序幕 劫末
暗く淀んだ虚空の下、遍く地上総てには地獄が顕現していた。
沸々と沸き立つ煙は逆巻く火炎と共に巻き上がり、戯画のようにうねり狂う。往来する人々は姿を歪め形を歪め、常軌を逸した姿で踊り狂う。諸々の生物は、白目を向き、口蓋を開いて涎を垂らし、魔都と化した平安京を闊歩している。
糜爛の徒と化した人々が地を踏むたびに、地平に移る山川草木の悉くが、枯れ、朽ち、燃え、砕け、滅びの運命を辿っていく。
その中で一つの歌が響く。数多の魂が、幾多の狂気を重ね、奈落の旋律を紡いでいく。
『 かごめ かごめ かごのなかのとりは 』
彼らが向かう先には、ただ堆い火柱が聳え立つのみ。そこが果たして如何なる歴史を紡いできたかなど、今や判別できない。
地表を往来するのは、骨秀で痩せ切った餓鬼の群れ。盆踊りに興ずるように、都の炎を巡る形で屍たちが死の舞踏を舞っている。さぁいざ極楽往生せんと、即身仏共は謡いながら踊るのだ。
火柱に向かって一人、また一人と身を投げていく。最期の一瞬まで狂った嗤いを浮かべて、民衆は燃やされ消えていった。
『 いついつでやる よあけのばんに 』
絶望に満ちた地面より目を背け、空しくも希望を天に求めども、その空に太陽はない。代わりに、淡い黒の光を放つ三日月が、反転した太陽のように空を不吉に染め上げていた。さながらぽっかりと空いた溝のように、総てを呑み込む引力すら感じさせて君臨している。
直視すれば正気でいられない、瘴気の塊。たとえ魔導、科学に通じぬ人間でも、その脅威を直感的に悟ることが出来たであろう。
その悍ましさ、計るまでもなく致死に値すると、あらゆる人間は知っていた。
『 つるとかめがすべった うしろのしょうねんだあれ 』
狂わずにはいられまい、畏れずにはいられまい。理由も因果もない、漠然とした不安。その迫りくる脅威に対して、人が取れるのは逃避のみ。
これは救いだ。救いの光だ。兜率天の主が新天地へと誘う手招きだ。この果てにこそ求めし世界が存在する。手を伸ばせ、手を伸ばせ。
そうとでも思っていなければ、きっと頭がおかしくなってしまう。
その思考そのものが、既におかしくなってしまっている事にも気づかずに、往来する人々は無心に平伏する。その畏怖が何に対して向けられているのかさえ忘れて、延々と。
荒唐無稽にして意味不明。何を以て常識とすべきかも、今や口にすることは憚られる。
されど滅びとは往々にしてそういうもので、理不尽な理由で無意味に発生する。そこに因果も縁起も存在せず、ただ圧する理の暴力のみが厳然と存在している。
故に此処に救いはない。救済や希望が人の手によって成される奇跡と呼ぶならば、堕落や絶望は理の法にて成される秘跡であり、そこに観念的なやりとりなど無意味となる。
応報されるべき因果もなく、納得するべき条理もない。人の理解の外という魔境から溢れ出た一端は、同様に人の理解を超えた災厄を齎すのみ。
「あ、う……」
その酸鼻たる風景の中で、一角の屋敷の塀にもたれかかりながらも呻き声を上げる者がいた。地獄の中で唯一正気を保っているその娘もまた、例にもれず滅びの運命を辿っていた。
学生服の裂け眼から見える身体は髪膚に至るまで生々しい傷痕が刻まれており、そこから溢れ出る血潮の量はとっくに致死量を超えて余りある。壁に身を預けているとはいえ、立っているだけでも奇跡的と言えただろう。
だが少女は、その場で歩を休める事を肯じなかった。
「ッ、づ……!はぁ、はぁ、はぁ……」
怜悧な顔を苦痛に歪ませ、玲瓏な髪を振り乱し、荒く息を乱しながらも、彼女の進む意思には影一つ差さない。
少女は歩む。歩み続ける。虚ろな双眸に力を入れ、両眼をぎらつかせながら、蹌踉たる足取りで延々と歩み続ける。
己がやらなければ、誰もやらない。己を助けてくれる者などいない。そうハッキリと信じているから、彼女は決して止まろうとしない。
この生き地獄においては、空さえ人を照らしてくれないのだから。
現世のさかしまを具現させた空は、太陽とは逆の代物を浮かべている。虚空に据えられた空亡は、現世の滅日として顕現していた。三日月のカタチを取って現れる闇の曙は、まさしく祭りの終わりを告げるが如く劫末を演出している。
