前編
笠原茉莉は才女である。
茉莉の父は貿易商で、外国と本国を飛び回っている。茉莉はそうした父についていくことで語学を学び、今では簡易な交渉を任されるほどの実力がある。
おかげで今年二十歳を迎えるまで男の影もなく、今となっては立派な嫁ぎ遅れである。
恋を知らぬ我が身を嘆くこともあるが、このまま独り身で父を支え、ゆくゆくは父の跡を継いだ兄を支え、家が発展するための力添えをして終える運命なのだろうと納得してもいた。二十五を数える茉莉の兄にはすでに三つになる息子がおり、茉莉がこのまま結婚できずとも家系が途絶える心配はない。
そんな茉莉にとって趣味と言えば仕事に繋がるものばかりだったが、それでも一つだけ趣味らしい趣味を持っていた。
「それでは、父様。夕刻には戻りますから」
「ああ。気を付けて行ってきなさい。……本当に供をつけなくていいのか?」
「今さらでしょう」
困ったような父の心配を明るく笑い飛ばすと、茉莉は一礼をして足取り軽く滞在している屋敷を飛び出した。
茉莉の楽しみは、貿易のために訪れた外国の街を一人で散策することであった。このために、年頃の娘を連れ回すことに難色を示す父母を説得して父に着いていっていると言っても過言ではない。
故郷にはない、色とりどりの煉瓦造りの町並み。
初めて外国を訪れた時から、その美しさに茉莉は魅了されていた。
最初の二、三回ほどは無理矢理使用人を供についていかせていた父も、茉莉が危ないところにはいかないからと頼み込む姿に折れ、好きなようにさせていた。父の貿易相手は大概が裕福な貴族や商人であったから、比較的治安のいい地域に滞在することが多いため、安心しているのもある。
茉莉は昨夜、屋敷の使用人――こちらの言葉で言えばメイドと呼ぶのだったか――から情報を得て、現地の婦人が好んで利用するという隠れ家的な甘味処に行くつもりだった。まだ茉莉の国では食べることの出来ない、ここら辺の伝統的な菓子が非常に美味だと言う。
裏通りを行ったところにあるらしく、薄暗い路地を進まなくてはならないが、メイドからしっかりと安全な道の地図を書いてもらっている。方向感覚も人並み程度に備えている茉莉は、自信満々に歩を進めた。
「……あら?」
異変に気づいたのは、路地に入ってすぐのこと。
何か破裂音が聞こえたかと思えば、すぐに漂ってきた鼻腔をくすぐる嫌な臭いに、茉莉は眉間に皺を寄せた。
(なにかしら、この臭い……。火薬の臭いと、鉄錆に似た湿っぽい臭い)
嗅ぎ慣れない悪臭に嫌悪感を募らせつつも、好奇心旺盛な茉莉はその正体を暴くべく奥へと足を進めた。もちろん、物音が聞こえないことを確認した上で、足音を立てないように配慮しながら、である。
ほんの少しだけ顔をのぞかせ、路地の曲がり角の先を見据えようとして、茉莉は視界に飛び込んできた光景に思わず息を呑んだ。
薄暗い中でも、はっきりとそれとわかるほど赤黒く輝いている血液が、建物の壁や道路に飛び散っている。そして三人分の、明らかに息をしていない男の体。
あまりの凄惨な光景に眼窩の奥がチカチカと眩み、吐き気がこみあげてくる。
ただ、臭いの正体は完璧に理解した。この大量の血液と、血の海に転がる弾丸を見れば一目瞭然だ。
血の乾き具合から見て、おそらくこの惨状が作り出されたのはここ数分の話だろうと茉莉は検討をつける。
急ぎ引き返し、屋敷の者に伝えようと踵を返したところで――聞こえてきたうめき声に足を止めた。
「っ! 誰か生きている人がいるの?」
冷静に考えれば。
茉莉はその時、声を上げるべきではなかった。もしかしたらその声の持ち主こそがこの殺戮を繰り広げた犯人であり、今もなお銃弾の装填された銃を構えていたかもしれないのだから。
しかし、初めて目にする殺人現場に動揺していた茉莉は、息があるのならば救わなければと急いて目を動かした。
そして、ゴミ箱の陰に、差し込むわずかな陽光できらめく金色を見つけた。
