野兎のひとりごと
青子のやつ、情が沸いたのか俺をペットにしはじめた。
野兎なのにマルチーズって呼んでるのが癪に障るが、毎日好きなもん食わしてもらってるのはありがてぇ。早くも狩猟本能を忘れかけてて正直焦ってる。
今なら木の実がコロンと落ちた音がしても、飛びつかねぇだろう。やばいよな。
あいつは毎朝郵便局に行ってて、最初は留守番して家政婦の真似事してたけど、気づけばあいつのことばっか考えてっから、結局着いていくことになった。
今日は招き猫の役目を頼まれて、何でも奉仕してくれる飼い主のためならと、カウンターの上で俺なりに招いている。
中には物好きもいて、「これいくら?」と聞いてくる客もいた。しかも、可愛いと来たら思わず浮足立つのも分かってほしい。そんな客にも、あいつはいつもの口調ながらも、毅然とした態度で断ってくれる。そういうとこ、愛を感じるぜ。
「言い値で買うわ」
と言い出した客に、あいつはこう言った。
「どんなに積まれても売れません。この子は私にとってかけがえのない存在です」
あれ? 視界がぼやけてきたぞ。
そういえば俺、誰かにこんなに大事にされたことあったっけな。
ふと、古傷の痛みが和らいだ気がした。
「最近、手紙がめっきり減りましたね」
一息ついたとき、萌乃が言った。
俺も、招き猫としてカウンターに立ちながら、大型郵便物が多いなと感じていた。
「これでも島は多い方よ? 都会なんて文通する人はほぼ皆無なんだから」
愛子の言葉に、青子が反応した。
「だったら営業しませんか?」
「営業?」
「はい。手紙を書きませんか?って。営業先は、学校、会社、住宅街、場合によっては保育園もいけるかもしれません」
「保育園の子はだいたい手渡しでしょ。交流範囲が限られてるんだから」
「でも、サンタさんや神様相手なら郵便局にも来てくれるかも」
萌乃の言葉を受け、愛子は考える素振りを見せる。
「じゃあ、マルチーズといってらっしゃい」
すっかり愛子のパートナー呼ばわりだ。仕方ない。招き猫のふりもそろそろ疲れたし。
「野兎って、船や電車に乗れるんですかね?」
青子がじっとリュックを見つめたので、思わず息をのんだ。もうあんな息がつまる思いはごめんだ。
青子に首根っこ捕まえられる前に、自慢の脚力で郵便局を飛び出した。
俺たちはそのまま船に乗り、都内の幼稚園に向かった。
幼稚園なら絶対に俺は行かねえ。という俺の意見は無視された。
あいつら、よくぬいぐるみを取り合って手足を引きちぎってるイメージだからよ、できればお近づきにはなりたくないんだな。
「先入観はよくありません。会う前からそんなイメージを持っていては、お客様に失礼です」
きっぱり俺に向かって言っていたくせに、自分の顔を見るなりババアと言い出した男の子に、言葉を慎みなさいと容赦ない注意を向けていた。
「ババア、なにしにきた!」
どうやら言葉遣いを習っていない子供も少なくないらしい。
「ババアじゃなくて、お姉さんよ!」
保育士さんがあやすように訂正する。そんな生ぬるい指導ではちっとも子どもの言動は改善しないだろう。そんな俺の不満をかき消すように、青子が言った。
「ババア、いわれればクソガキ、と返すしか道がなくなります。いいですか? 言葉は命です。人を救うこともできますし、殺めてしまうこともあります。言葉を操るには、鍛錬が必要です。その鍛錬こそ、この保育園で身に着けていくべきものです。あなたたちは難しいことは考えず、自然に任せて友達や先生、ひいてはご自身の言葉に耳を傾けていくことが大事なのです。そうすればおのずと、自分に必要な言葉が取捨選択され、相手に不純物がつかないまま、ご自身の思いを届けることができます」
子どもたちも保育士たちも、ポカンとしていた。
俺は言いたいことわかるぞ、青子。
「申し遅れました、私はヒヨコ島の青空郵便局から参りました、水田青子と申します。そしてこちらが」
「マルチーズだ。俺もこの前から郵便局にいる」
静寂になったすきを見て、自己紹介する。
保育士たちが拍手を送る。子どもたちもそれを見て子供らしい好奇心が戻ってきた。
捕まったらおしまいだと、俺は子どもたちの伸びる手をかわす。
「手紙を書きたい人―?」
若い保育士が子どもたちに聞く。はーい、とほとんどの子が手を上げる。
「ユキちゃんにお手紙書きたい!」
「私もサリちゃんにお手紙書く!」
「こちらの水田お姉さんは、皆が書いた手紙を相手に届けてくれます。心を込めてお手紙を書いて、お姉さんに、お願いしますって言って渡しましょう」
はーいっという実に行儀の良い返事が揃うと、子どもたちは色とりどりのペンで、便箋に文字や絵をかき始めた。未就学児でありながら、ひらがなとカタカナを織り交ぜて書く子どももいた。