此処こそが奈落の底と宣言されたとしても、何の疑いもなく納得してしまうだろう。いや、或いは苦痛を助長させるだけの地獄よりもずっと慈悲深いものなのかもしれない。
末法の果て、大黒天の日。どうあがいても避けられぬアイオーンの分岐点。直ぐ目前に迫った死に、彼女もまた哭いている……かのように見える。
「そん、な……」
しかし、そんな中で彼女は全く別の事に対して絶望していた。
これほど濃厚な死期と禍因が満ち足りているのに、。
何故。何故『死ねないのか』と悲嘆するのだ。
これで終わりではないのか。
皆が滅ぶのではないのか。
これ以上の滅びを求めて、一体何になるというのだ。
そこまで、そこまでして――一体、何を求めるというのか。
恐慌の余り、無意味な訴追の声が喉まで出かかるも、その言葉が放たれる事はなかった。
無意味に叫び回る時間さえ惜しい。己はせねばならぬ事がある。荒い息をつきながら、無理矢理にでも前進する。壁に身を寄せ、這ってでも、死しても前に進まんとばかりの気迫で満身創痍の身を引きずる。
足を引きずり、身体を引きずり、無事な腕だけを十全に動かして。歩み続けた果てに、少女はその者を見つけた。
幾千もの人々が狂喜乱舞する中、炎を背後に悠然と佇む紫色の姿影。その姿は地上にはなく、数多の餓鬼の屍山が築かれた羅生門の上に佇立している。
こいつだ。
この男だ。
ただならぬ歓喜と殺気と憎悪と恐怖が綯い交ぜになった狂騒の眼光を飛ばし、中空に佇むその男を睥睨した。殺さねばならぬ敵、屠らねばならぬ妖、それを目の前にして、少女は己の血が引いていくのを感じた。
一挙手一投足、その全てが心筋を乱し、血管総てに行き渡る血潮が撹拌されてしまうような錯覚さえ覚える。現状、空に浮かぶ暗黒の太陽などよりも、目の前に立つこの男の方がどれほど恐ろしい事か。
「ほう――未だ健在だったか。なかなかどうして剛毅な事だ」
対する男は、誰彼に話すともなく独りごちるように口を開く。威風堂々と、泰然と。しかしそれだけで、確かに辺りを包む空間が二倍三倍に重くなったのを感じた。
この地上に現界せし霊王。紫極に坐し、閻浮提を総べる魔王の姿がそこにあった。
紫の髪が掛かる白皙の肌に銀の双眸、眉目秀麗と形容するに十分な美形は、既に魔性をも帯びているかのようなカリスマを秘めている。まっとうな神経の持ち主が直視すれば、意味も因果もなく狂ってしまったに違いない。そう、今まさに街を征く人々のように。
人智を超えた域で諸生物の上に君臨する姿は、疑うまでもなく人外のモノに他ならない。
居るだけで、見るだけで、触れるだけで総ての感覚を壊され平伏してしまうかの如き王者の風格。底知れない異様な覇気は、まるで巨塔を前にしているかのような圧巻さを感じさせた。
「あ、あ……」
それを前にして、朽ちゆく少女はどうすればよかったのか。
何かを口にしようとするたびに、カクカクと頤が揺れる。喉から声が出ず、息をする事もままならない。体中の筋肉が、只の一瞥で弛緩して、気が付けば緩んだ涙腺から恐怖故の涙が零れていた。
足が震え、立ち続ける事さえもままならない。がくりと膝をつき、どうしようもない絶望に打ちひしがれたかのように、顔がくしゃくしゃに歪んでいく。
「韜晦はやめておけ。お前は何も辛くは無かろうがよ。良い笑顔だ、この上なく闘志に満ちている。まだ折れてはいないと――暗にそう告げているぞ。なぁ、ウルカパータ……」
「くら、ま……!」
歪む顔の口元だけが壊れた笑みを湛えていた事に、気付かないのは当人ばかり。今確実に、少女――ウルカパータはこの邂逅に喜び、憤怒していた。
天壌を支配する闇の太陽、空亡による発狂などでない、明確な個人に対する殺意。殺す、殺す、この男だけは絶対に。彼女が未だこの場の中で意識を保てていたのは、この狂奔があったからこそだろう。
「遮那人――!!」
ウルカパータは立ち上がる。少女としての身体を襲った無力感を振り払い、戦士としての身体に作り替えて踏破していく。人の感情、生物の本能を超えるのは、胸襟より溢れ出る意志だ。逆転する生存本能に抗うだけの意思の力を持つ少女は、己の身体を叱咤して立ち上がる。
