豚領主は目覚めた
シャロンにお仕置きされた豚領主代理の、牢獄の中でのお話。
――暗い暗い、闇の中だった。
私は、今日もそんな中で朝を迎える。じめじめとした独房の中、響いてくるのは巡回の兵士の足音だけ……。
喜びは、ここには無い。
なぜ、このようなことになったのだろう。
いつから、どうして、……そうなってしまったのだろう。
考えて考えても、答えに行き着いたことはない。
一か月……そう、ほんの一か月前まで、私の計画は着実に進んでいた。狂いはなかった。陛下から直々に、彼のランスリー公爵家の領主代理を命じられた、この私。もちろん根回しは怠らずに、使える手立てはすべて使って私にこの役が巡ってくるように仕向けたのだが……。
ランスリー公爵家を狙うものは多い。陛下に媚びを売りたいものや実力を誇示して更なる地位を手にしようと考える者も多いだろう。私の努力が実ってまんまと領主代理の座を手にした時には、周囲の貴族どもは歯ぎしりをしたことだろう。それだけ、ランスリー公爵家には価値がある。
例えばその土地の豊かさ、広大さ、そもそもの治安の良さ。そのくせ『ランスリー家』には親族は少なく、要らない文句を言われる可能性が低い。しかしながら、その血に宿った天賦の才は本物で、建国よりもかつてから忠実なる王の臣下である筆頭公爵家。
――そんな公爵夫妻が亡くなった現在、ランスリー家に残っているのは十にもならない小娘一人だった。社交界に流れる噂ではずいぶんと臆病な娘で、両親を失ってからは抜け殻も同然。
操りやすいことこの上ない、とだれもが思ったことだろう。私もそうだ。都合がいい、と思った。屋敷に住まう公爵家直系の娘が愚鈍であればあるほど、私の計画を邪魔される危険性は下がる。
そう、思った。――思って、いた。
そして実際、領主代理として初めて娘に会ったときに受けた印象は、その想像を裏切ってはいなかったのだ。
だから、私は自由に動けた。私の目的を果たすために、まい進できた。その有り余る財産も、傅く愚民も、全てが都合がよい代物であったのだ。
なぜならば、これで。私は、やっと。やっと―――――、彼女のもとへ、いけるのだと。
……ルイーズ。ランスリー公爵夫人となった彼女。婚姻前の名を、ルイーズ・アーテマンド。アーテマンド辺境伯家の令嬢であった、美しい人。
覚えているだろうか。いいや、彼女は覚えていなかっただろう。けれど学院で友人と笑いあう彼女を、私は、ずっと見ていた。見て、いた。近づくことも出来ない小心者の私だったけれど。それでも、私は。……結局は声もかけられずに卒業したけれど。
――そうして初めて間近で会ったのは、あの戦争で。そこで、確かに私は彼女に命を救われた。彼女は、私の、女神だった。
誰よりも美しく麗しい、私の、女神。私に釣り合うはずもないことは、わかっていた。昔からの婚約者であったアドルフ・ランスリーと仲睦まじいと聞いてもいた。……仕方ないと、わかっていたのだ。
けれど。でも。彼女は、もう、この世にいない。
――いない! 私は私の女神がいないこの世界で生きてはいけないのだ。けれど彼女は他人の死を望む女性ではなく、そしてランスリーの土地を、愛していた。だから私は領主代理になって、私は。
……でも、それでもすべてを、彼女が大切にしていた領地、領民と一緒に、私も逝こうと思った。彼女に殉じる。それが、私ができる彼女への、私の女神へ捧げる信仰なのだと、強く強く、思った。そこまで思いが強くなったのは、いつからだったのだろう。思い出せない。でも目的ははっきりしていた。この土地ごと壊して、私は。
……しかし、計画は狂った。狂ってしまった。なぜ? どうして? 何を見落としたのか、最初は気づかなかった。なぜならば気にも留めていなかった。
あの、すでに壊れてしまったはずの少女のことなどは……。
いや、ランスリー公爵夫妻が亡くなってから半年ほどたったころから、彼女の様子が少々変わったことには気づいていた。
初めて会った時の少女の様子はただの美しいだけの人形そのもの。喋らない、動かない、何の反応も返さない。そのアメジストの瞳は淀み、闇色の髪は余計に見てくれを暗く印象付ける。彼女の母・社交界の華ルイーズ・ランスリーとうり二つな顔貌のすべてを台無しにする幽鬼のような少女。