それが人間の頭部だと気づいた茉莉は、血や死体を避けて目を伏せながらそこへと向かう。
「貴方、大丈夫? 意識は……」
「……っ!」
覗き込むようにそのかんばせを確認したとき、茉莉は思わず言葉を詰まらせた。
見たこともないくらいに見事なブロンドの髪に、大きく見開かれた瞳は冬の空のような綺麗な灰色。そして何より、まるで彫刻ではないかと思うくらい、彼の顔立ちは整っていた。
一般子女よりも多くの人と触れ合ってきた自負のある茉莉だが、こんな芸術作品のような美貌に触れたのは初めてである。
唖然とする茉莉を見つめて、その血の気のない唇が何か言葉を紡ぎ、我に返る。しかし魅入られていた茉莉は、なんと言ったのか聞きそびれてしまった。
「ごめんなさい、今なんて……」
「……たか!?」
「……や、そっちは……」
途端に耳に入ってきた男のものらしい怒声と足音に、彼はただでさえ白くなっていた顔色を青くする。
茉莉は彼が祈るように銃を握りしめていることに気づいた。しかし、茉莉の父が護身用に所持している銃と比べると、まるで玩具のように見える。
きっとここに横たわっている人々を殺したのは彼なのだろうと、茉莉は思い至ってしまった。
しかし、その銃口は突然話しかけた不審な女――茉莉には向いていない。茉莉はそれを確認すると、小さく深呼吸をして覚悟を決めた。
小さく震えている彼に安心させるように一つ微笑みかけ、先ほど血を踏まないように来た道を同じようにひょこひょこと戻る。そして路地の曲がり角に立ち、思いっきり悲鳴を上げた。
「っ、いやあああーっ!!」
「!? どうした!」
「あっ、ああっ、人が! 人が……!」
大げさによろよろと膝から崩れ落ちると、体格のいい男数人が悲鳴を聞きつけて駆け寄ってくる。気取られないように視線をさっと走らせると、茉莉に見えないように彼らが銃をしまうのが見えた。ひとまず、大きな悲鳴を上げた目撃者を考えなしに殺すつもりはなさそうだ。
茉莉は青ざめた顔で男たちに、「わ、私、こちらにあるかふぇに行くつもりで、そしたら銃を持った人が私を押しのけて、あちらへ……」と見当違いの方向を指さした。その血が新しいことに一目で気づいた男たちは、さっと目配せをした後、頷いてその方向へ走り出した。最後尾の男が、「お嬢ちゃん、命が惜しければこのことは黙って、すぐに引き返してお家に帰るんだな」と忠告していく。こくこくと首を縦に振ってしばらく彼らの背中を見送ると、茉莉は急いで立ち上がり、金髪の男の元へと戻った。
男は今起こったことが信じられないとでも言うような顔をしているが、ことは一刻を争う。茉莉は厳しい顔で、「言葉はわかりますか?」と問うた。
「……あ、ああ。あんたは……」
「お話は後にしましょう。とりあえずここを離れます。動けますか?」
「支えてもらえれば」
男の言葉は若干訛っていて、標準語を学んだだけの茉莉には少し聞き取りづらい。口元に耳を寄せるようにしてなんとか頷くと、男の頬が赤く染まる。茉莉は肩にかけていた羽織を脱いで男の頭にかぶせた。あまりに鮮やかな彼の金髪は目立つだろうから、かなり怪しいが隠したほうがいいだろう。
男に肩を貸して立ち上がると、血を踏まないよう位置取りに気を付けながらできるだけ素早く街道へと戻る。どこか傷を負っているようだが、今の茉莉には手当をする術がないため、心苦しいが屋敷に戻るまで我慢してもらうしかない。
大通りに戻ってしまえばこっちのものだ。人波に紛れながら、茉莉は一目散に屋敷を目指した。
「父様!!」
「茉莉、早かったな……、その者は?」
「いいですから、早く、どなたか手当のできる方を!」
「あ、ああ」
応接間に飛び込むと、商談中だったのだろう父と屋敷の主であるスフォルツィーネ卿が目を丸くした。
突然薄汚れた男を引き連れてきたことにひどく困惑しているようだが、尋常ではない茉莉の様子に圧倒されて大慌てで屋敷の常駐医を呼んでくれた。医務室に連れていき、ベッドに男を寝かせる。ここまでの移動で消耗したのだろう、先ほどよりも顔色は悪く、苦悶の表情が色濃く表れていた。
