表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

斎藤さんと私――女子大生と幽霊サラリーマン

作者: 姿月あきら

 私には幽霊が見えるらしい。――ああ、待って! 引かないで欲しい。電波とか中二病とか、私はそんな頭が残念な人ではないつもりである。確かに夢見がちとか言われることもあるが、基本的にオカルトは苦手な方だし、結構現実主義者なつもりだし……。

「なあ」

 聞こえない聞こえない。誰もいない一人暮らしの部屋から男の声なんて聞こえるわけが無い。

「おーい」

 見えない見えない。スーツ姿の中年親父の姿なんて、見えるわけが……。

「おいって!」

「うるさいなあああ! 今絶賛現実逃避中なんで私にかまわないでくださいませんか!」

 私は絶叫した。そして、一瞬置いて後悔する。ああ、明日隣の部屋から苦情が来るかもしれない。ここは学生用のアパートなのだ。今まで近所づきあいは上手いことやってきたのに。


「……すまない」

 私が怒鳴りつけた相手は、半透明ながらしゅんとしてうつむいた。よれよれのグレーのスーツ姿で、見るからに疲れた様子の四十代ぐらいの見知らぬ男性。彼は幽霊らしい。……いや、私も初めは疑ったけど、何しろ半透明だし足とか見えないし、壁をすり抜けて見せたりするものだから、これがドッキリで相手がとんでもないマジシャンか、それかミスター○リックばりの魔術師でない限り信じざるを得ないじゃないか。

「いや、あのすみません。気にしないでください。ちょっと動転しちゃって」

「そうだよなあ。あはは」

 頭を掻きながら笑う彼は、「斉藤さん」と言うらしい。私が大学から帰ってくると、何故かアパートに居たのだ。先週実家から送ってもらったばかりのベージュのソファの上でふよふよと浮いていたものだから、私はその場で卒倒しかけた。いやむしろ卒倒してしまいたかった。そして次に気がついたら全ては夢だった、というオチだったらどんなに良かったか……。しかし私はその場に固まったまま、申し訳なさそうに笑う彼を見つめることしか出来なかったのだ。


「……で、どうしてここに居るんですか?」

「それが分からないんだよねぇ」

 私の質問に、彼は心底申し訳なさそうに呟いた。

「いやね、気がついたらここにいたんだよ。出て行こうとしても、出られないんだ」

「へ!?」

 驚愕した私の顔に、斉藤さんは苦笑いする。

「まあ、見ててくれないか」

 斉藤さんはふわり、とその場から浮いて漂い、壁を抜けて行こうとする。すると、上半身が壁に飲み込まれて見えなくなったところで、その横からずるり、と人の頭が出現した。

「ひいっ」

 それはやっぱり斉藤さんの頭で、彼の中肉中背の体が半分ずつばらばらになったように見えた。なかなかキモチワルイ光景である。それでも体が半透明だし血なんかも無いので、スプラッタな光景ではないだけマシかもしれない。

「な?」

「な? じゃないですよ!」

「いやー。あはは」

「……」

 じと目で睨む私に、斉藤さんは頬を掻いた。

「すまないね。俺にも何が何だかさっぱりなんだ。確かに死んだはずなんだが」

 私は彼の口から出た「死」という単語にびくりとした。やっぱり彼は幽霊なのだ。ということは、人は死んだら幽霊になるのか。ふむ、大発見。

「えーと、それじゃ私に恨みがあるから呪い殺しに来たとか、そういうわけじゃないんですね……?」

「まさか。そんなホラー映画じゃあるまいし!」

 そう笑う斉藤さんはフローリングの床から数センチほど浮いていて、ホラー映画よりずっと現実離れして見える。むしろコントや喜劇みたいな……。――やっぱり夢じゃなかろうか。私は指で思い切り自分の手の甲をつねってみたが、凄く痛いのですぐやめた。

「なあお嬢ちゃん」

「……(かん)()です」

「柑菜さん。ちょっと話を聞いてくれないか?」

 私は余り気が乗らなかったが、聞かないとなんだかかわいそうな気がして、とりあえず了承した。

「じゃあちょっと、近くのコンビニで夕飯買ってきて良いですか? 話はそれからで」


 しっかりと鍵を閉めて、アパートを後にする。外はすっかり暗くなっていた。コンビニは歩いて三分程度で、私が普段週三で夜バイトしている場所だ。ドアを開けると、見知った顔がレジに居た。

「いらっしゃいませー」

 後輩の女の子で、確か高校二年生ぐらいのはずだ。私に気がつくと、彼女はぺこりと笑顔で会釈をしてくれた。少しだけ現実世界に戻ってこれたような気がして、ほっと息をつく。適当なお弁当を選んで、レジに向かう途中ではっとした。――幽霊って御飯食べんのかな? いやいや、さすがにそれは無いだろう。透明なくらいだし。私は頭を振ってよくわからない思考を振り払った。

「お願いしまーす」

 レジに商品を出して会計を待っていると、後輩ちゃんが私を見て首をかしげた。

「四百四十円になります……柑菜さん、なんか疲れてます?」

「え? うーん、色々あってねー」

 まさか家に幽霊が居たとは言えないので、適当にごまかす。彼は今も私の部屋でふわふわ浮いているのだろうか。


 アパートの自分の部屋の前で、私は一つ深呼吸した。もし今ドアを開けて部屋に誰も何もいなかったら。そしたらさっきのは夢だ。それか幻覚だ。もし幻覚だったらそれはそれで問題かもしれないけど……。

 がちゃり、とドアを開けて、小さめに「ただいま」と呟いた。脱いだ靴をそろえて、リビングに足を踏み入れる。

「おお、おかえりなさい」

 やっぱりというか残念ながらというか、そこには笑顔の斉藤さんが居て、彼は何故かテレビを観ていたのだった。

「ああ、やっぱり夢じゃなかった……というかなんでテレビ観てんだこの人なんで普通に馴染んでんだよおお」

 頭を抱える私に斉藤さんが頭を掻く。

「あ、勝手に付けちゃまずかった? ごめんごめん」

「いや、あの、別に構わないですけど……というか、どうやって付けたんですか?」

 彼の体は透けていて、壁を通り抜けてしまう。ということは、リモコンのような物を持ったりすることも出来ないはずである。

「なんだかね、『電源付け』って強く念じたら、付いたんだよね。面白いなーこの状態」

 自分で自分に感心したように言う斉藤さん。なんだかとても普通だ。普通のおじさん。私の父よりちょっと若いくらい。彼はどうして幽霊になって、しかも私のアパートに居るんだろうか。