その様を何処か焦がれるような眼で見つめる男――鞍馬遮那人は、喜悦を混ぜた声音で続ける。
「それに、最初に約束したのはお前の筈だがな。我らを滅ぼし、空亡を消し、この魔縁の祟りを退ける為なら、七生悉く費やしても構わぬと。この予に対して切った啖呵を忘れるなよ。
少しは魅せてみよ。この世は、お前が踊る為に設えられた能楽舞台なのだからな」
さも愉快げに語る鞍馬に対し、ウルカパータは泣き笑い、そして怒りながら拳を握る。既に決着がついたと思うな、まだこの身は健在だ。今こそ忌まわしき輪廻に幕を引かせてやる。無言でありながら、彼女の意思は鞍馬には言わずとも理解がいった。
四劫を廻す灯籠となって、籠目が旋回する。この地を覆う六芒の星が、童歌に乗せられて、無数の怨恨と魂を循環させる。空亡を讃える能楽舞台は今此処に。
今宵を最後の神能にせんと、依然として優雅に構える相手に対し、少女は掌訣を結び構えるが……
「ッ!」
それが確たる力を発する前に、異変は生じた。
悪意の濃霧が立ち込める。気が付けば二人の間に水煙のような微細な影が、地表から溢れ出ていた。ぞくり、と背筋に寒気を感じる。
ウルカパータは思い出す。魂の芯から人の心を冷却するこの霧は、己も良く知っているあの男の――
「――ハ、この様子じゃ此処も〝ハズレ〟か。まったく手間取らせやがるぜ、何度もセッティングさせられる身にもなってほしいもんだねぇ、ああん?」
鞍馬の傍らから声がする。ジャミング掛かった虚ろな声。甲高く挑発的な口調で語る青年のそれは、響いたと同時に発声源から空を歪めていく。
湧き上がる熱気のように、蜃気楼の陽炎のように、霞を帯びた幻影が虚ろな像を結んでいく。
それが形取ったものはヒトガタ。皓歯のように鋭い八重歯と、血濡れのように朱い髪。気を狂わせるような赫に赫に赫を塗り固めた像は、地獄絵巻の獄卒が現実に現れたかの如き不快な色に満ちている。
少女の額から汗が滲み、より一層の殺気が溢れ出す。眼前に立つ魔王の姿さえも霞む憤怒の相で、現れた幻影を睥睨する。
貴様のような『あってはならないもの』が、私の前に立つな。何をしに来たやめろやめろやめろ……。
「キ、ヒャハハハハハハァ――! しっかしオイオイオイ! 見事なくたばりっぷりじゃねぇかこりゃァーよォ! どこもかしこも綺麗さっぱりくたばってやがる。
いいぜいいぜ、どんどん消えろや。糞共が、オレサマの進む道に、手前らみてーな排泄物要らねぇんだよ……ケキ、キヒヒヒヒ!」
そうして現れた影法師の姿は、人のカタチを取りながらも、決して人間と呼べるものではなかった。ケタケタと総てを嘲笑うように哄笑する姿は、夢幻などという言葉では片づけられない程の迫力を有していた。
実体がそこに無い、虚ろな影の言葉でありながら、紡ぐ一言一言が己の魂を揺さぶり、心を退廃させる。
総てを憎み、総てを嗤い、悪戯に賽の目を変える運命のトリックスター。
其処にあって、此処にない。偽りの希望を与え、狂わせ、惑わし、破滅させる事に悦を感ずる砂漠の上の蜃気楼。
これが夢幻と言うならば、それは白昼に見る悪夢であり……何時如何なる時も逃げられぬ、人が憎むべき絶望の塊だ。
「ほう……貴兄か。随分と上機嫌なようだが、結局の所今回も失敗だと言う事で間違いはないんだな」
「おォ、見りゃわかんだろ? ありゃ駄目だ、完全なカタチを成してねぇ。朔日じゃあ意味ねぇんだよ、一割どころか一パーも役を果たせてねぇ、精々が此処一つで限界だろうさ。
手間かけさせやがる、まーたやり直しだ。残念無念、また来年ってかぁ? クキ、キヒハハハハッ……!」
言葉こそ無念がっているが、その口振りは喜悦を抑えきれずにいる事がありありと窺える。この男は、楽しんでいる。嬲る事を。弄ぶ事を。
使い捨ての玩具を壊し、砕いて楽しむかのように。
そうだ、あの目だ。ウルカパータは双眸を凝らして、相手の爛々と輝く眼を凝視する。
あの目だ、あの輝いた眼だ。
あんな――〝戯れに夢中になる子供のような目〟で、あの男は私の――!