……そんな少女であったが、階段から落ちて熱を出すという事故の後からは正気を取り戻したのか、多少は人間らしい生活をするようになっていった。
注視していたわけではない。基本的には本を読んでいるだけではあったが、生きているか死んでいるかもわからないような哀れで気味の悪い状態よりはいいと思った。知恵がつくのは面倒ではあるが、大したことはできまい。『ランスリーの紫』を持っていようと、その身に秘めた魔力が化け物並みの膨大さであろうと、所詮は齢一桁の小娘であるのだから。
そう、思っていたのだ。
ただ、正気を取り戻した娘はやはり私の女神に瓜二つの面立ちをしていて、心ひかれなかったかといえばうそになる。私の女神の娘、成長すればますます彼女に似るのだろう。ならば成長した娘を女神の依り代として、共に果てれば、私はそれこそルイーズとともに殉じたことになるのではないだろうか……。
正気を取り戻したところで、結局は無知で、無力で、哀れな公爵令嬢。私の女神によく似たその顔だけがあれば、と。その少女は私にとってその程度の価値しかなかった。
……けれども。
私はやがて、その考えが全く持って見当違いも甚だしい、むしろそう考えた自分にいっぺん死ねと言いたいぐらいの阿呆な認識であったと身をもって知ることになるのだ。
今も、鮮明に脳裏に浮かぶ。
……それが起こったのは、ひどく静かな夜であった。今まで私と極力接触をしなかった娘が、私に面会を求めてきたのだ。訝しくは思ったが、特に警戒すべき要素も見いだせなかった私は、娘を部屋の中に招き入れた。
――それが、事の始まり。
入室してきた娘は、なぜか独りではなかった。メイド、侍女、執事、……。ランスリー家の使用人の中でも統括の立場にある者たちを引き連れ、ぞろぞろと入室してきた。その異様な光景に目を丸くしていると、ゆっくりと娘はお辞儀をする。
「お時間をとっていただき、ありがとうございます。……領主代理様?」
そして、あげた顔には輝かんばかりの笑みが浮かべられていた。
「……何の用だ」
あまりの輝かしさに動揺を押し隠し、短く聞けば娘はぱちりと指を鳴らす。
「ご報告がありまして……ね?」
聞いたこともないくらい、心底、楽しそうな声だった。しかしそれに眉を顰める間もなく、彼女が私に提示したものを見て――戦慄した。
それは、私が今まで行ってきた不正の証拠の数々だった。領主代理におさまるために駆使した些細なものから、気を配って権力の限りを尽くして情報統制したものまで、網羅されていた。――長い長い、気の遠くなるほどに長いリスト。
「な、なっ、なっ……」
なぜ今、こんなものがここに!?
その叫びはあまりの動揺に声にならない。そんな私とは反対に、娘はいよいよ輝いていた。
「嫌ですわ、お忘れになりましたの? あなた様が今まで行われてきた行いの数々ではございませんか? 領主代理様に置かれましては仕事熱心なことですわね、うふふふ」
いよいよ輝いていた少女はしかし、その瞳は全く笑っていなかった。私は盛大に顔を引き攣らせる。
「な、この、こんなもの、揉み消せる! 私の力なら……! お前たちさえいなければいいのだ、おい、この小娘を――」
捕えろ、と言おうとして、そこでようやく私は味方などいなかったことに気づいた。
いったい、何が起こっている? 意味が分からない。いつの間にこの小娘は根回しを完了させていたのだ。
「あらあら、味方がいないようですわね? うふふ、この屋敷の使用人さんたちはみんなとおっても優秀で、協力的でしたわ……」
「な、な、な」
ならば魔力で! と思った。私も貴族、魔術の心得くらいはある。
――が。
「発動しない!?」
「まあ、困った人ですわね? 私が魔力封じをこの部屋に仕掛けないとでも思っていらっしゃるんですか?」
お・ば・か・さ・ん☆
言いながら、こつこつと近づいてくる娘。その体躯は、間違いなく貧弱な少女のものなのに、冷汗が止まらなかった。圧倒的な体格差がある少女と私では、魔力が使えずとも力づくなら負けるわけがない。負けるわけがないのに、なんだ、この少女が醸し出す強者の風格は。
私の身体は動かない。まるで、どう猛な肉食獣を前にしているかのような錯覚に陥っていた。
「――あらあら、どうなさったの? そんなに汗を流して……。ふふ、火をつけたらよく燃えそうねえ?」
こんがりまずそうな焼き豚の出来上がりですわね?
