第七話
深き霧の底。かつての都の亡骸に囲まれ、陽光さえ届かぬ霧海の深淵にそれは悠然と佇む。
「逃げた……。生贄が逃げた……。捜せ捜せ……捜せ……」
金色の眼を獰猛な輝きで満たしながら、それはうわ言のごとく呟く。満ち渡る殺気。充満する生臭い血の薫り。それは知っていた。偉大にして全知全能たるそれの主は生贄を欲していると。そして、生贄の条件を満たせるものは、この世にはほとんど生き残っていないことを。
ゆえに捜さねばならない。夢幻の牢獄より逃げ出した生贄を、たとえ地の果てまでも――。
「ウオオォ!」
おぞましく、形容しがたい獣の叫び。それは地の底より霧海中に響き渡った。濛々たる霧の嵐がそこより吹き荒れ、白が増していく。溢れだした白の霧は急速に大地を喰らい尽くしていく――。
アルクとスーリアの二人が神栖村に来て、早くも一週間が経過した。当初はさまざまなことに戸惑っていた二人であるが、今ではそれなりに村の生活に適合している。カリンから任される家の手伝いなども、最近では問題なくこなせるようになってきていた。
神栖村の生活様式は基本的には日本人がイメージする中世風ファンタジーそのものである。ゆえに、異世界を舞台にしたMMORPGであるエデンの中で暮らしてきた二人はそれなりに早く適合出来たのだ。
「ふう、ちっとも終わらないわね」
「これだけ広いからな、仕方ないだろ」
昼下がり、カリンの家の一角にて。長年使われていないのか埃が降り積もった部屋を、二人が箒や雑巾を手に懸命に掃除していた。この屋敷は見た目以上に広く、そして使われていない部屋が多い。カリンが生活に利用している居間や寝室などを覗けば、屋敷の部屋のほとんどが埃まみれの状態だった。
カリンの家は、村の産物を各地で商う交易商人を家業としている。そのためカリンの両親は一年中家を空けており、カリンが一人で留守番をしているというのが常だ。ゆえに、一人しか住人の居ない屋敷は手入れが行き届かず荒れ放題になっている。ウルがカリンを二人の世話役に命じたのも、こういう事情あってのことのようだ。
屋敷の広さと汚れ具合に閉口しつつも、二人は掃除をこなしていく。残念ながら、二人はまだ職が見つかっていない。今のところはカリンの家に完全に世話になっている立場なのだ。だから、埃まみれになろうと文句は言えないし、言うつもりもない。彼らは黙々と掃除をこなしていく。
そうしてしばらくすると、部屋の埃はだいぶ落ち着いてきた。二人は綺麗になった椅子に腰かけ、一息入れる。するとここで、部屋の扉が開いた。扉の向こうから、ティーカップをお盆に載せたカリンが現れる。カップからは白い湯気が立っていて、紅茶に似た芳醇な香りが二人の元へ漂ってくる。
「差し入れに来ましたよ。掃除、進んでますか?」
「ありがと。 掃除の方はそれなりかな。夕飯までにはぜんぶ終わるよ」
「そうですか、頑張ってくださいね。また差し入れ持って来ますから」
「気にしないで。これが今の私たちの仕事みたいなものだから」
「は、はあ……わかりました。ところでその、お仕事についてなんですが……」
カリンは顔を若干曇らせた。口がモゴモゴとしていて、何か言いづらそうな雰囲気である。やがて彼女の肩が下がり、大きなため息が漏れる。
「村ではちょっと難しそうですね。なにぶん、こんな小さな村なので……。街まで行けば何かいい仕事があるんでしょうけれど」
「やっぱり……。ごめんね、いろいろと手間をかけてしまって」
「お力になれずすみません」
カリンは軽く一礼すると、部屋から出ていった。二人きりになったアルクとスーリアは互いに浮かない顔を向き合わせる。
「これからどうする? ずっとこのままってわけにもいかないし」
「でも俺たち一文無しだからな。街へ行くにもお金がかかるし……。まさかこの村で農民になるわけにもいかないし」
二人の目的はあくまでも元の世界への帰還だ。そのためにはこの神栖村で根づいてしまうわけにはいかない。必然的に、土地との縁ができる農民になるのは避けねばならなかった。ほぼ同じ理由で漁師なども避けている。だが、この小さな村では農民と漁師以外にはほとんど仕事がないのが実情だった。
「何かお金になりそうなことがあればいいんだけど……」
「うーん、とりあえず今はこの世界の常識を覚えて、それから何か考えるしかないな」
フウッと肩を落とすアルク。とりあえず、常識を覚えないことには何も始まらない。二人は村での生活を通してこの世界の常識を少しづつ学びつつあった。夜にはカリンの協力を得て文字なども教えてもらっている。今はまだ二人にとっては準備期間といったところか。
「それもそうね、今はやることをやるしかなさそうだわ」
二人は気分を変えるべく、それぞれ紅茶を一口ずつ飲んだ。彼らはそうして差し入れの紅茶をさっさと飲み終えると、滞っていた部屋の掃除を再開する。積もっていた埃を落とし、くすんでいた窓を拭き、ごみが散らばっている床を箒で掃き……。二人は黙々と掃除を進めていく。
そのおかげか、日が傾き辺りが黄昏に染まるころには家はすっかりきれいになっていた。以前の荒れ具合が嘘のように、新築同様の美しさを取り戻している。家主であるカリンはすっかりホクホク顔で、台所で二人のために夕食の準備をしていた。テーブルにはすでに、湯気を立てる料理が並んでいる。
「ご飯できましたよー! 取りに来てください!」
二人はそれぞれ「はーい」と返事をして食事を取りに行こうとした。するとここで、玄関からドタドタと騒がしい音がしてくる。何事だろうか――二人は嫌な気配がした。彼らは台所から玄関へと進む方向を変える。そのあとをカリンも追ってきた。
三人が玄関につくと、一人の男が蒼い顔をして立っていた。彼はカリンの姿を見つけるや否や、勢いよく家の中に飛び込んでくる。
「大変だ、おばば様が霧症にかかられた! いますぐ薬を分けてくれ!」
「ええ、霧症ですか! で、でも……!」
カリンは困ったようにわたわたと顔を横に振った。彼女はどもったように聞きづらい声で、何やら小さくつぶやき始める。その声の小ささに男はいら立ちを露わにした。
「どうしたというんだ! 早く薬を頼む」
「そ、それがないんですよ……! この間の交易の時は、薬が手に入らなかったんです!」
カリンは半ば開き直ってしまったようだった。男の顔が一段と青さを増し、カリンの唇も土気になる。二人は今にも死んでしまいそうなほど、絶望的な顔をしていた。どんよりと重苦しい空気が辺りに漂う。さながら、通夜のような状況だった。
霧症――何度も聞いた病の名前。霧が原因でなるというその病気は、人の心を侵すらしいものらしい。軽微なものならばさほど大したことにはならないそうだが、酷いと生きた屍――廃人となり最終的には死に至る。この世界で最も流行し、かつ忌避すべき病の一つだ。
「あの……」
「なんだ?」
鉛のような空気の中で、スーリアが口を開いた。彼女は小さいが凛とした口調で告げる。
「私、その病気を治せるかもしれません――」