 テレビではバラエティ番組がやっていて、最近人気の芸人が見飽きたギャグを連発していた。スタジオの笑い声が静かな部屋に響いて、今までになく不自然に聞こえた。


 小さなテーブルに買ってきたお弁当と冷蔵庫から出した麦茶のペットボトル、それに硝子のコップを置くと、私はとりあえず夕飯を食べることにした。横で見てる斉藤さんにはなんだか悪いけれど。

「……自炊はしないのかい?」

「いつもは作るんですけど、今日はそんな気にならなくて」

「そうか……野菜はしっかり食べなきゃ駄目だぞ」

「はあ……」

 彼は自分の娘にもこんな風にしゃべるんだろうか。温めてもらうのを忘れた冷たい御飯を口に運びながら、私はぼんやりそう考えていた。そういえば、このまま今夜斉藤さんはここに居るのだろうか。そしたらお風呂とか着替えとかどうしようか。別に、襲われるとかそんな心配は……ないのか?

「……」

 黙ったままお弁当を平らげていく私の横で、斉藤さんはテレビを見つめていたり私の様子を見たりしていた。やはり何か彼にも御飯的なものを買ったほうが良かったろうか。いやでも御飯的なものってなんだ。

「斉藤さんは、子供とかいます?」

 とりあえずずっと無言なのも気まずいので、声をかけてみる。

「いや、ずっと一人身だよ。寂しいおじさんさ」

「……なんかすみません」

「いやいや、気にしないでくれ。両親ももう亡くしているし、親族は兄貴ぐらいかな。でももう十年は会ってないなー。あまり気が合わなくてね」

 淡々と話す斉藤さんは、何でも無いような顔をしていたが、その目は寂しげに見えた。私はお弁当の最後の唐揚げを口に入れて、麦茶を飲み干してから、その場で姿勢を正した。幽霊といえど、年上の人の大事な話は心して聞くべし。テレビを消そうとリモコンに手を伸ばすと、斉藤さんは首を横に振った。

「テレビは付けておいてくれ。無音だとちょっと寂しいだろう」

「……はあ」

 私は伸ばした手をその場に下ろして、そのまま斉藤さんの話に耳を傾ける。彼はやっぱりふわふわ浮かんでいた。

「俺ね、いわゆるブラック企業に勤めててね」

 ――いきなり重い!! 自殺話ですか!?

「残業代も出ないのにハードワークだし、いい年して家族もいないし。死のうと思って」

 ――やっぱり。

「今朝駅のホームから飛び降りようとしたんだけどね……やっぱり怖くてね。それに、人間やっぱり生きてこそだよね。うん、そう思ってね、だから自殺はやめようと決めたんだ。あ、じゃあなぜ死んだのかって思ってる? だよねえ」

 斉藤さんは私の顔を見て肩を竦めてみせた。

「それがね、そのまま会社に行こうと横断歩道を歩いてたら、信号青だったのに急に車が飛び出して来てね」

 彼の言葉から先の展開が予想できて、ぞっとした。

「凄い音がしたのは覚えてるけど、そっからは分からないんだ。気がついたらここで浮いてたんだよ」

「……轢かれちゃった、んですかね」

「そうだろうね、きっと」

 それから私も斉藤さんもしばらく黙っていた。その間、テレビから不自然な笑い声だけ流れてきて、とても耳障りだった。それでも、何の音も無いよりは良かったかもしれない。テレビを付けたままにしろと言った斉藤さんは正しかったのだ。

「死のうとしても死ねないのに、生きようと決心したとたんにこれだからね。嫌になっちゃうねーまったく」

 ははは、と乾いた声で笑う斉藤さんは、最初に見たときより老け込んで見えた。この人は一体本当はいくつなのか。もしかしたら思っているより若いかもしれない。


「……これから、どうするんですか?」

 意を決して尋ねると、彼は困ったように笑った。

「とりあえず、君にこのまま迷惑かけるわけにもいかないし、成仏? 出来る方法を探すしかないだろうね」

「成仏……」

 なんだか、本当に小説とか二時間ドラマとか、そんな中でしか見たことの無い状況に、今私は置かれていた。それじゃあやっぱり、成仏する方法もそんなフィクションな話と同じなんだろうか。

「『もう一度あの人と会いたい』とか『あの景色を見たい』とか、そういう心残りは……?」

「特に無いんだなあ」

「そうですかー……」

 

話がひと段落すると、私は弁当ガラや麦茶のコップなどを片付けて、机の上のノートパソコンの電源をつけた。明日提出のレポートを完成させなければならない。それに、斉藤さんの事故について、調べてみようと思った。

「宿題かい?」

「ええ、まあ」

「悪いね、こんな風に君の生活を邪魔して」

「いえ、なんというか……斉藤さんが望んだことじゃないし」

 苦笑して言うと、彼も苦笑した。なんというか、とても切なくなった。自分で自分が「死んでしまった」と分かるのって、どんな気分なのだろうか。やっぱり悲しくて、つらいのか。それとも、意外と落ち着いているのだろうか。彼がここを動けないなら、私も彼が成仏するのを手伝うべきかもしれない。これも何かの縁だろう。

「ああ、でも明日会社に行かなくて良いのは嬉しいなあ」

 背後から聞こえてきたこの言葉だけは、本当に嬉しそうに聞こえた。


 夜の十一時。ほとんど昨日までに終わりかけていたレポートの最後の仕上げを終えると、私は椅子に座ったまま、ソファでテレビを観ていた斉藤さんを振り返った。

「なんだい?」

「フルネーム、漢字で教えてくれませんか? 事故のこととか、調べた方が良いと思うので」

「……ああ、そうか。ありがとう。『斉藤昇(のぼる)』だよ。上昇の『昇』でのぼるだ。斉藤は一般的な漢字で」

 私は言われたとおりの名前と「交通事故」とキーワードを入力し、ウェブ検索をかけた。ずらり、と検索結果が出てくるが、なかなか斉藤さんの記事は見つからない。

「死体とか墓とか、どうしたんだろうなあ。やっぱり兄貴が骨を引き取るのかなあ……葬式はやらないだろうし」

 後ろでぶつぶつと呟く斉藤さんは、とても現実的なことを考えていた。それが逆に非現実的に思えて、不思議な気分だ。

「…………あった」

 とてもとても小さな記事。速報で、酔っ払い運転によって引き起こされた不幸な事故が載っていた。被害者男性の名は斉藤昇。三十七歳。都内建設会社勤務。運転手はどうやら重体らしい。他にはこれといった情報は載っていなかった。事故現場は都内某交差点……大学から近いし、明日行ってみるか。

