第五話
男は西洋風のクラシカルな衣服を着こみ、顔にこれまた古臭いガスマスクのようなものをつけていた。年は二十歳前後だろうか。彼は近づいてくる二人を確認すると、くぐもった声で雄たけびを上げる。その身体はすでに背中から繭に飲み込まれかけていた。全身に太い糸が絡みつき、男の身体を繭の中へと引きずり込もうとしている。ズブズブと、男の体は繭の中に取り込まれつつある。
「せーの、それ!」
「ううッ!」
二人は必死にもがいている男の手を掴むと、力任せに引っ張った。だが糸は信じがたいほど強靭で、アバター準拠の超人的筋力をもってしてもちぎれない。逆に、引っ張られたことが糸を刺激したのか男の飲み込まれるペースが速くなった。胴体部分はほとんど飲み込まれ、かろうじて手足と顔が露出しているような状況となる。
「クソッ、こうなったら……」
「待って! それじゃこの人もただじゃ済まないわ!」
「大丈夫、加減するさ」
アルクの右手に炎が灯る。彼は右手を後ろに下げると、ボーリング球でも投げるような姿勢を取った。
「ファイアーボール!」
手から炎が投げられた。炎はまっすぐに飛ぶと、男の身体の脇に着弾した。ボウッと轟音。繭の一部が熱に溶けて、クレーター状の穴が黒く広がっていく。すぐに男の半身が露出した。アルクとスーリアはそこを支点にして、男の身体を一気に繭から引っ張り出す。
「そりゃあ!」
「ッくう!」
転がるように、男の身体が繭から飛び出す。二人は地面に倒れそうになるその身体を、かろうじて受け止めた。
「大丈夫か?」
「あ、ああ……。ありがとう」
男は頭を押さえながら、なんとか自力で立ち上がった。彼はヨタヨタと、辺りにふらついた視線を向ける。そんな男の視線はふとアルクの口元で止まった。眼が見開かれ、顔から血の気が抜ける。
「おいあんた、マスクはどうした!?」
「マスク?」
「そうだよ! こんな場所にマスク無しで居たら、死んじまうぞ!」
アルクとスーリアは困ったように顔を見合わせた。男の言うマスクなど二人は持ってはいない。すると男は慌てた顔をして、背中のナップザックから男のしているのと同じガスマスクのような物を取り出した。彼はそれを、二人の口元に強引に押し付ける。
「お、おい!」
「何をするの!」
「ふう、予備があってよかったぜ。こんな霧海の真っただ中でマスクをしないなんて、全くどうかしてるぞ」
男はほっとしたように肩を落とした。だが、アルクとスーリアにはまったく何の事だかわからない。彼らは男に訝しげな視線を向ける。
「マスクとか霧海とか良くわからないんだが……。一体ここで何が起きてるんだ? ここ、御坂市だろ?」
「御坂市? そいつは傑作だ。この御坂霧海にあるのは街どころか廃墟と森だけだぜ。市なんて大層なもんはねーよ」
「そんな、ここは確かに御坂市のはずだ。三年前まで俺はここで暮らしてたんだ!」
「おいおい……。ここは俺のひいひいひい爺さんの代から霧海だぜ。三年前どころか、大戦期から人間なんて住んでないはずだ」
男の顔はまったく呆れたようだった。アルクとスーリアは、そんな彼の様子を見て眼を丸くする。二人の顔から血の気が引いた。額に深い皺が刻まれ、背中を冷たいものが這う。どうにも嫌な感覚――未開の星に放り出されたかのような、仄暗い孤独感が彼らの心を走る。
「どうした、そんな蒼い顔をして? 霧の吸いすぎでおかしくなっちまったのか?」
「いや、体調は問題ない」
「私も身体は大丈夫よ」
「そうかい。ならよかったんだが。……ところであんたたち、一体どうしてそんな恰好で霧海にいるんだ? 見たところ、冒険者とか探索者じゃなさそうだが」
「それは……」
アルクは言葉に詰まってしまった。上手い言い分けが思い付かない。彼はグズグズと、顔をそらしたりしながら時間を稼ぐ。そうしていると、スーリアが彼の代わりに前に出てきた。