励ますように茉莉が手を握りしめると、男はうっすらと瞳を開いた。やはり美しい寒空の色。冷たそうなその色彩が戸惑いに揺れている様子を見て、なんて綺麗なんだろう、と茉莉は息を呑んだ。
「あんたは……。なんで、俺を助けてくれたんだ?」
「あら」
こんな苦しそうにしながら、聞きたがることだろうか。
茉莉は首を傾げながらも、じっとこちらを見つめる男の瞳に根負けし、眉を八の字に下げて恥ずかしそうにはにかんだ。
「だって、貴方、あんなに怖い場所にいたのにとても綺麗なんですもの。それに追手の声がしても、私に銃口を向けなかったでしょ。なんだか頼られたような気になって、助けたくなってしまったの」
だから手当をしてもらったら、温かいご飯を食べましょう。それからちゃんとお話ししましょう、と茉莉が笑顔を向けると、男は呆然と見返した後、くしゃりと顔を歪めた。茉莉が慌てて顔を背けると、やがて押し殺すような嗚咽が部屋に響いた。
手当を受けた男は、改めて父とスフォルツィーネ卿を連れて医務室を訪れた茉莉にエツィオと名乗った。
あの場所にいた理由や経緯については口を噤んだままであったが、茉莉もまたそのことについては触れなかった。自分の領地内で何かのいざこざが起きていることを察したスフォルツィーネ卿も、二人の気持ちを慮って問いただそうとしなかったのだから、茉莉はその人柄に深く尊敬の念を抱いた。
据わりの悪そうなエツィオの様子を見て、茉莉は父とスフォルツィーネ卿を振り向く。
「父様、スフォルツィーネ卿、申し訳ないですが席を外していただけないでしょうか? エツィオと二人で話してみたいんです」
「こら、茉莉」
「まあまあ、いいじゃないですか、カサハラ様。私たちがいると、エツィオくんも話しにくいでしょう」
「しかし……」
渋る父の背を押しながら、スフォルツィーネ卿が茉莉にウィンクを送る。
そのお茶目な気遣いに感謝しつつも、茉莉の耳元で父が囁いた「何かあったら声を上げなさい」という忠告に思わず顔をしかめた。若い男女が密室で二人になることを父は毛嫌いするが、エツィオのような美しい人が自分を相手に画策するわけないだろう、と茉莉は思う。父は茉莉を溺愛するあまり、かなり過大評価するきらいがある。
ようやく部屋で二人になると、茉莉はエツィオのベッドの横に添えられた椅子に腰かけた。
「やっとゆっくり話せますね。私は笠原茉莉と申します。生まれは外国ですが、父の貿易についてきて、この国にはもう一月ほど滞在します。エツィオ、貴方のことも聞かせてくださらない?」
「……話せるようなことは何もないんだ」
エツィオは俯く。そうすると金糸の髪が目元にかかり、なんとも言えない艶っぽい陰が落ちる。
茉莉はエツィオの一挙手一投足にどぎまぎしてしまうのを自覚しながらも、淑女らしく動揺を見せないように努めた。
「俺にはもう両親もいないし、帰る場所もさっきなくした。街に戻ればすぐ殺されるだろう。かといって、俺はこの国の生まれだというのにあんたみたいな綺麗な言葉はしゃべれない。他の場所で生計を立てることなんてできない」
「そんなことないわ!」
茉莉は力強くエツィオの言葉を否定した。
「だって貴方、さっき出会った時より訛りがとれたもの。この数十分で、私たちの言葉を聞きながら学ばれたのでしょう。エツィオはきっととても賢いのよ。どんな職にだって就けるに違いないわ」
「そ、そんなことは」
「あります。そうだ、このお屋敷で働けるように掛け合ってみましょうか? スフォルツィーネ卿はとてもお優しい方だから、貴方に危険がないように取り計らってくれるに違いないわ」
「マリ……様、俺にそんな器はない」
「茉莉で構わないわ。それに、そうしてくだされば、私がここを発つまで話相手になってもらえるでしょう?」