「お、オオォォォォォォォォォッッ!!」
こいつだけは。こいつだけは滅ぼさないと気が済まない。
ウルカパータの中に渦巻く憤怒の念が、今一度剣柄を握らせた。勝ち目のない、終わりの見えた、終わりの戦いを始めんと、怒気と殺意の残り香を焚いて奮迅する。
獅子吼と共に少女は飛び跳ねるように立ち上がり、剣訣を結んだ指で鞘を一撫でする。直後、まるで独りでに飛び出たかような自然さで佩いた妖刀を抜刀した。遠心力とを以て勢いよく引き抜かれた抜刀術の冴えは人間業を超えている。
刹那の内に振るわれた刀に宿るのは『緋』の『禁咒』の力。五色の内、最も攻撃に秀でた色彩の妖力が織り成す加持は、呪術の式を防ぎ封じる解呪の禁厭となっていた。
一切邪辟、天魔覆滅。化外、化生を屠るべくして鍛え上げられた自慢の魔剣を、少女は満身の力を込めて一閃する。
袈裟に、胴に、兜割りに、常軌を逸した速度と精度を孕んだ剣舞となって、蜃気楼の男に幾重にも殺到するが……
「んあァ?」
その一切が、男の像を通り抜けていった。剣舞が引き裂いたのは空のみであり、男が何の痛痒も抱いていないのはその態度からして明らかである。
僅かに乱れた像は陽炎のように揺らめき揺蕩い、やがて元の姿を取る。呆気なく再生を果たした男の影は、まるで蚊に刺されたような、不快ながらも苦痛を窺わせない様子でぼりぼりと頭を掻いていた。
「なんだお嬢、まだ生きてたんかい。んなケツ振ったって、なーんもやんねぇぞー。わかってんのかぁ?」
無理もない、霧を切ってもその実態は消えない。それがたとえ辟邪の法理を宿しているとしても――『緋』の『隠形』という不定形且つ強大な式を常時纏っている存在に正道の攻撃など意味を成さない。
そして何より、同じ『緋』の式でありながら格の違う男を前にしては、如何に苛烈な斬撃をくらわそうとも通用しないのは道理だろう。火はより大きな火に呑まれるものであり、比和の関係は結局の所質量の争いに終始する。
故に、質量の位階で劣る少女はどうあがいてもこの男を斃せない。
だが、それでも。
「何度、……!」
「あ?」
「何度繰り返せば、気が済む……、貴様等……! 私をいたぶるのが、そんなに、楽しいか――! 私一人を責めればいいだろうが、何故こんな、こんな……っ、答えろ、眞ッ!」
嘆きと共に、刃を振るう。裂帛の気合いが籠った必殺の首狩りも、しかし無残に空を切る。効果がないと知りながらも放つ様は、相手を殺傷するよりも何かを訴えかけるようだ。
血反吐を吐きながらも希う相手に対し、陽炎の男はケタケタと嘲笑いながら答える。その声音には、相手を嬲る色がありありと窺えた。
「何言ってんだテメー。どうせ皆死ぬんなら、何だっていいじゃねぇか。一人殺そうが百億殺そうが、ンなもん変わりゃしねぇーよ。
つか、そう思ってんならもっと早く舌なり噛んどきゃよかったんじゃねぇのかァ?
それとも――」
首だけになった男が、息のかかる程に迫り、囁く。
甚振り、詰り、舐めまわすように。
「何か? お前『自分が殺す』のが嫌なだけ? 『自分じゃない誰かが殺す分には構わない』ってかぁ? 手前が殺したくねーから、手前らちゃっちゃと終わらせろって?