書く言葉が思いつかず、見事なペン回しをしている子には、俺がペン回しの次のステージを仕込んでやった。それを若い保育士は引きつらせた顔をして、俺を押しのけたかと思うと子どもに手紙の書き方を教え始めた。
チッ。若い奴は外れたことを嫌がるから面白くねえ。
青子はこの教室のボスと対峙していた。
さきほど「ババア」と青子に刃を剥きだしにし、ひと悶着あった男の子だ。
隣の女の子が書いた手紙をぐちゃぐちゃに丸め、泣かせてしまったようだ。
もう一人のベテラン保育士が駆け寄ってくるのを手で制し、青子は腕をまっすぐに伸ばし、人差し指で彼を指した。
「女の子を泣かすとは、見逃すわけにはいきません。成敗しましょう」
この化け物め、と泣き喚く男の子の両脇を抱きかかえるようにして、教室の隅に連れて行く。
青子の成敗とやらはどんなものか、明日は我が身の気持ちで俺は見守ることにした。
「ババアから化け物に進化しましたか。次はゾンビですか?」
あろうことか青子は子どもに向かって挑発している。どうやら文字通り成敗する気なのかもしれない。
ということは、動物相手でも容赦ないのだろう。恐ろしい。
「うるせえ! 黙れ!」
子どもの反応も納得である。他の子も、手紙を書く手を止めてこちらの戦況を伺っている。
「あの、代わります」
ベテラン保育士も、勝手をされてはた迷惑なのが態度にありありと出ているが、青子はお構いなしだ。
「ここは私が最後まで責任を持ってこのお坊ちゃんと関わりますので」
それが吉と出ないと見たからベテラン保育士が黙っちゃないのだろうが、青子に通じていない。何故か俺の心が痛くなる。青子の保護者の心境だ。
「お坊ちゃんじゃねえ!」
「失礼しました。ではお名前を教えていただいてもよろしいですか?」
「教えちゃらん」
俺ならぶん殴ってやるが、青子は動じなかった。
「では、あだ名をつけるとしましょう。あなたはとっても素直なので、素直くんと呼びます」
「やだね」
「素直くんは手紙を書きましたか?」
「書かない。何も書くことないし」
「それは、宛先が見つからない、ということですか?」
「何も書くことない」
「そんなはずはありません。素直くんは、いっぱい我慢しているように見えます。手紙って、いいことばっかりじゃなくて、わがままなことでも、甘えたいことでも書いていいんですよ。たとえば、おうちの人でも」
素直の顔色が明らかに曇った。
「なんも知らんくせに言うな!」
俺の脳内に理由なき反抗のテーマ曲が流れ始める。
「すいません」
青子が謝る。なんだか知らねえが、喉の奥がキュッとなった。
「おい素直、おめえ口の利き方を母ちゃんに教えてもらってねえみたいだな」
だから教えてやるよ、と続けようとしたところ、青子に首根っこ掴まれた。
なんでだよっ! 今からこいつをまともな保育園児にしてやろうとしてんのによ。
「素直くんは優しいんですね」
はあ? こいつ、この期に及んで何言ってやがる。素直の奴も、唖然としている。そりゃそうだ。脈絡がない。
「わがままを言ったら相手を困らせるって思ってる」
ハッとなったのは、ベテラン保育士の顔だ。
「君はまだ子ども。皆の宝物なんだから、思ったことを伝えて、大人を困らせてごらん? 大人はそれを望んでいますよ?」
俺の目頭が熱くなる。こんな奴に泣かされてたまるかよ。
「でも、書いてもどこにいるか分かんないし」
「この子のお父さん、刑務所にいるんです」
保育士が青子に耳打ちした。漏れ伝わった台詞から、俺は平静を取り繕うのに精いっぱいだ。
「大丈夫。私の仕事は、お手紙を届けること。必ず、お相手様にお届けいたしますことを誓います」
約束げんまんだ。
机に向かって、何度も書き直しながら書いた手紙を、青子は受け取った。
「青空郵便局の名にかけて、必ずお届けします。勇気を出してお手紙書いてくれてありがとう」
「マルチーズの名にかけて、青子がヘマしないか見とくから、安心しろ」
「・・・・・・ありがと」
それだけで十分だ。刑務所までのガソリンとして。
青子は多くを保育士に聞かなかった。刑務所の場所だけ聞いて、タクシーに乗り込んだ。
「これだけは、手渡しで渡したいわね」
「中身は見ないのか?」
「守秘義務がありますから」
青子らしい。俺なら見るだろうな。
刑務所で面会を申し入れる。出てきたのは、素直に瓜二つだった。
青子が息を吸い込む音が聞こえる。
「青空郵便局の、水田青子と申します」
こいつと出会ってよかった。
手紙を受け取り、涙を流す父親の姿に、青子は当たり前のように温かい言葉をかける。
こいつが何をしたのか知らないのに。
そして、真っ白い便箋を渡す。よければお返事をどうぞ、と。
やはり何度も書き直しながら書く目の前の犯罪者も、いつの間にか父親の顔になっていた。