作家・千珱院美麗
「―三島、お前次これの担当な」
そう言って川本先輩はハードカバーの本を一冊手渡した。
「これ・・・『リバ日』、ですか」
白い表紙に黒い裏表紙。間違いなく千珱院美麗作の『リバーシブルな日常』だった。
「そ。それ去年本屋大賞獲ったやろ?続編出そうっちゅーことになってな」
「それを、僕が?」
「お前も腕が上がってきたしな。ま、いい経験になるやろ。そのセンセなら割と楽やし」
「あ、ありがとうございます!」
この文鳥社に入社して五年。大仕事を任せられるまでに成長できたのかと思うと素直に嬉しかった。
千珱院美麗。大学時代から数々の新人賞に応募するも全く振るわずにいたが、5年前出版社に持ち込んで自費出版した『メランコリック・ラヴ』が大ヒットし、頭角を現しはじめる。
非日常世界でのリアルな恋愛を描き、若い世代に絶大な支持を得ている彼女は昨年度とうとう本屋大賞を受賞、映画化も決定するなど今一番波に乗っていると言える作家である。
「―これセンセのアドレスな。メールで締切伝えりゃあそれまでには書いてくれる。お前はそれを受け取ってちょっと直して、印刷所にぶち込むだけでええ」
「えっ、あのお電話とかは・・・」
「使わんと思うけどな・・・ほなら一応渡しとくで」
先輩は手帳に番号を書き込んで破った。
「ご挨拶に伺ったほうがいいですかね?」
新担当として一応顔合わせをしておくべきだろうか。
「あー要らん要らん。会わんでええ」
「え?」
「担当が誰でも、美麗センセは確実に書いてくれる。要らん手間をかけるな」
「はあ・・・」
そういう考え方もあるんだな、と納得しつつ、でもやはり挨拶に行こうと心に決める。何せ人生初の大仕事だ。納得がいくまでとことんやりたい。
『From: 三島博紀
To: 千珱院美麗 先生
Sub: 初めまして
「リバーシブルな日常」の続編を担当することになりました、三島博紀です。
締切は7月9日となります。先生のような大作家を担当させていただくのは初めてですが、精一杯頑張らせていただきますので宜しくお願い致します。』
メールを送信して軽くストレッチをしていると、PCから電子音がする。
まだものの一分と言った所だ。返信だとしたらあまりに早すぎる、と画面を凝視した。
『From: 千珱院美麗
To: 三島博紀
Sub: Re:初めまして
7月9日ですね、了解しました。』
・・・随分と簡素なメールである。彼女は本業外では筆不精なのだろうか?
「ま、ともかく一度会いに行かないと」
手帳とにらめっこしながら、いつ彼女を訪ねようかと頭を巡らせた。
❤❤❤
住所のメモを頼りになんとか彼女の自宅に辿り着いた。
表札には「海嶺」と書かれている。どうやらこれが本名らしい。
インターホンを押してしばらく待つ間にネクタイを直し、右手の菓子折りを確かめる。
『―はい』
ドア一枚挟んだ向こう側から特別高くないが低くもない女性の声がした。
「あ、先日メール致しました、文鳥社の三島と申します。改めてご挨拶にと伺ったんですが」
『・・・連絡もしないで突然家に来るなんて、随分性急ね』
「え?・・・あ」
痛烈な皮肉。
そういえば連絡するのをすっかり忘れていた。やってしまった、と三島は苦い顔をした。
『ま、どうせいつ来てくれても応じる気はないんだけど』
「本当に申し訳ありません」
『別に謝罪はいらないわ。とにかく会う気はない、帰って』
「いえ、でも・・・お菓子が」
千珱院美麗は冷たく言い放ったが、せっかく持ってきたものが勿体無いと三島は言いすがる。
『・・・お菓子があるの?』
「ええ、まあ」
意外にも悪くない反応だ。彼女はどうやら甘党らしい。
『じゃあそれだけもらうわ。ちょっと待って』
チェーンを外す音がして、ドアが開かれる。
ずり落ちた銀縁の丸めがねに少し乱れた茶髪、極めつけは咥えタバコ。
あまり見た目に気を遣ってはいないらしい。まあ来客を想定しているはずもないのだけれど。
「・・・あの、先生?」
じっと自分を凝視して固まっている彼女におずおずと声をかける。
「あ・・・ごめん、入っていいわ」
「え、いいんですか?」
「お茶とか、探せばあるし・・・それだけでも飲んでって」