いやお前、ドン引きだぞそりゃ。阿婆擦れってレベルじゃねぇし」
「ッ――!!」
今にも歯が欠けんばかりに強く食い縛り、柄を握る手から血が滲み出す。かたかたと音を立てる鋼の刃は、彼女の沸々と沸き立つ怒りを代弁しているようにも聞こえた。
待て、落ち着け、激昂した所でこの男には届かない。確実に殺す為にも、今自棄になってはいけない。
「キッヒヒ、そうカッカすんなや。テメェがそんなツマんねぇ女じゃねぇってことぐらい俺様百も承知だから。てか、そうじゃなかったらとっとと切り捨ててたわ。テメェ程の道化、もう何処にも見えやしねぇしな。
いやぁー、残念だったなぁ『ソイツ』。時間切れで燃料切れ、根負けして泣き言抜かしながら逝ったみてぇじゃねぇか、ええ? 死にたくねぇって、こんなことなら関わるんじゃなかったって。
可哀想だよなァーったく、魅入られちまったが為にこんな事になっちまうたぁ、いやはやまったくままならねぇわ。
ま、そう気ぃ落とすなって! 代わりはまた今度用意してやっから、楽しみに待ってろや、なぁ? クククキキカカカカカカカッ……!!」
ぷちん、と。何かが切れる音がした。
「―――!ッォォオオオオアアアアアアアアアアッ!!」
少女は吼える。吼え猛り、激情に任せて刀を振る。雄叫びのつもりで開いた喉から溢れ出た声は、慟哭に近い痛ましさを孕んでいた。
未だ手元から離れない剣柄を握るのは、憤怒にも似た感情の発露以外にない。ただ目の前の不愉快な幻影を断ち切りたいと、その一心で不乱に刃を振りぬく。
そこに型や技術などない。遮二無二に、我武者羅に、激情のみをぶつけに掛かる。しかし……
「だからァ、無駄だっつってんだろォがこのクソガキがァ!」
男の一言と同時に、その姿が爆ぜた。いや、男の像を成す陽炎、熱量の塊が爆裂したのだ。それは視覚的のみならず空間的に有効範囲を歪ませる灼熱の怒気となりて押し寄せる。迫る熱波をモロに受け、少女の矮躯は軽々と吹き飛んでいった。
しかしそれで逃がしはしない。中空で揺蕩う朱い影が、先回りして磔の十字架の形を成して実像を結ぶ。本来実体のないその壁に叩きつけられた少女は、成すすべなく無形の壁面に叩きつけられた。その様は磔にかけられた救いの主の如きもの。
尤も、そこに聖性などありはしない。続いて幾重にも後に飛来する炎の剣が体へと殺到し、数センチ刻みに縫い留めていく。
「あが、ァ……っぐぅ!? づッ、あぁ――!!」
激痛に身を焼かれ、身体中の酸素を焼かれ、悲鳴は悲鳴として漏らす事すらできず、喉の奥で蟠る。しかし。それでも。それでも尚死なない。いや、死なせようとはしていない。拷問とは痛めつける為にあり、それで殺すようでは欠陥品だ。
この陽炎が生み出す虚実不可解なる焔は直接人間を害さない。炙られていながらも、その姿が燃える事はない。燃やすのは魂、削るのは気力、気息諸共奪い尽くす浄滅の炎が、少女の中で幾重にも重なり、焼き焦がしてゆく。
「手前はそこで大人しくしとけやァァ、ゴキゲンな俺の気分に感謝するこったなぁ? 何度でも、何遍でも、俺たちゃ手前の味方だからよ……そらそらァ、今からでも遅かねぇ、もっとキバれよ、なァ?
キキキ、キヒヒヒャハハハハハ――、イヤァーーーーーーッハッハッハッハッハッハァーーーーーッ!!!」
耳障りで悪辣な哄笑は、殷々と滅びの空に溶けていく。身体も心も焼き焦がされ、遂に精も根も尽き果てんとしながら、少女はその下卑た高笑いを耳にしていた。
何が悪かったのか。どうすればよかったのか。いや、どうすればいいのか。わからない。わかる筈もない。
けれど、唯一確かな事がある。
己は死なない。生き続ける。生き続けて、総てが終わる一瞬まで生き続けて――
まだ次がある。そう、これが終わりではないのだ。もう一度、もう一度だけ。今度こそ奴らを滅ぼし、真のあるべき形に戻そう。きっとできる。きっとやれる。何せ時間は幾らでもあるのだから。
そう……そうとでも思っていなければ、きっと頭がおかしくなってしまう。
『 かごめかごめ かごのなかのとりは 』
消えゆく意識の中で、聞こえてくる歌がある。それは懐かしくも愛おしく、何より嫌悪すべき忌々しい旋律。軽やかな音色と、歪な声にて紡がれる童歌が響く。
ああ、またか。意識が霞み、耳に届く音色がくぐもっていく。さながら眠るような安らぎの中で、磔の少女は旅を始める。
『 いついつでやる よあけのばんに 』
四劫を廻す灯籠となって、籠目が旋回する。籠の中の鳥を育む為に、機械的に揺れ動く。
この果てに何が待つのか、ただ暗澹たる思いが錯綜し……
『 つるとかめがすべった うしろのしょうねんだあれ? 』
断末魔の叫びさえ上げる事も叶わず、少女の魂は堕ちていった。