「なんだか変な気分だなあ……こうして自分の死亡記事を読むなんて」

 私の背後から身を乗り出して液晶画面をしげしげと見つめる斉藤さんは、なんだか面白がっているようにも見えた。



「いやいやいや」

「いやいやいや」

「いやいやいやいや」

「いやいやいやいや」

 深夜の十二時、私と斉藤さんは押し問答をしていた。

「俺には構わず柑菜さんは寝なさい。明日も学校があるんだろう」

「大丈夫です! 起きてます!」

 見知らぬ男(幽霊)がいる中で、のんきに寝られる人がいたら見てみたい。私の表情から何を感じ取ったのか、斉藤さんはトンと自分の胸を叩くしぐさをして見せた。

「大丈夫! 君が着替えるときは目をつぶっているし、寝るときは離れたところで浮いてるから」

「それめっちゃ気になりますって!」

 思わず大声を出してしまって、慌てて自分の口を手で押さえた。大家さんや隣の人から怒鳴り込まれたらどうしよう。斉藤さんって他の人にも見えるのだろうか。見えなかったら言い訳出来ないなあ……。というか、私の声だけ聞こえてたら、一人で騒いでいるように聞こえるのか。凄く不本意。

「でもなあ、外に出て行くことも出来ないし」

「いや、気にしないでくださいよ。今夜くらい私起きてますから」

「いやいや、若い娘さんの睡眠時間を俺のせいで削るなんて出来ないよ!」

「……」

「……」

 議論は平行線をたどる。私はため息をついてとりあえずテレビを消した。節電である。

「斉藤さんは眠くないんですか?」

「ああ、なんだか眠くないね。死んだからかな。君は?」

「……正直眠いです」

「じゃあ寝なさい。食と睡眠は生きる糧だからね」

 なんとも重みのあるお言葉だ。でも眠れない斉藤さんの横でぐーすか寝るというのも、少しというかとても申し訳ない。私は机の中から小さなラジオを取り出した。

「じゃあ、一緒にラジオでも聴きませんか? 最近はまってるんです。そのうち勝手に寝ますから」

「……君がそう言うなら」

 私は中学時代に親に買ってもらったラジオを机の上に置いて、最近たまに聴いているFMの音楽番組に周波数を合わせた。時間的には今始まったばかりのはずだ。軽快な音楽とともにパーソナリティの男女の楽しげな会話が流れてくる。私は音量を調節すると、着替えもせずにベッドにもぐりこんだ。明日の着替えをどうするかは、明日の朝考えよう。斉藤さんは、ベッドの向かいにあるソファの上で浮いている。

「懐かしいなあ、俺も中学生のとき、受験勉強しながらよくラジオ聴いてたよ。最近は全くだったな」

「どんな番組聴いてたんですか?」

「お笑い芸人のラジオとかね。ヘビーリスナーで、何度かハガキも出したんだけど、結局読まれたことはなかったなあ。俺、笑いのセンスは昔から無かったから」

 しみじみと言いながら、斉藤さんはラジオに聴き入るように目を閉じた。

 それからは、しばらく黙ってラジオを聴いていた。好きな曲が紹介されると、口ずさんだり、ちょっとだけ大学の話をしたり。だけど、斉藤さんはあまり自分のことをしゃべらなかった。あまりしゃべりたくないのかもしれないから、私からは何も言わないことにする。


 ふわあ。思わずあくびが出て、手で覆った。壁の時計を見やると、夜中の二時。ラジオ番組はすでに違うものに変わっていて、あまり知らないタレントがトークをしながら時折懐メロを紹介していた。もう寝てしまおうか。斉藤さんが無害なことは、この数時間をともに過ごしてなんとなく分かったし。毛布を被ったままそっと斉藤さんを盗み見ると、彼は目を閉じたまま静かに泣いていた。

――……。

私はそのまま何も見なかったように、寝返りを打って壁を向いて目を閉じた。どうかすぐにでも斉藤さんが安らかに成仏できますように。私にはそう願うことしか出来なかった。




 朝。目が覚めても斉藤さんは消えては居なかった。半透明のまま、部屋の隅に浮かんで、何故かストレッチのような動きをしていた。腕を伸ばしたり腰をそらしたり。……意味あるのか?

「……おはようございます」

「おお、おはよう柑菜さん」

 にこやかな笑顔の斉藤さんになんだか気が抜けた。私はとりあえず洗面所で顔を洗って、それから着替えようとして、ふと動きを止めた。

「……斉藤さん」

 斉藤さんは私の思いを察してくれたようで、ふわふわ浮かんで玄関の方へ去っていった。私はそれを確認してすばやく服を着替える。……なんと言うか、とても面倒だ。思わずため息をついた。彼のせいでないことは分かっているけれど、それでも、見知らぬおじさんとの共同生活だなんて、ちょっと考えられない事態である。さっさと原因を突き止めて、彼を「成仏」させたいところだ。


「それじゃ、行ってきます」

「いってらっしゃい」

 斉藤さんの優しい挨拶は、実家の父親を思い出させた。思わず泣きそうになって、ぐっとこらえる。おかしい、歳だろうか……って、まだ二十になったばかりだけど。


 私は大学でレポートを提出すると、他の講義をサボってキャンパスを飛び出した。斉藤さんが命を落としたという事故現場に行くためだ。何かがつかめるかもしれない。……というか、他になにをしろと言うのだ。斉藤さんの実家とかなんて、他人の娘がほいほい行けるはずもない。とりとめもなく考えながら電車を乗り継ぎ、都内の交差点に向かった。正確な場所は斉藤さんが居ないから分からないが、現場に行けば注意を促す看板か、そうでなければ花束の一つくらい置いてあるだろう。