畳みかける茉莉に辟易しながら否定し続けたエツィオだが、その一言に虚を突かれたように黙り込む。そして少し考え込んだ後、うっすらと頬を染めて頷いた。
「……マリが、そこまで言ってくれるなら。領主様に聞いてもらえると、助かる」
「決まりね!」
茉莉は喜色満面の笑みを浮かべると、喜びのあまり立ち上がってエツィオの腕を引っ張り上げた。傷に触れたのか上がったうめき声に慌てて手を離す。
そして待ちきれないといった感じで方向転換をすると、はしたないことに小走りでスフォルツィーネ卿の居室へ向かった。
ややあって、エツィオの怪我が回復した頃、スフォルツィーネ卿の屋敷に美しい使用人が誕生した。
*****
それから一か月は瞬く間に過ぎた。
エツィオはよく学び、訛りのある小汚い格好の男だったとは信じられないほどに、素晴らしい使用人として成長した。元々の容姿の美しさもあり、茉莉よりよほど気品が感じられるほどだ。
職を得て一週間ほど経つ頃には、彼に懸想するメイドが続出し、茉莉は少しだけ面白くない気持ちになった。
その頃には、茉莉はエツィオへの一目惚れを自覚するようになっていた。
かといって、彼に気持ちを告げる気はない。もともと一か月間の滞在期間が終わってしまえば帰る身なのである。想いを告げることは自己満足にしかならないことを、茉莉は正しく理解していた。
「マリ様」
「エツィオ……茉莉でいいって言っているのに」
「そういうわけにはいきません」
テラスで中庭をぼうっと眺めていると、微笑みを浮かべたエツィオがティーセットを持って近寄ってきた。優雅に紅茶を淹れる手つきには、路地裏で銃を手に縮こまっていた時の面影はない。
使用人として礼儀を学ぶうちに、エツィオは茉莉のことを敬称で呼ぶようになった。職を斡旋した茉莉としては彼の成長を喜ぶべきところなのだが、気安さを失ったやり取りに、顔を合わせる度に落胆してしまう。ほんの一週間前までは、まだマリと呼んでくれていたのに。
だが、未だにお茶を飲むときは隣に座ってくれる。二人分のお茶を注ぎ、隣の席に腰を下ろしてくれたエツィオに、茉莉は知らないうちに笑みを浮かべた。
「マリ様の出発は、明日でしたか」
「ええ、そうね。明日の午後には発たなくてはなりません」
「寂しいですか?」
「そうですね……」
貴方と離れるのが、とは、口が裂けても言えないけれど。茉莉はそっと目を伏せて悲しみを押し隠した。
エツィオはそんな茉莉の表情をじっと見つめると、何かを言いかけて何度か口を開閉した。そして大きく深呼吸を一つ。呼吸音に気づいた茉莉は、顔を上げて不思議そうに首を傾げる。
「エツィオ?」
「……マリ様。俺を、一緒に連れて行ってはくれませんか」
「……!」
あまりに予想外の一言に、茉莉は自分の耳を疑った。
エツィオはそんな茉莉のことをまっすぐ見つめたまま、ゆっくりと耳まで赤く染めていく。肌が透けるように白いエツィオは紅潮しやすく、また自分が情けない顔をしていることに気づきつつも、懸命に言葉を紡ぐことをやめない。
「俺は貴女の国の言葉はしゃべれませんが、貴女が褒めてくれたように、知力には少しだけ恵まれています。貴女がこの国の言葉を学んだように、貴女の国の言葉を学びます。きっと貴女のお役に立ちます。どうか俺を、貴女の国へ連れて行ってください」
まるで夢の中にいるようだ。
今私は、愛の告白をされているのだ、と茉莉は思った。
一人の男が、国を捨てて茉莉と共にありたいと言う。それが愛でなくてなんだというのだろう。
茉莉はしかし、「ついてきて」と飛び出しそうになった言葉を飲み込み、唇を噛んで首を横に振った。
途端にエツィオの顔が絶望に染まる。零れ落ちそうなほど見開かれた寒空の瞳を直視できずに、茉莉は斜め下に視線を落とした。
「どうして……、どうして、マリ」
以前のような呼び方に心が疼くのを感じるが、茉莉は彼の呼びかけに答える術を持たない。
ぎゅうと目を瞑る。
「ごめんなさい」