……私は、その眼に本気しか感じなかった……。
――――――――――――そして。
それから、私は娘に馬車馬の如くこき使われた。私の今までの行いのツケを、私自身が払わされた。その間、娘にはけられるし罵られるし踏まれるし踏まれるし踏まれるし……。十キロくらいは痩せた。
娘は、笑顔だった。
いったい今までその本性をどうやって隠していたのかと思うくらいに生き生きしていた。――私は、ひたすらに娘に従い……
娘は笑顔だった。
屈辱だった。羞恥で焼き切れるかと思った。渦巻く感情は、しかしやがて、いつからか私の中で一つに収束していくのだ。
娘は、本当に笑顔だった。
けれども、彼女は私を許しはしなかった。そして、さばきを待つため牢獄に放り込まれ今に至る。
……あの娘。シャーロット・ランスリー。
本当に何を間違ってこんなことになったのだろう。判らない。いつからだったのだろう。暗く狭い、独房の中。ここには喜びはない。ああ、寝言で少女の名を呼ぶほどだ。そんな私が今、あの彼女の顔を見たら、どうなってしまうかわからない。
わからないが、多分。
多分、知らず身体は震えるのだろう。少女が醜いと言って睥睨した涙を流すのだろう。
――歓喜で。
いつからだろう、あの少女に虐げられるのが、快感に変わったのは。あの蔑むような目を求めるようになったのは……! 遥か年下の小娘に蹴られ、踏まれ、貶められている。
何という背徳感……!
辱められることすらも快感に変わった瞬間の恍惚は筆舌に尽くしがたい。いや、そもそも少女の麗しきかんばせは私の女神、ルイーズに瓜二つ。そしてルイーズも、その正義に反する行動をする男には容赦のない『血まみれ聖女』であった。ああ、ああ、そうだ! シャーロット・ランスリー。彼女は第二の我が女神そのものではないか! 言葉責めをされるたび、虐げられるたび、もっとと体が求めてやまなかった。今となってはなぜあの土地で果てることにあそこまで執着していたのかもわからないほどだ。
けれどもこの牢獄にはそれがない! なんて欲求不満……!
的確な蔑みの言葉も汚物を見るような目も容赦なく急所を踏み抜く人物も、ここにはいない。何てことだ。このまま、私は死んでゆくのか……。
――ああ、願わくば。
もう一度……。
踏んでくれないだろうか?
✿✿✿
その頃、ランスリー公爵邸にて。
「――塩よ」
「え?」
「メリィ、今すぐ大量の塩を用意しなさい」
本から不意に顔を上げ、私は命じる。
「シャロン様?」
メリィが私を見て、眉を顰めた。うん、私も何故こんなことを思い立ったかはよくわからない。根拠はない。
だが絶対に今、必要だと思ったのだ。
何が?
――大量の塩を、これでもかと散布することが。
「塩ですか?」
「塩ね」
「なぜ塩なのですか?」
困惑したように尋ねられる。うん、そうなるだろう。でも我慢できない。即答する。
「邪気よ」
何故だろう、私は大人しく読書にいそしんでいたはずなのに、突如とてつもなく禍々しい気を感じた。悪寒がした。今すぐ摩滅しなければと思った。
「――結界も張りましょう」
困惑するメリィを置いて、私は迅速に、実行に移ったのだった。
奴は目覚めてしまった。