「……あれか」

 広い交差点の一角、ガードレールの一部がひしゃげていた。ぽつりと一つ花束が置いてある。周りには誰も居ない。そばの看板に、「事故現場。スピード注意」と大きく書かれていた。ここで斉藤さんは命を落としたのだ。酔っ払い運転手の暴走によって。一人の尊い命が失われたのだ。私は少しだけ背筋が寒くなるのを感じた。「死ぬ」とは一体どんな感覚なのか、まだ当分は知りたくない。

 近くまで行き、そっと手を合わせる。――どうか、彼に安らかな眠りを。

「お嬢さん?」

 誰かに呼びかけられて、私は顔を上げた。斉藤さんと同世代くらいの、背広の男性がそばに立っていた。少し驚いたような、窺うような顔で私を見つめている。

「斉藤さんの……お知り合いで?」

「ええ、あの……ちょっと」

 私は言葉を濁した。上手い言い訳を考えておくべきだったか。

「そうですか……私は彼の会社の同僚でしてね。それにしても驚いたな、こんな若い女性の友人が斉藤さんに居たとは」

 彼はかすかに笑ってそう言ってから、花束の備えられた場所に向かって私と同じように一度手を合わせた。

「残念でしたね……」

「……そうですね」

 私はうなだれた。会社の人もしばらく黙っていて、それから私に一礼してそのまま歩いて行ってしまう。

「あの!」

 私は思わず呼び止めていた。何か聞かなければ。斉藤さんについて。

「あの、あの……」

「はい?」

「斉藤さんとは、仲がよかったんですか?」

 私の口からこぼれた質問に、彼はちょっと黙った。そして、少しうなってから、頷いた。

「そうですね。たぶん、良かった方かな。一緒にお昼を食べることとか、何度かあったし。良い人だったから、本当に残念だ……」

 それだけ言うと、彼は私に意味ありげに目配せした。「君も知ってるでしょう?」みたいな。……私は斉藤さんとどういう関係だと思われているんだろうか。

「それじゃあ、これで失礼しますよ」

 会社の同僚さんは、にこやかに行ってしまった。私はその場に取り残されて、しばらくその場でたたずんでいた。

 一度近くのコンビニで飲み物を買ったりして、暗くなるまで「現場」の近くのガードレールに座って時間を潰したが、「会社の同僚さん」以外に斉藤さんの知り合いらしき人は誰も現れなかった。全く、収穫なしである。


「もうしわけないね」

 斉藤さんは言葉どおり申し訳なさそうな顔をして、透明な身体を縮こませていた。会社の同僚さんの話をすると、彼は誰のことだろうか、と思案し始めた。

「伊藤さんかな? それとも……高橋さんか。ねえ、どんな顔だったかい?」

「ええと、斉藤さんと同じくらいの年齢に見えて……優しそうな顔で、黒ぶち眼鏡してました」

「ああ。それじゃ、たぶん伊藤さんだ」

 斉藤さんはちょっと嬉しそうな顔をしていた。そうか、彼が事故現場に来てくれたのか、と言って目を細めている。入院して誰かが御見舞いに来てくれたときみたいな気持ちなんだろうか。私はちょっとだけ微笑ましいような気持ちになった。


 昨日と違って、私は小さいことを気にすることをやめた。つまり、斉藤さんに気にせず着替えとかお風呂とかそういうものをさっさと済ませた。その間斉藤さんには目をつぶったり部屋の隅で待っていてもらった。夕飯も、自分の分だけ勝手に作って一人で食べた。だって斉藤さんは食べられないのだからしょうがない。ただ、作ったカレーをうらやましそうな目で見つめる斉藤さんは少し気の毒だった。

 私はパソコンを開いて、ネットに接続した。オカルトサイトを巡って、幽霊について色々調べることにしたのだ。まともな情報が得られるかは正直期待できないが、何もしないよりはマシ、と考えることにする。

「見えざる者との対話……スピリチュアルチェック……呪いと殺人の方法、幽霊の成仏には生贄の血肉が必要……うわあ」

 間違ってクリックした画像の気持ち悪さに思わずえづきそうになる。慌てて画像を消して後ろを振り向くと、半透明な斉藤さんが気分悪そうな顔をしていた。

「俺の成仏には、その方法はよして欲しいな」

「分かりました……」

結局、どのウェブサイトを見ても、斉藤さんの問題に役立ちそうな情報を見つけることは出来なかった。



 翌日、私は斉藤さんに教えてもらい、彼の借家を見に行くことにした。もう契約は切れているかもしれないが、遠目から眺めるだけでも何か分かるかもしれない。大学の講義はサボった。斉藤さんのことが気になって講義に身に入らないし、今日の講義は出なくてもあまり支障が無さそうだから、休んでもまあ大丈夫だろう。

 我ながらお人よしである。とはいえ、私が動かなければ、たぶん斉藤さんはずっと私の部屋に居ることになる。それは嫌だ(きっぱり)。

 斉藤さんの借家は私の学生アパートから二駅分離れたところにあった。小さい駅は近くにスーパーも無くて、少し不便そうだ。きょろきょろと辺りを見回すと、ブランコとシーソーしかない小さな公園が目に入った。その向こう側にクリーム色のマンションが見える。古そうなそのマンションは、曇り空とあいまって、なんだかとても暗い雰囲気を醸して出しているように見えた。

「なんか気が重い……」

 呟いてから、はっとして自分の頬をぱちんと一度軽く叩いた。気合を入れるためである。最初から気が引けていては駄目だ。なんとしても何か斉藤さんを成仏させる手がかりを見つけなくては。


「『アーバンまつやま』……」

 安っぽい石版に刻まれた微妙な名前は、間違いなく斉藤さんから聞いた名前だった。玄関のドアは簡単に開いて、すぐに入ることが出来た。どうやらオートロックではないらしい。エントランスにあった郵便受けから「斉藤昇」の名前はすぐ見つかった。四階の角部屋である。まだ名前はそのままにしてあるらしい。

「セキュリティ大丈夫なの……?」

 ここで一人暮らしはちょっとしたくないと思いつつ、私は近くにあったエレベーターで四階まで上がった。部屋の前まで行くだけ行ってみよう。

 斉藤さんの部屋はすぐ見つかった。表札にも「斉藤」と書かれている。だが、予想通りドアは開かなかった。ノックしようがインターホンを鳴らそうが何の反応も無い。当たり前だ。もう部屋の主はこの世にいないのだから。