「あ、ありがとうございます・・・」
突然変わった態度に疑問を感じながらも、ありがたく上がらせてもらう。何せまだ梅雨も明けていないというのに今日はひどく暑かった。
とはいえ。
「・・・あの、お身体は大丈夫ですか?」
「どうして?」
戸棚を漁っていた彼女が振り返る。
「その、なんというかクーラーが効きすぎているような・・・」
背広が恋しくなるような室温だ。20℃ないかもしれない。
「何、あなたも温暖化がどうこうとか言うわけ?言っとくけどあんなの企業の陰謀よ。ただ新しいエコビジネスのためにCO2云々と騒いでいるだけ。だって地球にはかつて氷河期があったでしょう?あれは別に人間が何かしたから起こったわけじゃないわ。温暖化だってね、別に人類のちっぽけな活動が原因で起こっているんじゃなく、地球が変動期に入っているだけなのよ」
「・・・はあ」
クーラーひとつで地球規模の話になってしまった。
「っていうのも根拠なんかないんだけどね。そういう風に思っとけば何も気にせず人間の叡智を使えるでしょ。―はい、お茶」
「あ、どうも」
この季節に熱いお茶をありがたく思うとは思わなかった。
「・・・あの」
ずっと思っていた疑問を投げかける。
「先生は、人間嫌い・・・なんでしょうか」
「なんで?」
「いえ・・・今までも編集とお会いになりたがらなかったようなので」
横目で窺うと、千珱院美麗は視線をすべらせた。
「・・・んー、別にそういうんじゃないけど。ただ、仕事上の付き合いってのが苦手なのよ」
「仕事上の、ですか?」
「うん。ただ利害の一致で契約しているだけの間柄なのに、お互い気を遣わなくちゃいけないっておかしいと思わない?少なくとも私は、それを異常としか思えない」
ビジネスではただ契約を守っていればいいというわけではない。信頼関係を結び続けるため、時には接待などを必要とすることもある。
「私は原稿を書いて締切通りに送る。編集はそれを受け取って印刷所へまわす。それで充分だと思うのよね。それ以外のことなんて必要ないはずでしょう?」
「まあ、端的に言ってしまえばそうなんでしょうけど・・・。でもある程度意志の疎通が取れていた方が作業も円滑になるんじゃないですか?」
「それが無駄骨っていうの。私は、締切は必ず守る。何もしなくても原稿は上がるのに、それ以上何が必要なわけ?」
そうなのかもしれない、と思う。
けれど編集の仕事はそれだけではない、と三島は少し身を乗り出した。
「作家の持ち味を生かして、作品をより良いものに仕上げていくことも僕の仕事です。でも顔も性格も知らない作家に対してはそれが出来ない。作品の質が落ちることにも繫がりかねません」
千珱院美麗は溜息をつく
「・・・私はね、原稿について担当に文句を言われたことは一度も無いわ。それって、それ以上仕上げようがないってことじゃないわけ」
「先生の実力が見えないから、出来上がった原稿こそが最高のものだと思ってしまうんです。これ以上よくなるという結果を想像できなくなるんです」
そう言うと千珱院美麗は不敵に笑った。
「―あなた、『リバ日』は読んだ?」
「・・・ええ、まあ」
言葉の真意を図りかねて曖昧に返事をする。
「あなた、今こうして私と会ってるわよね。なら、『リバ日』に足りないもの、少しは見えたんじゃない?」
「『リバ日』に・・・ですか」
普段見ている世界には実は裏があって、そこでは様々なことが表の世界と反転して起こる。表の世界で出会ったならば裏では別れていて、生まれたならば死んでいる。なら、恋愛をしたらどうなるのだろう?表の世界で幸せになればなるほど、裏の世界ではより悲惨でむごい別れが待っている。2つの世界で起こる全く別の展開にハラハラしながら、しかしどちらかをハッピーエンドにすれば残りはバッドエンドに変わってしまうのだというジレンマに読者を追い込んでいく。今の世界で自分は幸せだけれど、もしかしたらそれは裏の世界の自分を不幸にしているのかもしれない。そんな錯覚さえ覚えるような上手い構成で、人生の妙と恋愛の裏表を同時に突いた傑作。と、いうのが世間一般の評価だ。
それを、自分ならどう見るか。
三島は3分ほど考えて、ひとつの結論を出した。