第一話
鼻に詰まるような濃密な埃、漂う黴の匂い。じっとりとした湿気が身体にまとわりつき、不快指数はとうに100%を超えていそうだった。
気がつくと、アルクは暗く陰湿な部屋にいた。かなり広い部屋のようで、そのほとんどが闇にうずもれてしまっている。アルクは寝ていたカプセルから重い身体を起こすと、辺りを見回す。
「……センターかな?」
『エデン』をプレイする人間の大半は、センターと呼ばれる専用施設を利用していた。カプセルは非常に高いので、センターにおかれているものをレンタルするのである。一部の富裕層などはカプセルを自宅に設置しているそうだが、アルクは大多数のセンター派に属していた。
「おーい、誰かいないのか?」
暗闇に向かって叫ぶアルク。だが、返事は返ってこない。どうやら誰もいないようだった。しかたなく、彼は一寸先もまともに見えない闇の中をおっかなびっくり歩き始める。すると、数歩進んだところで何か大きくて丸いものにぶつかった。
「カプセル?」
表面が信じられないほど分厚い埃に覆われているが、それはカプセルのようだった。卵型の、かなり独特の形をしているのですぐにわかるのだ。アルクは恐る恐る、スイッチに手を掛けて蓋を開く。運が良ければ、生存者が出てくるはずだ。もし運が悪ければ――死体が出てくるだろうが。
「えっ?」
カプセルの中身は、アルクが想像していたようなものではなかった。白い、さらさらとした粉のようなもの。時折ごろっと小石のような塊が混じっているそれは、パッと見ただけでは正体がわからない。アルクは何だろうと思い、手ですくい上げてみた。すると――
「骨……」
粉のような物の中に、棒のようなものがあった。それを見た瞬間に、アルクは正体を察する。人骨だった。風化してもはや形もろくに保っていないがそれは紛れもなく、人骨だった。『エデン』の中でアンデットモンスターを幾度となく見た直人には、それがはっきりとわかる。
「な、何が起きたんだ?」
骨が形もなくなるほど風化するには、どれほどの年月が必要だろう。アルクは理系ではないが、それがたった数年の間には起きないことぐらいはわかる。どう考えてもこの骨の主は、数十年前には命を落としていなければならないはずだった。
誰もいないセンター。得体の知れない白骨。心の中を黒いものが満たしていく。アルクは勢いよくカプセルの蓋を閉めると、ドカドカと足を踏み鳴らすように歩き始めた。肩で風を切るその様子は、恐怖を前に虚勢を張っているようだ。
そうして歩き出すと、すぐに彼は壁にぶつかった。ドーンと音が響き、コンクリートの壁が崩落する。壁の風化もまた、恐ろしいほど進んでいるようだった。彼は不安にさいなまれながらも、壁の向こうへと出る。すると、そこもまたカプセルがおかれている部屋だった。ただ、先ほどまでとは違いわずかに明るい。
光の正体は苔だった。緑色の苔が、夜光塗料よろしくかなりの明るさで光っている。それが風化して白くなった天井や床を照らしているのだ。アルクはその光に吸い寄せられるように、苔へと近づいて行く。
「ヒカリゴケ……?」
ヒカリゴケ。『エデン』のダンジョンなどに多くみられる植物だ。おもに松明の代わりとして使用されるもので、アルクもそのお世話になっている。しかしそれが、なぜセンターに生えているのだろうか。アルクは興味の赴くまま、ゆっくりと光に向かって手を伸ばす。その時――
「動かないで。そこにじっとして」
背中に冷たいものが突きつけられた。とっさのことに、アルクは後ろを振り向こうとする。が、頭を手で押さえられてしまった。
「な、なんだよ! いきなり何を!」
「静かに」
「おい、ちょっと」
顔も姿もわからぬ声の主は、そのままアルクを床に座らせた。声の高さからすると、少女だろうか。彼女はアルクの頭を地面に押し付けると、その身体の隅々まで手でたたく。執拗なほどていねいに、さながらどこかのボディチェックのようだ。
そうして局部までも確かめられたところで、少女のはっという息がアルクに聞こえた。彼はやっと済んだかと肩を撫でおろす。
「驚いたわ。あなた、モンスターじゃないのね」
「そんなわけないだろ! 大体モンスターってなんだよ、ここは現実だろ!」
アルクは自分でも驚くほどの力で手を振りほどくと、声の主の方を見た。アルクの眼が見開かれ、思わずはっとする。
声の主はアルクの予想通り少女だった。しかも、天使のように神々しく美しい。銀色の髪はかすかな光に透け、処女雪のような肌は煌かんばかりに輝いている。顔立ちもそれに見合う奇蹟的な造形で、非の打ちどころがなかった。背筋がゾクっとするほどの美少女――これにあったのはゲームでも現実でも初めてだ。彼は思わず、言葉を失う。
「……あなた、名前は?」
「えーと……」
少女の問いに、慌てて答えようとするアルク。だが驚いたことに、彼は現実での名前が思い出せなかった。十数年間呼ばれ続けてきた、自分の名前がである。まるでその部分だけ抜き取られてしまったかのように、記憶が抜け落ちている。
「あなたも名前が思い出せないのね。……プレイヤーネームでいいわ」
「アルク。一応、星空の夜明けってギルドのマスターをやってた」
「あなたがアルクなのね! 私はスーリア、あえて光栄よ」
冷たい顔をしていたスーリアが、始めて笑った。彼女はアルクを立ち上がらせると、ほっと息をつく。
「ふう、ちょっとだけ希望が見えてきたわ。今ちょうど、モンスターの群れに襲われてたの」
「だからモンスターなんて……」
「チッ、見つかったわ!」
アルク達の後ろの物陰で、衣擦れのような音がした。二人が振り向くと黒い影が眼に飛び込んでくる。黒いローブを身にまとい、鈍く輝く大鎌を掲げる骸骨。ヒカリゴケの光に照らされた影は、そんな姿をしていた。
「リーパー……!」
リーパー、通称『死神』。『エデン』において最もたくさんのプレイヤーを殺したとされるモンスターと同じモンスターが眼の前に現れた――。