「……」

 私はその場に突っ立ってしばらく玄関のドアを眺めていた。このドアの向こうで斉藤さんは生活をしていたのだ。ほんの数日前まで。それが、なんだか不思議なことのように思えた。ただ、玄関のドアを見つめていても、何も起きることは無い。ためしにドアノブを回してみたが、鍵のかかったドアはびくともしなかった。

「帰るか」

 くるり、と回れ右したところで、急に声をかけられた。

「おい、君!」

 威圧的な声と目に入った相手のこわばった表情に、思わず身が竦んだ。

「その部屋に何か用かね」

 眉間にしわの寄った顔、グレーのスーツに皮の鞄。四、五十代くらいの男性がエレベーター近くで私を睨みつけていた。つかつかとこちらに向かって歩いてくる。

「え、ええと……」

 言葉に詰まっていると、彼はじろりと私を頭からつま先まで一瞥した。

「この部屋の住人に何か?」

「あー、その、はい……」

 曖昧にうなずくと、彼は首を横に振って見せた。

「先日この部屋の主は亡くなったんだよ。だから、もうここには居ない」

 苦々しげに言うと、彼は懐から鍵を取り出した。

「私は遺品の整理に来たんだ。すまないが帰ってくれないか」

 そう言うと、彼は私の返事も聞かずにドアの鍵を開けて部屋に入ってしまう。ばたんと音を立ててドアが閉められるのを、私は黙って見ていることしか出来なかった。


 私は、しばらく鍵をかけられたドアの前で仁王立ちしていた。格好をつけて腕を組んでいたりする。

 ――このままじゃ帰れない。

 部屋の中にいる人物は、遺品の整理に来たといっていた。遺族、と考えるのが自然だ。それなら、斉藤さんが言っていた「気の合わない兄」というのがあの人なのだろう、たぶん。あんまり似てないけど。

 散々迷ってから、私は深呼吸をした。インターホンに人差し指を突きつける。あの人の話を聞こう。斉藤さんについて……教えてくれるか分からないけど。

「えいっ」

 意を決してインターホンを押したのと、突然目の前のドアが開いたのは同時だった。

「うわっ!」

「!? 君はまだここに居たのか!」

 びっくりしてそこから飛びのいた私に、出てきた「彼」は険しい声を出した。

「なんなんだ君は」

「ごめんなさいっ! あの、斉藤さんのお兄さんですか?」

 すかさず謝って尋ねると、彼は一瞬驚いた顔をした。

「……君は?」

 頭を下げて、呼吸を整える。なんだか緊張してきた。

「あの、斉藤さんの、と、トモダチです」

「友達? 君、学生だろう」

 しばらく黙り込んだ彼は、ため息をついて首を横に振った。

「自分の身体は大事にすることだよ……まったく」

「……」

 言われた意味が分からなかった私は、しばらくしてから意味に気付いて赤面した。

「ちょちょちょちょっと! 別にエンジョコーサイとかしてませんからっ!」

「む、違うのか。いやしかし……」

 どうやらハレンチな援交女子大生と間違えられたらしい。一生の不覚。ちょっと泣きそう。

「オジサンと付き合う趣味はありませんっ!」

 ありったけの力を込めて叫んだあと、私は我に帰った。狭い廊下に私の声が響き渡って、思わず手で口を覆ったが、意味は無かった。

「……すいません」

「いや、うむ」

 ばつの悪そうな顔をした彼は、おほんと一つ咳払いをしてもう一度私に問いかけた。

「友達、というのは?」

「あの、その……私この近所に住んでまして、最近知り合ったんですけど。斉藤さんには色々お世話になったんです」

 本当だか嘘だか微妙な話をすると、目の前の彼はまだ疑わしそうな顔をしていたが、もう何も言わなかった。

「君、名前は?」

「え、あ、はい。山中柑菜です」

「私は斉藤昇の兄、斉藤博(ひろし)だ。ちょっと昇の話を聞かせてくれないか」

「こ、こちらこそ!」

 大きく首を縦に振ると、お兄さんは少しだけ表情を和らげてくれたのだった。


 マンション近くで喫茶店を見つけて、二人で空いた席に座った。とは言っても、席はほとんど空いていた。お昼時だというのに、あまり流行っていない店らしい。

「好きなものを頼みなさい」

「い、いえ! 申し訳ないですっ」

 恐縮して断ったが、お兄さんは何も言わずにメニューを私に押し付けた。仕方が無いのでホットの紅茶を頼むと、彼はチーズケーキを頼んだ。

 ――顔に似合わず……。

 心のうちに失礼な言葉が浮かんでくるが、口には出さずにお兄さんの顔をしげしげと見つめていた。見れば見るほど斉藤さんと似ていないお兄さんだ。斉藤さんは始終穏やかな、というか頼りない表情をしているし、眉が下がっていて口角は上がっている。でも、お兄さんは全く逆の印象だ。きりりと上がった眉に鋭い目、への字口が正直怖い。鼻の形とかは似ているかもしれない。

 ずっと見ていると、お兄さんと目が合った。思わずそらしそうになって、それではあんまりにも失礼なのでぐっとこらえた。

「弟とは似てないかね」

「……はい」

 正直に答えると、お兄さんは頭をかいた。

「昔からよく言われるよ、似てない兄弟だとね。だからか、あまり弟とは気が合わなかった。私が働きに出るようになってから、家族とは疎遠になってしまった」

 少し気まずそうな顔をして顔をそらすお兄さん。

「だから、弟のことはあまり分からない。君は何のためにあのマンションに行ったんだ?」

 まさか本当のことを話すわけにもいかない。私は考えてから、慎重に話し始めた。

「私は都内の大学に通う大学生です。ええと、斉藤さんとは近所のごみ拾いボランティアで知り合って、それからたまに近所のイベントで会うたびに相談に乗ってもらったりして仲良くなったんです」

 口からでまかせである。でも、結構ほんとっぽい。私はウソツキの才能があるかもしれない。

「その、一昨日斉藤さんが亡くなったのを知って、事故現場とか回ってて。私も何がしたいのか、って言われるとよく分んないんですけど。とにかくじっとしてられなくて……」

「そうか……君は弟と本当に仲がよかったみたいだね。しかし、部屋も知っていたのか? 若い娘が男の部屋に行くのは感心しないな」

 言いつつお兄さんの私に向ける視線が厳しくなる。なんだか生活指導の先生に怒られているみたいだ。

「ええっと、あの、友達と二人で遊びに行ったことがあって」

「二人でも危ないことには変わりない。気をつけなさい」

「す、すみません」

 ぴしゃりと言われて肩を落とした。……うう、私は悪いことしてないのに。


 しばらくすると頼んだ紅茶とケーキが運ばれてきて、両方とも私の前に置かれた。

「……」

 ケーキの皿をお兄さんに渡そうとすると、それを押し返される。

「君が食べなさい」

「え」

「チーズケーキは嫌いか?」

「好きですけど……」

 なおも言い募ろうとすると、鋭い目で制されてしまった。

「あ、ありがとうございます」

「……いや」

 黙って水をすするお兄さん。もしかしてこの人はとんでもなく不器用なんじゃないだろうか。しょうがないのでありがたく頂くことにする。フォークで一口。

 ――おいしいいい!

