第六話
三人が丘を回り込んで進んでいくと、村へと続く下り坂があった。その坂の先にはたくさんの松明が見える。数は二・三十といったところか。その赤々と燃える光のもとには、数え切れぬほどの人が集まっていた。彼らはアルクたちの姿を見つけると、松明を片手に走ってくる。
村人たちと思しき集団の先頭には老婆が居た。昔の占い師か魔術師よろしく黒いローブを頭からすっぽりと被っているので、その顔はよくわからない。その代わり、骨ばった手によった深い皺が彼女の年齢を雄弁に語っていた。どうみても老人の手だ。しかし、そんな手をした彼女は杖を抱えて、信じられないような速度で走ってくる。
「ショージ、大丈夫だったか!」
「なんとか。怪我などはないです」
「おお、それはよかったの。あまり帰りが遅いので、皆で心配しておったところじゃ」
村人たちが老婆に呼応するようにうなずいた。ざっと辺りを見回したショージは、気恥ずかしそうに頭をかく。
「これは心配を掛けてすまなかった。だがこの通り、ピンピンしていますぞ」
「ほほほ、よかったよかった。して……そちらの二人は?」
にこやかに笑っていたはずの老婆の声が、急に重い響きを帯びた。凍りつくような視線が二人に突き刺さる。冷たい汗が額から垂れた。薄いローブ越しではあったが、老婆の眼光の鋭さは二人にひしひしと伝わってくる。
「おばば殿、こちらの方たちは俺の命の恩人です。無体なことはしないでください」
「命の恩人? 霧海で何かあったのか?」
「……繭に喰われかけました」
「な、なんと!」
老婆は蒼い顔をして、腰を抜かした。ショージの周りに集まってきていた村人たちもみな、ショージから一歩離れて驚いたように眼を丸くする。
「……よく生き残れたものじゃ。昔から、あれに喰われたら一巻の終わりじゃというのに」
「その通りです。俺もこの二人に助けられなければ死んでおったでしょうな。ですが、この二人のおかげで生きております」
「なるほどのう……」
老婆は何度かうなずくと、ショージの後ろにいた二人の方へとやってきた。ローブから覗く口元は、心なしか緩んでいる。どうやら先ほどまでと比べると、警戒感は緩んでいるようだ。彼女はゆっくり二人の前に立つと、彼らの方を見上げる。
「そなたたち、名は何と言う?」
「アルクです」
「スーリアよ」
「ふむ、良い名じゃ。わしはウルと言って村で司祭をしておる。どうやら村の者が世話になったようじゃの。神栖の民の祭司として、わしからも礼を言うぞ」
「いいえ、俺たちは当たり前のことをしただけです」
「ええ、むしろ私たちの方こそショージさんにはお世話になったわ。彼と会っていなかったら、霧海の奥で死んでいたかもしれない」
「若いのに謙遜せずともよいわ。追って、村より礼を致すからの」
ウルは腰をそらし、高らかな笑いを上げた。なんとも景気のいい笑い声が、集落全体に響いて行く。アルク達に警戒感を示していた他の村人たちも、彼女につられたのか険しい顔を緩めた。辺りがほのかに温かな雰囲気に包まれる。すると、先ほどから村人たちと話していたショージがゆっくりと彼女の後ろから近づいてくる。
「実はおばば殿、アルクたちのことについて相談が……」
「なんじゃ、言うてみよ」
「アルクたちは、霧症の影響でほとんど記憶をなくしておるようなのです。なので、しばらく村においてやりたいと」
「ううむ……」
ウルはアルク達の方を向くと、品定めするような視線を彼らに向けた。つま先から頭の先に至るまで、彼女は二人の周りを歩きながらゆっくりと見定めていく。ローブから垣間見えるウルの眼は非常に鋭く、射るような眼光を放っていた。二人はわずかながら背筋をこわばらせる。
ウルは硬直した二人の周りをゆっくりと一周して、また正面に戻ってきた。彼女は杖をつくと、こほんと咳払いをする。
「少々変わった格好をしておるが、機人ではないようじゃな。よかろう、しばらく村でそなたたちの面倒をみようではないか。カリン、こっちへ来なさい」
ウルが呼びかけると村人たちの中から一人の少女が進み出てきた。年は十五・六歳前後だろうか。豊かな金髪に陶磁器のような白い肌を特徴とした、なんとも愛らしい少女だ。服装も他の村人たちの物と比べると、気持ち垢抜けているような雰囲気である。
そんなカリンはウルの近くまでやってくると、ぺこりと頭を下げた。ウルはうむうむと機嫌よくうなずく。
「うむ、よく来た。カリンよ、お前がこの者たちの面倒を見るがよい」
「わかりました、おばば様」
「アルクたちもそれで良いな?」
「もちろん」
「私もそれで構わないわ」
