰るまでもストーキングする。
警察署の角を曲がったところで、ターゲットが消えた。
あれ? と思っていると、後ろから声をかけられた。
「何してるんスか」
ぎくりとして、頬を引きつらせながら振り向くと、生田が真顔で立っていた。
「いつから気づいてたんですか?」
「朝から。俺の何を知りたいの?」
ストレートな言葉に、後ずさりしそうになる。
「とりあえず、お母様とのご関係を」
「は?」
まずい。
「マ、マックにでもいきます? 立ち話もなんですし。おごりますよ?」
青子は精一杯明るく応対する。
「いいよ」
「そ、そうですよね」
「いや、そうじゃない。俺がおごりますよ。バイト先だし」
誠二郎は青子の手をひき、真向かいにあるマックに入った。
不覚にもドキッとさせられる。
誠二郎がポテトLサイズと飲み物をオーダーする。
「あの、私実は、青空郵便局の水田青子と申します。身分を偽って近づいてすいませんでした」
「郵便局員が俺に何の用?」
青子は迷った挙句、正直にすべてを話すことにした。
「最近の誠二郎君の様子がおかしいってお母様が心配されています」
誠二郎が眉間にしわをよせ、思案顔になる。
「具体的に申しますと、拳に力を入れていらっしゃるのを見ていて、何か自分の知らないうちに抱え込んでいるんじゃないかって思っているようです」
「気づかれてないと思ってた」
「母親は細かい部分までよく見ているものです。気づかれていないと思ってたということは、思い当たる節はあるのですね?」
「これ」
ポテトをつまんだ手で拳を握り、親指と人差し指をこすり始めた。
すると、一瞬でバラが手から伸びてきた。
「まあ!」
「これを練習してただけ」
「マジックですか?」
「まぁね」
「すごい! でもまた何でマジックを?」
「もうすぐお袋の誕生日だから。口下手だし改まったこと言えないから、バラをあげようかなって。つべこべ言わんでもこれで伝わるっしょ」
あの心配そうなお母さんの顔が浮かぶ。息子の拳に力が入っているだけで気にかけている繊細で心配性な彼女が、これを知ったらどんな顔をするのだろう。青子はいいことを思いついた。
「私にも協力させてください。あ、もちろん二人きりの空間に水は差しません」
お母さんの誕生日の日。
こっそり押入れに潜み、準備を整える青子。
シャッターチャンスは一回。早まる鼓動を落ち着かせる。おちつけー、おちつけー。
台所にあのお母さんが現れた。
すでにそこでテレビを見ていた誠二郎の拳に視線が注がれている。
ふいに、誠二郎がお母さんに向き直り、拳からバラを出す。
彼女は、バラと誠二郎の顔を交互に見つめる。状況が呑み込めていないのだろう。
「誕生日だろ?」
その言葉で、意味が分かったのだろう。
「ありがとう」
と目じりを下げて受け取ったバラは、彼女の笑顔に幸せの色を彩っていた。
後日、青子は写真と一緒に、便箋を彼女の住所に送った。
便箋には、青子がつけた写真のタイトルをつけた。
それを盗み見た愛子が、意地悪く突っ込んできた。
「拳の中に温めていたのは、お母さんへの愛でしたって。もっと気の利いたタイトルはなかったの?」
青子はふふっと笑いながら、仕分け作業を始めた。