 私の中でお兄さんの好感度が二十ポイント上がった。


「あいつは、弟はどんなやつだった?」

「いい人でした。とても優しくて」

 それは嘘ではなかった。死後の彼は、とても優しい。私の部屋でふわふわと浮いている彼は、私の生活を邪魔していないか常に気にしていたし、死んだことを嘆いて酔っ払い運転の相手を罵るようなことは無かった。まあ、私の前以外でどうしているかは分からないけれど。

「会社は、あんまり好きじゃなかったみたいです……疲れた顔してましたし。ブラック会社に入っちゃったとか」

 私は斉藤さんから聞いた話をほとんどそのまま話した。お兄さんは黙ってそれを聞いている。

「あと、なんかお父さんみたいでした」

「は?」

「野菜はしっかり食べなきゃ駄目だ、とか言われたんですよ。知り合ってすぐです。お父さんみたいだなって思いました」

 思わずふふふ、と笑ってしまった。斉藤さんとは一昨日知り合ったばかりなのに、なんだか親戚のおじさんみたいで、よく知ってる人を話してるみたいな気分だ。

「……そうか」

 ゆっくりうなずいたお兄さんに、私は笑いかけた。

「お兄さんは、どうですか?」

「?」

「斉藤さんは、どんな人だと思います?」

 今度は私が聞く番だ。何か情報を得るために来たのに、すっかり談笑している気分になっていた。


「そうだな……」

 お兄さんは、残っていたグラスの水をぐいと一口飲んでから、考え込んだ。

「あいつはほんとにおっとりしていて、私と違ったんだ。昔からね。私は子供の頃から物事はしっかりきびきびして無くては我慢なら無くて、よくあいつとはぶつかった。喧嘩しても黙ってぐずぐず泣くから余計にいらいらして。それで、また両親も弟に甘いから、私はあいつが嫌いだった。ずっと」

 目を伏せるお兄さんは、ちょっと言いにくそうだった。どうしてこんな話を私にしてくれるのだろう。

「だから私は大学を卒業してから上京して、その後はずっとあいつとは疎遠だった。帰省してたまに会うことはあっても、あまり話すこともなかったし。話してもこっちがイライラして喧嘩になることが多かったから、わざと帰省のタイミングをずらして会わないようにしたこともある。そして、数年前に両親がそろって亡くなったんだ。その葬式以来、あいつとは全く会ってないよ」

「そう……なんですか」

 私はそれ以上言葉が見つからなかった。なんだか悲しい話だ。ずっと仲の悪いまま死に別れてしまうなんて。きっと、二人の両親も悲しんでいる気がする。

「すまないね。こんな話を聞かせてしまって」

「……いえ」

 気まずい。とても気まずい。

 私はどんな顔をしていいのか困って、とりあえず紅茶を一口すすった。

「なんだか不思議なんだよ」

「?」

「あいつに君みたいな友人がいるなんてね。それに、君はあいつのことをよく知ってるらしい。あいつのことを話す相手なんか今までいなかったから、だから君にこんな話を聞かせてしまったのかもしれない」

「……」

「あいつのことだから、きっとぼけっと歩いていて、だから車に轢かれたりしたんだろう。あいつは本当に昔から、ぼんやりしていて世話のかかる弟だったから……」

 本当に困ったやつだ、というような口ぶりで、お兄さんはそう言った。その眉間のしわが深くなり、唇を震わせているのを、私は黙ってしばらく見つめていた。

「でも、斉藤さんはいい人です」

「ああ。きっとそうなんだろう」

 お兄さんは顔を手で覆った。

「でも、こんな風に死ぬなんて、あいつは本当に親不孝で兄不幸で友人不幸なやつだ……!」

 お兄さんの手の隙間から、きらりと光るものが見えた。私はそれを見ない振りして、残ったケーキにフォークを突き刺した。



 いつの間にか外は薄暗くなっていた。お兄さんは結局ケーキと紅茶の代金を支払ってくれて、最後に名刺を渡してくれた。

「君に会えてよかったよ。何かあったら連絡してくれ」

 私も持っていたメモ帳にメールアドレスを書いてその場で渡した。

「ありがとう。――そうだ、明日以降は業者の人にあの部屋の整理を頼むから、もう行かない方がいい。それじゃあ」

そう言って去っていく姿はやっぱり斉藤さんにはあまり似ていない。でも、彼も斉藤さんと同じようにとても優しい人なのだと思った。初対面の私に、突っ込んだ話をたくさんしてくれた。――最初は援交女子大生と間違えられたけど。

「それに、結局斉藤さんを成仏させる手がかりは何も無いなあ」

 帰り道を歩きながらひとりごちる。このまま斉藤さんが成仏出来なかったらどうしよう。お払いしてもらうのはちょっと申し訳ないような気がする。それは最終手段に取っておこう。


 私は、その足ですぐに自分のアパートに戻った。玄関のドアを開けると相変わらず斉藤さんがふわふわと浮いていて、私に微笑みかけてくれた。

「おかえり、柑菜さん」

「……ただいま、斉藤さん」

 私は部屋の電気をつけた。斉藤さんは節電にこだわりがあるらしく、私が出かけるときは彼のほうが勝手に電気を消してしまうのだ。まあ、電気代は節約したいから、それはそれで助かるのだが。

 荷物を机に降ろすと、斉藤さんと向き直った。お兄さんと会った話をしたいけれど、何を話していいか、少し戸惑った。そんな微妙な空気を感じ取ったのか、部屋の中を動き回っていた斉藤さんは、黙って私の前で静止した。相変わらず半透明で、足が見えない彼は、とても非現実的な存在だった。