そして、そのままエツィオを見ることなく、立ち上がって足早にテラスを去る。
エツィオは追ってこなかった。
自室に戻り、扉にしっかりと鍵をかけると、寝具に突っ伏して茉莉は咽び泣いた。
茉莉はエツィオを救ってくれたスフォルツィーネ卿への義理を果たすために、頷くわけにはいかなかったのだ。エツィオは身分の高い人々の事情には疎いだろうが、明らかに裏社会の人間であるエツィオを雇い入れることは、いくら領主とはいえスフォルツィーネ卿の立場を脅かしかねない。それでも救ってくれたスフォルツィーネ卿を裏切って、優秀な使用人となった――ゆくゆくは執事にと、スフォルツィーネ卿も我が子のように考えている――エツィオを連れていくことは、そんな不義理は、茉莉にはできなかった。
それに、そうしてスフォルツィーネ卿の好意を裏切ると、父の立場も脅かすことになってしまう。良い取引相手である彼を失えば、いくら豪商と呼ばれる笠原家とはいえ、大打撃を受けるのは間違いない。
しかし、エツィオの願いを断った以上、もうこの領地を父について訪れることはできないだろう。エツィオのことを傷つけてしまうし、何より茉莉自身の心が、彼に会うことに耐えられそうにない。
茉莉は夜中まで泣きながら、この選択で正しかったのかと自問し、それ以外にどうしたらよいというのだろうと自答することを繰り返した。
やがて眠りに落ちると、残酷なことに、すべてを捨ててエツィオと二人で世界を回る夢を見た。
翌日、スフォルツィーネ卿と一緒にエツィオを含む数人の使用人が見送る中、目を腫らした茉莉と父は馬車に乗り込んだ。
茉莉が親しくしていたメイドなどは涙ぐんでいる。彼女に教えてもらった甘味処には結局行けなかったな、と苦笑しながら、彼女たちに向けて手を振った。
エツィオの目元は茉莉とは違い腫れていなくて、安心すると同時に少し胸が痛くなる。彼の無表情が、何かを堪える時に浮かべられることを、この一か月で茉莉は知ってしまったからだ。
スフォルツィーネ卿が前に一歩進み出て、茉莉の目の腫れに気づいたのかおや、と片眉を一瞬上げる。しかし、別れが惜しいからと解釈したのか、見て見ぬふりをして穏やかな微笑みを浮かべた。
「カサハラ様、マリさん、とても楽しい時間をありがとうございました。カサハラ様のおかげでとても良いお話ができましたし、マリさんのおかげで素晴らしい家族と出会うことができました。ぜひまたいらっしゃってください」
「こちらこそ、長い間お世話になりました。またそう遠くないうちにお邪魔させていただきます」
「ええ……。とても幸せな時間が過ごせました。ありがとうございます、スフォルツィーネ卿」
ぜひまた、という言葉には答えず、茉莉は笑顔で頭を下げた。
スフォルツィーネ卿の許で過ごせた一か月のことを、茉莉はいつまでも忘れないだろう。卿は優しく、実の兄のように親切にしてくれたし、屋敷で働く使用人も気さくで、街の人々も余所者である茉莉を自然に受け入れてくれた。
何よりも、エツィオに出会い、茉莉は恋をした。
もう二度と会うことは叶わないとしても、結ばれることはないとしても、一生をひとりで過ごす中で、その恋を茉莉は守り続けていくだろう。
スフォルツィーネ卿と別れの挨拶を交わし、彼が頷くと、御者が鞭を振りかぶる。
その瞬間、スフォルツィーネ卿の脇をすり抜けて茉莉に手を伸ばす陰があった。
エツィオだ。
エツィオはその美しい髪に太陽の光を映しながら、茉莉に何かを差し出す。茉莉が咄嗟にそれを受け取ると、ほっとしたように、整ったかんばせに微笑みを浮かべた。
「貴女の旅路に幸多からんことを。……マリ様」
馬車が出る。
最後の言葉は聞き取れなかったが、身を乗り出した茉莉には、彼の口が「いつか」と動くのが見えた。
――いつか必ず、貴女のもとへ。
茉莉は今度は首を横には振れなかった。
ただただ、下唇を噛み締めて、エツィオに手渡されたもの……手紙を抱きしめながら、小さくなっていく屋敷を一心に見つめ続けた。