二人に異論があろうはずもなかった。そもそも面倒を見てもらえるだけで御の字なのである。二人はほっと息をつき、満面の笑顔を浮かべる。だが、そんな中でショージだけが一人浮かない顔をしていた。彼は何が不満なのか、ウルの方へと詰め寄っていく。
「どうしてカリンなのです? アルク達は私の恩人です、私が面倒を見るのが筋かと」
ウルの杖がショージの頭を直撃した。コーンと快音が響く。よほど痛かったのだろう、ショージは頭を抱えて涙目になった。
「何をするんですかおばば殿!」
「たわけ、おぬしは自分の家がどれほど汚れておるのか自覚がないのか! あんな家に人を泊めたら神栖の恥じゃわい!」
「そ、そんなぁ……」
村人たちの間でドッと笑いが起きた。アルクとスーリアも思わず口を押さえて吹き出してしまう。くすくすっと笑いが伝播して、あっという間に怒涛のような大爆笑となった。ショージは情けなく肩を落として「もう帰ります」と一人でとぼとぼと家に帰る。するとここでウルが、何かの合図のように杖でコンと地面を叩いた。
「さて、わしも祠に戻るとするかの。ちと話がある故、村役たちもわしについてきてくれ」
ウルはそう告げると、中年の男たちを引き連れて去っていった。村人たちは頭を低くして、彼女が立ち去るのを見送る。それが終わると、彼らは三々五々それぞれの家路へとついた。カリンもまた、二人をひきつれて家へと帰っていく――。
集落の端に位置する割合広い屋敷。村の他の家に比べて二回りほども大きいそこが、カリンの家である。村にある他の建物とは違って二階建てであり、アルク達はその二階に部屋を与えられていた。村全体を見渡せる、南向きの風がよく通る部屋だ。部屋にある調度品も質のよさそうな品ばかりで、しばらく住む部屋としては申し分ない。ただし――
「相部屋か……」
アルクとスーリアは二人で一つの部屋を与えられていた。カリンが言うには、他の部屋は長らく使っていないため掃除が行き届いていないらしい。アルクは掃除されてなくてもいいとカリンに言ったのだが、スーリアが相部屋でいいと言ったので結局、相部屋となってしまった。
「なあ、スーリア。本当に良かったのか?」
「もちろんよ。むしろこの方がいい……」
布団を抱いて横になっていたスーリアは、弱々しい声で言った。アルクはフウと息をつくと、ベッドから毛布を一枚剥いでいく。彼はそれを床に敷くと、寝袋よろしくそれに包まった。床には毛足の長い絨毯が敷かれている。そのおかげで、背中はそれほど痛くはない。
「どうしてここで寝ないの?」
アルクが床で寝息を立て始めると、スーリアが寂しげに言った。アルクはハッとして眼を覚ます。
「そんな、女の子と一緒に寝られるわけないだろ」
「…………寂しいの」
スーリアの声は何かに怯えているようだった。暗闇の底から助けを求めるような、切なく哀しげな声。アルクはどきりとした。耳に氷でもぶつけられたようだ。
「このままだと、どこかに消えていってしまいそうな気がするの。眠りの深淵に引きずり込まれるように。リーパーに喰われた仲間のように……。だから、ぬくもりがほしい。今晩だけでいい、私と一緒に寝て」
「でも……」
顔を紅に染めて、アルクは縮こまる。月光に髪を煌かせたスーリアは、えもいわれぬほど魅力的だった。静かな憂いを帯びた翡翠色の瞳。微かな月光の下で陰影を織りなす神秘的な顔の造形。華奢な手足に対して、たおやかで豊かな稜線を描く瑞々しい胸……。少年を獣に変えて余りある美貌だ。
アルクはスーリアからスッと眼をそらせた。するとここで、スーリアがささやく。
「……構わないわ、抱いても」
「えッ……?」
「この見知らぬ世界で、あなたとわたしは二人っきりのようなもの。だからあなたとは……構わない。私もあなたとのつながりが欲しいから……」
言葉は真に迫っていた。口調はおだやかで声も小さかったが、それはさながら魂の叫びのようだ。
二人の間に長い沈黙があった。アルクは息をのみスーリアを見つめる。俺がこの子と――衝突する理性と欲望。捻じれて千切れてしまいそうになる心。少年は複雑に変化していく心を抱えつつも、口を開く。
「……ダメだ! そんなこと言わないでくれ! ……今日は一緒に、寝るからさ」
「そう……」
スーリアは寂しげにそれだけ言うと、布団を頭から被った。アルクは彼女の背中側からベッドに潜り込む。ゆっくりと、細い腕がスーリアを包んだ。アルクの手にほのかな温かさが伝わる。なんとも心地よい、人肌のぬくもりだった。
そうしてアルクとスーリアは、そのまま互いのぬくもりの中で睡魔に身を任せていった――。
第一章完結です。
次回から第二章が始まります。