 ――それでも、彼には彼の人生があったのだ。

「何かあったのかい?」

「あなたの、お兄さんと会いました」

 斉藤さんは目を見開いた。驚いたあと、困ったように視線をさまよわせる。

「……そうか。それで?」

「色々、話を聞いてきました」

 やっぱり斉藤さんとお兄さんの仲があまり良くないのは事実なのだ。昨日会社の同僚さんと会った話をしたときは、あんなに嬉しそうに笑っていたのに、今の斉藤さんは少し怖がっているような、あまり話をしたくなさそうな、そんな顔をしていた。

「ええと、元気そうだった?」

「はい。元気そうでした。名刺も貰ったんです」

 さっき貰った名刺をかざして見せると、斉藤さんは頷いた。

「……でもよく話せたね。兄貴とはあんまり仲良いわけじゃないし、それに君は見るからに学生だし」

 その言葉で、私はお兄さんに援助交際を疑われたことを思い出した。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、私はあえてこの出来事は話さないことにした。

「まあ、何とかなりました」

 あはは、とごまかし笑いをしながら頭をかくと、斉藤さんは腕を組んでみせた。

「それはよかった。でも、何を聞いたんだい? 俺の悪口?」

「悪口ってことは、なかったですけど……」

 言葉を濁すと、斉藤さんは珍しく皮肉ありげな笑みを浮かべた。

「分かるよ。兄貴は俺のことが嫌いなんだ。いい話なんかするわけが無い」

 断定的な言い方に、私のほうが戸惑った。斉藤さんはまた浮き上がって、ふわふわと部屋の中を回り出した。歩きながらものを考える人が居るように、斉藤さんもそういうタチなのだろう。

「そういえば、兄貴とは僕の住んでるマンションで会ったのかい?」

「はい。遺品の整理に来たとか……」

「へえ、てっきり兄貴はそういうの全部業者に任せると思ったよ」

「……」

 斉藤さんは顎に手を当てて、ふむ、と唸った。

「遺品……か。何を持っていったんだろうな」

 ゆっくりと呟いた斉藤さんは、遠い目をしてどこかを見つめていた。


 私はお兄さんとした話を、ざっくりと斉藤さんに話して聞かせた。最後にお兄さんが涙したところとかは、なんとなく省いてしまった。お兄さんは知られたくないかもしれないし。

「はは、兄貴は変わらないなあ……。それにしても、柑菜さんには本当に迷惑をかけてしまっているね」

「いえ」

「生きていても人の役に立つわけでも無く、死んでから人に迷惑かけるなんて、なんて人生なんだろう」

 斉藤さんは笑った。その笑顔は奇妙に歪んでいた。

「誰も俺の死なんか悲しまないだろう。兄貴もきっと呆れて笑ってるだろうさ。こんな風にあっけなく死んだ俺のことをね」

 ぷつり。自分の中で、何かが切れる音がした。

 私は、近くにあった電気スタンドを引っつかみ、コードを引き抜いてから斉藤さんめがけて投げつけた。それはするりと斉藤さんの身体を通り抜けて、派手な音を立てて壁に激突した。

「!? 柑菜さん?」

 斉藤さんがうろたえる。今の衝撃でスタンドは少し壊れたかもしれない。でも、そんなの構うもんか。

「うるっさい!」

 私は近くにあるものを次々斉藤さんに投げつけた。枕、クッション、ぬいぐるみ。それからかばんと携帯。全部斉藤さんを通り抜けて、壁にぶつかってフローリングの床やベッドの上に散らばってゆく。携帯は壁にぶつかったとき少しいやな音がした。斉藤さんは半透明だから被害を受けないけれど、逆に私を止めることも出来やしない。投げるものが無くなるまで、私は何かを投げつけ続けた。

「ちょ、ちょと待ってくれ!」

「ばか! 斉藤さんのばか!」

 なんだか無性に腹が立った。拗ねて、卑屈になって、返事に困ることばっかり言って。それだけならまだしも、「誰も悲しまない」とか、お兄さんが「呆れて笑ってる」だなんて。そんな言い方はあんまりだ。私が見たお兄さんの涙は、悲しみを物語っていた。仲たがいしたまま死別したことを、たぶん彼は悔いていた。

私は斉藤さんをぶん殴って目を覚まさせたい気分だった。殴れないけど。

「誰も悲しまないなんて、本気で言ってますか!」

 私は叫んだ。斉藤さんはびくりと身体を震わせた。

「そんなわけ、絶対に、ないじゃないですか!」

 怒りのあまり言葉が途切れ途切れにしか口から出てこない。ちょっと暴れたせいで息も上がっていた。

「……君に何が分かるんだ」

「分かります! ……まず、私が悲しいです」

 荒い呼吸を落ち着けて言うと、斉藤さんは黙った。沈黙。

「……あの」

 るるるるるる。

何か言おうとした斉藤さんをさえぎって、電話が鳴った。一つ息を吐いて電話を取ると、それはやっぱりというかなんというか、苦情の電話だった。あれだけ騒げば当然である。

「すみません。……はい、気をつけます」

 電話に向かって頭を下げつつ、私は受話器を置いた。


「いいかな?」

 中断した話の再開である。斉藤さんは一つ空咳をした。

「はい、すいません」

 斉藤さんは苦笑した。いやいや、と手を振って、彼も小さく頭を下げた。

「ありがとう、柑菜さん。なんだか変な言い方だけど、俺の死を悲しんでくれて。でも、俺と兄貴は本当に仲が悪かったんだ。だから、あんまり言いたくないけど、あの人はきっとそんなに悲しんでなんかないよ」

「頑固ですね。斉藤さんは」

「はは、そうかな」

「そうですよ。とっても頑固です」

 私は少し黙って目を伏せた。今日さっきまで話していたお兄さんを思い浮かべる。彼は眉間のしわを深くして、唇を震わせていた。本当に斉藤さんの死を悲しんでいないのなら、あんな表情をするわけが無い。

「お兄さんは、斉藤さんを親不孝で兄不幸だと、言ってました。世話のかかる弟だった、と愚痴ってました。でも、その目は優しかった。最後は涙を浮かべていた。それを、私は見ました」