「私たち、記憶があいまいなのよ。だから、どうしてこんなところにいるのかとかよくわからない……」
「ふーん……。記憶がねえ……」
「た、たぶん霧の吸いすぎが原因じゃないかしら? ほら、私たちマスクをしてなかったし……」
スーリアは身振り手振りを交えつつ、必死に訴える。男は考え込むように頬に手を当てた。男の眼光が鋭さを増して、二人の身体を巡る。そうしてしばらくの時が過ぎた――。
「そう言われればありえなくもないな。……よっしゃ! 助けてもらった恩もあることだし、俺がしばらくの間おあんたたちの面倒を見よう。俺の名前はショージ、よろしくな」
「よろしく、俺はアルクだ」
「私はスーリア。よろしく」
破顔一笑、打ち解けた雰囲気になった三人は、互いに固く握手を交わした。自然と三人の顔に笑顔が満ちる。
「さあて、村に帰らないとな。俺について来てくれ」
辺りを見回して、ショージは力強い足取りで歩き始めた。二人はその後にゆっくりとついていく。こうして二人はショージとともに彼の村へと向かったのだった――。
霧の中を歩む三人。すでに日は傾き、薄暗い夜の面影が辺りを満たし始めている。空気はひんやりと冷たくなり肌にまとわりつくよう。アルクもスーリアも、凍てつく寒さをこらえつつ歩を進める。二人は身体を寄せ合い、互いに支え合うようにしていた。だがそれでも、歩く速度はかなり速い。
ショージは二人に追いつかれないように半歩先を早足で進んでいた。そんな彼は、ふと二人の方を振り返る。
「ところであんたたち……」
「なに?」
「やたらとタフだし強いみたいだが、もしかして機人族なのか?」
「機人族? さあ、しらないわ。普通の人間だと思うけど」
「なら良かった。俺の村は未だに『光の教え』に忠実な村でな。機人族のことを嫌ってるんだ」
ショージはほっとしたように肩をなでおろした。アルク達は彼が何を話しているのかイマイチわからないものの、何となく良かったんだろうと思う。三人をにわかに温かな雰囲気が覆った。心配事がなくなったからか、ショージの足が心なしか速くなり、それに伴ってアルク達の足もさらに速まる。
そうして日もとっぷりと沈んだ頃。ようやく霧が晴れてきた。ショージの言う御坂霧海とやらを、間もなく抜けるのだろう。周囲の景色も生命力の無い荒涼としたものから、緑にあふれるものとなってくる。辺りに木々が広がり始め、気がついた頃には三人は林の中の道を歩いていた。
「あの丘を越えれば村だ。頑張れ、もう少しだ」
森が途切れ、小高い丘が見えた。夜の心地よい風にさらさらと草をなびかせた、美しい丘だ。夜露が月光に瞬き、煌くように輝いている。三人はそんな丘にまっすぐにのびた道を、勢いよく駆けあがっていった。
「よし、付いたぞ。ここが神栖村だ」
丘の反対側は峻嶮な崖になっていた。はるか向こうには静謐な水を満々と湛えた湖が広がっている。その崖と湖の間を埋めるように、小さな集落が広がっていた。切り立つ崖を削った僅かな土地にとんがり帽子のような家々が並び、水辺の平野には畑や港も見て取れる。湖からの風を受けるためか、平野には風車もかなりの数が見て取れた。大きな紅い三枚羽根が、風を切ってギイギイと長閑な音を立てている。
「綺麗……」
「凄いな……」
二人は村の景観に息を呑んだ。まるで田舎の原風景とでもいうような光景だ。二人はなんともいえぬ懐かしさのようなものを覚え、その場に立ちすくむ。
「何を立ってるんだ? ほら、さっさと行くぞ」
「ああ、わかった」
「そうね」
二人はハッとしたような顔をすると、ショージについて村の入口へと向かった。こうして、二人はこの神栖村で厄介になることとなった――。