 話しながら、私もだんだん目頭が熱くなるのを感じていた。胸が苦しくなって、目の前の斉藤さんがぼやけてくる。

「兄貴……が?」

「昨日会った会社の同僚さんは、斉藤さんが亡くなったのを、本当に残念そうにしていました。それでも、悲しむ人が居ないだなんて言ったら、二人が可哀想だと思います」

 ぽろり、と涙が一粒私の頬にこぼれ落ちた。

「私だって、悲しいです。こんな風に、斉藤さんのことを知るより、もっと前から、生きているときから斉藤さんと知り合いたかった」

「柑菜さん……」

 涙は次々に目からこぼれた。のどの奥が痛くて、鼻がつんとする。ティッシュはどこへやったかしら。私の言葉は途切れ途切れで聞き取りづらかったに違いない。でも、斉藤さんは黙って私の言葉に耳を傾けてくれた。やっぱり斉藤さんは優しいのだ。


「悲しい。悲しい。……どうして死んじゃったんですか」

 俯いて、そう呟いた。その拍子に涙がぽたぽた床に落ちた。それは斉藤さんに向けた言葉じゃなくて、自問に近かった。どうすれば斉藤さんが成仏できるかとか、おじさんの幽霊と一緒に暮らす面倒さとか、そんなことは全く関係なく、ただ斉藤さんが亡くなったという事実が悲しかった。

「柑菜さん……柑菜さん」

 ふわり、と何かが肩に触れた。空気の塊のような、そんな不確かな感触。冷たいような、温かいような何かを感じて顔を上げると、目の前に居た斉藤さんと目があった。私に触れていたのは斉藤さんだったのだ。そういえば、斉藤さんに触れられたことは今まで無かった。

 ――幽霊ってこんな感触なんだ……。

 斉藤さんはにっこりと微笑んでみせた。さっきの歪んだ笑顔とは全く違う、本当の笑顔。今まで見たことの無い、満ち足りた表情だった。

「ありがとう。君のおかげで成仏出来そうだ」

「え?」

 斉藤さんはゆっくりと手のひらを私に見せた。それは少しずつ透明度を増していた。そのまま消えてしまいそうに見える。私はあっけにとられて目を見開いた。

「どうやら俺にはこの世に心残りがあったんだ」

「心残り?」

 斉藤さんはうなずいた。

「俺はずっと孤独だと思っていた。誰の心にも残らぬまま、この世から消えると。そして俺はそれが嫌だったんだ。きっと、誰かに死を悼んでほしいと思っていた」

「それは……だから」

「そう、だからね」

 私の言葉をさえぎって、斉藤さんが説明を続ける。

「それは間違いだった。兄貴も、伊藤さんも俺の死を悲しんでくれていた。それを君は教えてくれた。……そして、君は俺のために泣いてくれた」

 斉藤さんはどんどん色を失っていった。透明になる。空気に混じっていく。

「たぶんそれで、俺はもう満足したんだ。この世に心残りがなくなった。もう、迷惑をかけなくて済みそうだよ」

「斉藤さん!」

「ありがとう、柑菜さん。俺は、君と出会えてよかった。本当は俺も、死ぬ前に会って友達になりたかったよ」

 微笑んだ彼は私に握手を求めた。差し出された手に手をかぶせても何の感触ももうしなかったけど、ストーブに手をかざしたときみたいな、柔らかなぬくもりを感じることが出来た。

「「さよならっ」」

 二人の声が重なり合って、その瞬間彼の姿は見えなくなった。

「……さよなら、斉藤さん」

 もう誰も居ない空間に向かって、私は小さく呟いた。返事が無いことが無性に悲しくて、私の目からもう一粒涙が零れ落ちた。――でも、これでよかったのだ。

「ありがとう。楽しかったです。……ちょっとめんどくさかったけど」

 笑って、涙を拭いた。非日常はこれで終わったのだ。明日からはまた学校生活が待っている。バイトも行かなくちゃ。

私の人生は、まだ続いている。




 後日、斉藤さんのお兄さんから連絡があって、また二人で会うことになった。土曜日だったからか、お兄さんの格好はこの前のスーツとは違って、幾分かラフな格好だった。相変わらず厳しい表情をしていたが、服装のせいか怖さが半減している気がする。

「今日はあまり時間が無いんだ」

 そう言って、斉藤さんの火葬が終わったことや、遺品の整理を終え、あの部屋を引き払ったことを教えてくれた。

「墓も決まったんだ。場所を教えるから、よかったら会いに行ってやってくれ」

「ありがとうございます」

 ぺこり、と頭を下げると、お兄さんは重々しくうなずいた。

「それから、渡したいものがあるんだ」

「?」

 お兄さんは上着のポケットから一枚の写真を取り出した。

「遺品の整理をしていたら出てきたんだ。まあ、思い出に一枚もらってくれないか。嫌ならこのまま持って帰るが……」

「ぜひください。でも、いいんですか?」

「ああ、君はあいつの友達だからね」

 斉藤さんがこの世に実在した、という証明だ。私が出会ったのはなんというかそのあとだったけれど。

「それじゃあ……」

 お兄さんから手渡された写真には、笑顔の斉藤さんが写っていた。私が見ていた斉藤さんだ。だけど半透明じゃないし、きちんと足が写っている。スーツ姿で、何人かの男性と一緒に写っていた。これはたぶん会社の人だろう。「伊藤さん」らしき人も写っていた。飲み会ででも撮った写真だろうか。

「私には、まだあいつが死んだことがピンと来ないんだ」

 お兄さんは顎に手を当てた。なんだか見覚えのあるしぐさだ。

「もしかしたら死んだことにも気付いてないんじゃないかとか、成仏出来ずに誰かに迷惑かけてるんじゃないかとか、そんなことを考えてしまうよ」

 あまりにも的を射ている言葉に、私は思わず目を丸くした。

「はは、らしくないな」

「……ええ、もう大丈夫ですよ。きっと」

 私はそう言って目を伏せた。お兄さんが首を傾げたので、私は笑ってごまかした。

 ――きっと、斉藤さんは大丈夫。そう信じてる。

 空は青く澄んでいて、雲が薄く広がっていた。もうすぐ冬がやってくる。冷たい風のどれかに乗って、斉藤さんが天国に行ったのだろうかと、私はそんなことを考えていた。


おわり


この作品は大学の卒業論文の一部だったりします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